通り抜けて既知未知

あらすじ
 高校受験を目前に、日々の抑圧的な空気に嫌気が差した学生は学校をさぼり、幼い頃に遊んだ山へとやって来た。そして幼い頃には恐ろしくて入ったことのなかった、山を抜けるトンネルへと侵入する。その先に待つものとは……。


 想起する。
 抑圧と解放の対比を。
 放棄する。
 課せられた義務と当てつけの未来を。
 体感する。
 しばしの自由と断片的な自然を。
 回顧する。
 小学生の頃に遊んだ際の記憶と、このトンネルとの思い出を。
 住まう街の末端、人気が全くない県境にそびえる山その麓から抜ける、寂れ忘れられた小さなトンネルの中を、僕は歩いていた。
 どうしてかといえば、逃避。
 高校受験が迫っていることは百も承知。学生という立場であるし、日々教室内ではその話題しか耳にしなくなったというほどにはタイムリィ。
 母の方針で、中学校に上がる為にすら受験を経験した身としては、ああ、またか、と思うことしきり。
 勉学に時間と労力を投資することは苦ではない。特に好きなスポーツなど無く、実際に行うも観戦するも同様に興味が湧かないので、記号や年号、科学的な知識や数式の使い方を暗記し、理解し、今後の人生に役立てる方が有意義であると僕自身感じる。
学ぶことは嫌いではないし、分かる、判る、その積み重ねで先へ進む、というプロセスには、確かな達成感と満足が得られる。
無駄ではない。
無為ではない。
当人としても納得のうえ。
しかし、やはりというべきか、物事には限度というものがある。
 ほんの少しの自由時間すら与えられず、スマートフォンでネットを巡回することすら悪だと決めつけられ、頭ごなしに中身のない説教を押し付けられて、学校と塾と自宅のベッドだけを行き来することが常態化し、毎日重たくなった頭のまま過ごせ、これだけが正しい生き方だ、勉学に励む事だけが息子として生まれてきた人間の姿であり、それ以外は認めない、自己選択など微塵も許さない、と過度な抑圧まで強いるというのであれば、いかに相手が育ての親であり、教育の指針を定める立場の母親であっても行き過ぎというもの。
 つまりは、ここにきて、反抗したくなったわけだ。
 齢十五にして爆ぜた、遅い反抗期。
小さな自由を求める衝動。
 物理的・精神的な洗浄性再始動。
 走り続けるには、休息が要るから。
 それを母に理解して欲しくて、その反抗として、抵抗として、きっかけとしての意思表示。
 加えて、自分自身の慰労も兼ねて今、此処にいる。
 トンネル内をひた進む。
 足元には何も無い。構造は水平。微細な凹凸すら感じられない。恐ろしいと評しても差し支えないほどに整然としている。
 対して、壁面と天井は自然との融合が始まっている。湿度に満ち、あちこち結露が見られる。無施錠かつ不用心であったトンネル入口から入り込んだか、壁面各所は緑の蔓に浸食され、すだれ髪のように上から下へとぶら下がってもいる。
 でも、それくらいだ。
 目立つものは無く、当然、誰もいない。
 独りでやって来たから、人間は僕のみ。
 逃避は独りの方が良い。誰かを巻き込むのは性に合わない。今だけは放っておいて欲しい、という気持ちもあった。
 ひた進む。
 もうすぐ最奥。
トンネルは長くない。
規模は小さく、目立たない。
車で入ったならすれ違えもせず、中でターンすることが叶わないほどの狭さだ。
足を踏み入れ、向こう側を目指し始めたその場所から既に、うっすらと奥に光が見えるほどに。
その程度の長さしかなく、大したことはないのだと、子供心に解していながらも。
どうしてだろう? トンネルの最奥まで到達したことが、これまで一度もなかった。
 自己分析してみるに、単純に怖かった、という理由が先行する。
中央ほど暗いし、見知った場所、自分のテリトリと認識しているエリアから踏み出し、他へと侵入するのは、たとえば数歩、ほんの数ミリであったとしても抵抗を覚えるもの。
加えて、言い表すのなら、そう。
どうしてだか、自ら制したのだ。
まだ、入り込んではいけない、まだ、その時ではない、そんなふうに思った。マナー違反だ、とすら思った。一体何が違反なのか、理屈で理路整然と説明することは難しい。突発的な発想だった。不可思議な感覚的ストッパが自分の中で働き、僕が最奥へと辿り着くことを押し留めた。
だから、ようやく見れる。
ついに、知ることが叶う。
何があるのか、という未知。
今の自分が知るものとの比較、既知との対比、目にした際に理解が及ぶかどうか、という挑戦。
学生ふうに言うなら(現役の学生ではあるけれど)、答え合わせができるわけだ。
辿り着く。
踏み出す一歩。
境界線を越える。
トンネルを抜けて。
その先へ。
一見して、そこは森の中だった。
トンネル内よりも明るく、とにかく緑色が大半を占める。
湿度は無く、爽やかな空気と、緩やかな風がある。
どこからか、潮風のような匂いがした。
そんな、と独り笑う。ここは山奥。
歩き進むほどに文明から遠のく。
大地を踏み、草の感触が勝る。
緑に囲まれ、自由に浸る。
深呼吸をして、笑う。
これが欲しかった。
開放されている自覚。
束縛とは無縁の景色と。
圧を奏でる者達の明確な不在が。
ずっと欲しかったのだ。長らく、ずっと。
周囲を散策しながら、腰かけるのに丁度良い場所を探す。
スクールバックの中には弁当が入っている。それを広げて、ここで食べようと思った。
トンネルが目視できない辺りまで入ると、大量の木材らしき茶色が山積みになっている箇所を見つけた。
そこへ近づき、観察する。
どうやら、取り壊した家屋や、解体したビルなどの内部支柱、塗装がまだ残る木製外壁等を集め置いているらしい。ということは、ここは解体資材置き場か、廃棄物処理場近くの一時保管場なのかもしれない。
会社の私有地や、国の管理土地であるならば、入り込んでいる現在、関係者に見つかると怒られるか、最悪、学校や両親へ連絡がいってしまうだろう。そのリスクがすぐに念頭に挙がったけれど、いかんせん今の僕は、受験や母からの圧力から一時的に開放されている状態であり、その解放感と、この自然山中独特の空気にもっと長く浸っていたかったため、すぐにトンネルへ引き返すというようなことはしなかった。ようするに、気が大きくなっているのだ。
地面にめり込むような形で置かれている木製柵のようなものを見つけた。
腰かけてみると、実に丁度良い高さと抜群の安定感だったので、ここで弁当を食べることに決めた。
スクールバックを開け、弁当を取り出し、箸を付けながら、周囲を見回す。
静かだ。
風はあるので、木々が揺れる音はする。
でも、それくらい。
鳥の鳴き声はしない。虫も鳴いていないし、見える所にはいない。これは有難いこと。
僕以外、誰もおらず、何も起きない。悪い変化が一切ない。素敵な状態だ。
滞りなく弁当を食べ終え、それを片付けながら、ふと。
後ろを振り向いてみた。
自分が腰かけていた場所。
それが何かを、改めて見た。
認識する。
違和感。
それは、船だった。
形状的にみて、小型の漁船だと思われる。
古びているし、所々錆びてもいる。見た目に分かるほどには痛んでいる。
けれど、おかしいではないか。
至極、当然の疑問。
どうして漁船が、こんな山奥にある?
解体するから、木製だから、という理屈は一応、通るだろう。船は一部木製であるのが常だし、解体業者が自社の管理する敷地へ解体を依頼されたものを運ぶのは通常業務の一環である。
しかし、それにしたって限度がある。
山奥に運ぶだろうか? 漁船を? 海から? 何に乗せて? 運搬だって無料ではない。人手も労力もコストもかかる。実行するなら、できるだけ海辺で済ませようとするだろう。少なくとも、こんな所へ運んでこなければならない理由はない。
よほど他者に知られては都合が悪い場合か、常ならぬ理屈が絡まぬ限りは……。
不審に思った僕は、この廃漁船を中心にして、周囲を改めて探索してみた。
すると、不審なのは、この廃漁船だけではないことが明らかとなった。
先程目にしたのは、家屋の端材や、解体したビルの残骸と思しきコンクリート片や割れた大き目の木製柱、塗装が残る木製外壁、日本語が書かれた宣伝用の汚れた看板などであったが、それらは一部に過ぎなかった。
よくよく確かめてみれば、それ以外にも沢山の物品が転がっていた。
布団、炊飯器、洗濯機やノートPC、電子レンジや勉強机、事務用品をあらかたぶちまけたような小物の数々に、金庫やシャワーヘッドまで見つけた。果ては、斜めに崩れかかった一軒家まで。
これは流石に異常だ。
過剰だ、とも感じた。
やはり、廃棄物処理場ということか? ここが捨てる場所そのものである、ということ?
山中へ直接投棄または放棄するのは違法ではないのか? そうだとして、漁船や一軒家をそっくりそのまま運んできた、その手法は?
解せない。
おかしい。
どうにも変だ。
理屈に合わない。
僕は、焦燥を覚え始めていた。
疑問も当然であり、不明に対する恐怖も妥当であるだろう。
でも、それ以上に、焦り始めていたのだ。
どうしてか、と自問してみても、分からない。
とにかく、早くしなければ、と焦っていた。
見つけなければ、理解しなければ、と突き動かされていた。
そう、違和感にせっつかれながら。
当てなどないはずなのに、探していた。
何を、と考えて。
その答えが、目の前にあると気づいた。
見覚えのある建造物が、見たことのない状態で、存在している。
僕の自宅。
飛び出してきた一軒家が。
まるで砲撃にでも遭ったかのような有り様となって、捨て置かれていた。
一体どういうことかと混乱しつつ近寄り。
本来であれば玄関前にあるはずの仕切り門を超えたところで。
書かれた文字を頭が認識した。
正確には、非常に短い文章だった。
簡潔で、そのおかげで、パニック寸前の今の僕にも理解できた。
発想する。
連想する。
精査する。
可能性を考える。
突拍子もないと否定する自分と。
辻褄は合う、と納得した自分と。
そんなことなどあり得るはずがない、と発言するリアリストな僕と。
不可思議ではあるけれど、万が一にも現実だったら? と問う僕が。
せめぎ合う。僕の頭の中で。全員が僕なのに、意見がまとまるまで、かなりの時間がかかった。
とりあえず、引き帰すことに決めた。
トンネルを抜けて、街へと戻ろう。
そこで調べ物をして、それから決めよう。
その後の行動を、誰にどう告げるかを。
スクールバッグを背負い、小走りでトンネルへと向かいながら、目にしたものを反芻。
まさか、とは思う。
個人的な想像、発想の飛躍、一方的な連想である。
ただ、もしも、この非現実的な予想が当たっていたら?
この不思議な場所は、思い出のトンネルを抜けた先が。
少し先の未来だったとしたら?
大量の残骸達は、僕が住む海沿いの街の成れの果てで。
故に僕の自宅も、あのような有り様であったのだとしたら?
先程、目にした、自宅だった残骸の玄関扉。
そこへ彫り込まれるように書かれていたのは。
今年の年号。
暦は今月。
来週の日付。
文言は『津波』。

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