新しい誕生日

あらすじ
 パーソナルトレーニングジムで働くトレーナの女性は、社会の抑圧と日々の労働に疲れ、社会の仕組みにも辟易していた。そんな中、ジム内でこれまでにない揉め事が起きてしまい……。


「人生に満足していますか?」
 かけられた声に反応して顔を向けると、そこには壮年の男性が立っていた。
 静かな笑みをたたえた、どこにでも居そうな、大人しい恰好の男性。
 でも、今しがた私にかけた言葉の内容的に、宗教勧誘か、マルチ商法の営業に思えたので、私は顔を背けて無視することに決めた。
 けれど、その男性は再び、私に話しかけてくる。
「お仕事に不満があるのでは?」
「その不満は、働く大半の人間に当てはまりますよ」
 顔を背けたまま、しかし思わず応えてしまった。
 疲れているせいだろう。これから出勤だというのに頭が重い。昨日の仕事疲れが取れていないせいだ。
「ええ、確かに、貴女のおっしゃる通りです」
 不審な男性は静かに頷き、私の返答を肯定した。
 まいったな、変質者の相手をしてしまった。おまけに、近くには誰も歩く人が居ない。いざとなったら、信号待ちをしている車の中の人達に助けを求めるか、自分で自衛するしかないな、とげんなりする。
 朝の横断歩道、その信号待ちをしているタイミングだった。
 私を起こすために鳴ったスマートフォンのアラームを乱暴に止めて、眠気と疲労でまともに動かない身体を叱咤して身支度をして、嫌々マンションの自室を出て来たところだった。
 通勤したくないと思いながら通勤している途中に、これである。
 勘弁してよ、と内心嘆きながら、もういっそ、勘弁してください、とそのまま告げてやろうか、と発想。
 私はこんなに疲れているのだから、私は相応に追い詰められているのだから、多少大きな声を出しても許されるだろう、社会人は毎日辛いのだ、そんな働く者を追い詰めるような真似をすれば、どうなるか、見せてやってもいいのではないかと、そんなふうに思いついた。
 本当に、疲れているせいだろう、と自己分析する。人は疲労と寝不足と空腹の状態が、最も攻撃的な性質を顕現させる瞬間なのである。
「そう、その攻撃性と、自分自身を開放へと向かわせる先導性、そして一握りの狂気こそが、人間の本質であり、楔を断ち切った未来、在るべき純粋感情なのです」
 男性が初めて表情を変化させた。
 嬉しそうな笑み。
 不思議と不快感はなかった。
 その文言の内容で、どうして笑えるのだろう、という疑問と。
 先程までのイラついた私の心情を見透かされたような驚きと。
 あとは、そう、怯んでいたと思う。
 隣に立つ、この男性に。
 ただの不審者ではない。
 女性にセクハラがしたい人間でもなさそう。
「宗教勧誘の方ですか?」
 残る疑問を、そのまま本人へ向けて提示してみる。
「いいえ、私は無神論者です」
 男性はゆっくりと首を左右に振って、私の問いに解答を述べる。
「むしろ、アンチクライスト寄りですね」
「それは、どういう意味の言葉ですか?」私は聞く。
「神など存在しない。神は人間にとって都合の良い想像である、という考えの者です」
「ああ、なるほど」
 私は頷いた。いつの間にか、普通に会話をしてしまっている。
 ここで、ずっと赤だった信号が変わった。
 話し続ける理由もないので、私は、では、と告げて歩き出そうとした。
 変な人だったな、と早々に回想を始めながら。
 距離を取ろうとした。
 これで終わる関係だと。
 流れ去る人の群れ、その一端であったと割り切ろうとした。
「どうして私が、貴女に話しかけたのか、その理由だけ、気になりませんか?」
 立ち去ろうとした私の背に投げかけられたその言葉。
 その匂わされた疑問と解答に対して、私の好奇心は刺激されてしまう。
 どうしてか、という疑問と答え。
 それは、そうだ。
 知りたいかどうかといえば、知りたいに決まっている。
「理由を素直に教えてくださるのですか?」
 少しだけ振り返って、私は聞く。
「貴女の中に狂気性が見えたからです。そして、それがすぐにでも、表層に表れてしまいそうでもあったからです」
 男性は笑顔でそう述べた。
「狂気? 私、狂ってなんていませんげど」
 心外だ、とばかりに、私は思いきり眉根を寄せてみせる。 
「ええ、今はまだ、そうですね」
 男性は頷き、そして言葉を続ける。
「不満を溜め込み、社会にうんざりして、しかし救済の神など存在せず、人は人同士でしか助け合えない。そんなところまで追い込まれてしまった者は、はたして生まれ変わる以外に、救いがあるでしょうか? しかし、新しく生まれるには、一度、死を受け入れる必要がある。でも、それは絶対的な法則でしょうか? 人は、死なずとも、新しく生まれ変わることができるのでは?」
 ちらと見る。
 信号が点滅し始めた。
 でも、気になる。
 今の、男性の文言が。
 人は、生まれ変わることで救われる。
 その生まれ変わりは、たとえ死なずとも、生きたまま、叶うのだと。
「つまり、リセットする、という意味ですか?」
 どうしても聞きたい部分だけを抽出して、質問に落とし込み、投げかけてみる。
「あるいは、更新ですね」
 男性は笑顔でそう答えた後、御急ぎでしょうから、また会いましょう、貴女が望むなら、と言い残して、横断歩道を渡らなかった。
 私は急ぎ足で渡り切り、そして振り返った。
 男性の姿は、そこになかった。
 いつの間に消えたのだろう。
 そして、今のやり取りは、何だったのだろう。
 どんな意味があったのか。
 どうして私に語りかけたのか。
 やっぱり、ただのセクハラで、意味深な言葉を用いて、若い女性と話がしたかっただけ?
 でも、その内容は、私の興味を惹くものだった。
 意識を引かれた、と評してもいい。
 あの人は、私の何を知っていたのだろう?
 人生の何を、人間のなんたるかを、知っているのだろうか?

 私の職場であるパーソナルジムには、予定通りの時間に到着できた。
 しかし、この職場こそが、現在の私を悩ませ、苦しめる諸悪の根源である。
 羅列してしまえば、辟易する理由は単純でありふれたもの。
 先輩女性社員、私より二十は歳上の、所謂御局からの嫌がらせと、若いというだけの一部分に対して向けられる嫉妬。
 男性利用者達からの言語的・物理的セクハラ。
 それに苦笑いしながら、どうにか対応していると、男性の同僚が助けてくれるけれど、その男性職員は私に気があるらしく、下心が救助の動機であり、そんな一連の様子を見ていた、また別の先輩女性社員達が、私のころを、下品だの、男たらしだの、色目を使っているだの、仕事が不真面目だのと難癖を付けてくるのである。
 もう、本当に、うんざり。
 どうしてこんな、中学生みたいな感情のやり取りその渦に巻き込まれなければならないのか。
 仕事なのだから、それだけを割り切ってこなせないのか?
 仕事とは本来、そういうものではないのか?
 大人とは、それができるようになった者を指す言葉ではないのか?
 トレーナとして働けるようになるまで、それなりに努力をした。
 大学も出たし、資格だって色々取った。ジムトレーナがだらしない身体をしていては、どんな科学的で理屈に沿った理論でも説得力がないだろうと考え、私自身も筋トレを頑張っているし、体型だって維持している。
 でも、そんな努力が裏目に出て、身体がいやらしいだの、誘惑しているだの、そのつもりなんだろうとか、セクハラと嫌味の効果しか生まないでいる。
 仕事で過剰に疲れるのだって、こうしたしようもない人間関係のせいでのしかかる精神的過負荷と、やたらに押し付けられる雑務、そして勤怠に打ち込めない残業のせいだ。今時、こんな扱いが世間にバレたら、すぐに問題になるとは考えないのだろうか?
 本当に無知で、頭が悪い人達ばかり。
 どうして仕事を仕事としてこなし、社会の規範に沿って動く、というだけのことができないのか?
 どうでもいいいじめや、嫌がらせや、性欲に突き動かされて、愚かな振る舞いばかりをしてしまうのか?
 私には、理解が出来ない。
 辞めるしかないな、と思う。
 幸い、私はまだ若いし、資格も努力した甲斐あって、有用なものを持っている。こんな職場だけど、勤めただけあって、職務経歴自体はできた。あとは、働く場所を変えるだけ。その行動一つで、きっと救われるはず。
 そのために、丁度良い時期まで、こうして耐えている。
 それが、今の私。
 これが、今の私の人生。
 辛くて、変えたい、変わりたい、と願う日々。
 今日だって、他の日と遜色がない。
 出勤と同時に、格好と体型に対して嫌味を言われ、業務が始まれば、男性利用者達からセクハラが始まる。それを間に入って止めに来る同僚の男性職員。その素早さと感知速度は驚異的で、地獄耳かと思うほど。
 ただ、いつもと違ったのは。
 男性の同僚が、セクハラされている私と、セクハラしてきた男性利用者の間に入った途端、そのうちの一人の男性利用者が怒ったこと。
 その人の様子は文字通り、火が点いたかのような怒りようだった。
 曰く、何度も何度も間に入られ、私との会話を阻害され、単なるスキンシップ(実際は私の肩を抱く、私のおしりを叩くなどのアウトなセクハラであるが)にすら苦言を呈され、自分よりも若くて身体もだらしない若造に説教されるなど、もう辛抱ができない、という内容だった。
 何を身勝手なことを、と私は飽きれながら、こういうケースの場合は、警察へ通報してもよかったはずだと、暗記している対応マニュアルを思い出していた、その時だった。
 その激怒していた男性利用者が、同僚の男性職員の胸ぐらを掴んだ。
 同僚の男性は抵抗したけれど、体格がまるで違う。
 男性利用者の方が筋肉量が多いし、身長も高い。目算185cmはある。
 その体格差で掴み合いになれば、結果は言うまでもない。
 男性職員は投げ飛ばされてしまい、ベンチプレスの器具セットエリアへ叩きつけられた。
 ああ、これは考えるまでもなく、警察へ通報だ、と判断し、私は走ってその場から離れ、電話がある事務所へ入ろうとした。
 しかし、その事務所から、例の御局の先輩女性が通路を塞ぐ形で出てきて、今の音は何か、何事が起きているのか、と状況を理解せずに聞いてくる。
 私は苛立ちつつも、端的に先程のやり取りと緊急事態であることを説明したが、それを聞いた御局の先輩女性社員は、それは貴女が悪いわよ、貴女が利用者さんに謝罪してことを収めなさい、あの同僚の男性職員も自業自得な部分があるわ、これまでもしつこく利用者さん達との間に入り、会話や、やり取りを
遮ってしまっていたのだから、怒られたのなら先に謝るのが筋でしょう、などと頓珍漢な屁理屈を述べた。
 話が通じないと判断した私は、御局の女性社員の意見を無視し、警察へ通報するために事務所へ入ろうとしたけれど。
 背後から襟首を掴まれた。
 すごい力で引かれ、フロアの床に引き倒される。
 目を向けると、恐ろしい表情をした、先程激怒した利用者の男性。
 正気じゃない。
 そう感じ取った。
 身の危険も察知。
 私は跳ね起きてこの場から逃げ出そうとしたけど、すぐにまた服を掴まれる。
 今度は、制服のポロシャツを引き千切るように脱がされた。
 私の上半身が、下着とキャミソールだけになる。
 これは、まずい。仕事がどうとか言ってる場合じゃない。自分の身が危ない。
「助けてください! 警察を呼んでください!」
 他の利用者達へ向けて、私は叫んだ。
 しかし、誰も動かない。
 フロア内に居るのは、全てが男性利用者で、先程からこれほどの大事が起きているにも関わらず、静観しているばかり。
 本当に誰も動かない。
 こんなことってある?
 信じられない思いで愕然とし。
 思い出して、背後を振り返る。
 御局の先輩女性は、冷ややかな目で、私を見ていた。
 事務所への出入口を立ち塞ぐようにしたまま、動かない。
 通報しないつもり?
 こんな時にまで、個人的な嫉妬?
 そんなに私が嫌い?
 どうにでもなれ、って?
 その姿を見て。
 この状況に陥って。
 見捨てられたと理解して。
 傍観するばかりで行動しない者達の無責任さに。
 当てつけがましい個人的な憎しみの憂さ晴らしに。
 怒りを覚えた。
 吐き気がした。
 生理的嫌悪もそうだけど。
 頭にきたから。
 比べるまでもない。
 何と?
 聞くまでもない。
 常識や、モラルや、正義や、道徳や、規範や、人としての有り方についてだ。
 まるで内臓まで腐敗した外道ではないか。
 筋肉を鍛えに来ているのか、私の身体を眺めに来ているのか知らないが、あんまりではないか。
 ここまで非常識が浸透しているのか?
 この空間だけが異常なのか?
 立場や常識が都合良く自分だけを守り、何をしても許されると勘違いをしている。自分の行いの非人道的さからは簡単に目を背けて。
 人間とは、これほどまでに無関心で、自分勝手で、最悪の存在に成り下がれるものなのか?
 外道の精神ではないか。
 錯乱しているではないか。
 それは、私が?
 そうかもしれない。
 でも、私だけではないのも、また事実。
 眼前に広がる最悪の光景が、その証左。
 変わり始めている。
 そう自覚できた。
 音を立てながら、凄まじい勢いで崩れ始めた。
 踏み止まっていただけだったのだ。
 ぎりぎりの縁で、どうにか、片足だけでも。
 次はない。
 先もない。
 この後はない。
 二度目はない。
 長く保つような条件ではなかった。
 今に壊れてしまいそうだった。
 小さなきっかけ一つあれば。
 その一つだけで、すぐにでも。
 さっ、と。
 ぱっ、と。
 壊れてしまえたのだ。
 私の身体へと覆い被さるように近づいてきた男性利用者の目を狙って、私は自分の首からぶら下げていた社員証を当てがい、それを真横に引いた。
 悲鳴が上がる。
 その男性利用者の悲鳴である。
 目を裂いたのだから、当然だ。
 次いで私は立ち上がり、低い棚に収められたスチール製のダンベルのところまで歩いて移動し、それを手に取り、痛みに悶える男性利用者の頭部を、それで殴りつけた。
 一度目ではよろめいただけ。
 二度目で倒れた。
 三度目で、骨が割れる音がした。
 四度目で、痙攣し始めた。
 死んだかもしれない。
 いや、違うな。
 私が殺したかもしれない。
 だから?
 知らないよ。
 どうでもいい。
 顔を上げる。
 フロアに居て、何もしなかった者達が皆、私を注視していた。
 だから?
 こういう時だけ、一体感があるよね、あなた達。
「役立たず」
 なるべく大きな声でそう告げてから、私は振り向く。
 目が合うと、御局の先輩女性が、ひっ、という声を漏らしつつ、一歩下がった。
 下がるなら、最初から下がってよ。
 通報しようとしたのに。
 邪魔ばかりしてさ。
 私は歩き近寄って。
 御局の先輩女性の頭も、手にしたままだったダンベルで殴りつけた。
 回数は五回。
 特に決めていたわけではない。
 ただ、これまでのイライラが溜まっていたから、先程よりも回数が増えただけ。
 良かった、身体を鍛えていて。
 多少重いはずのダンベルだって、こうして簡単に扱える。
 人間の頭を割るのだって簡単だ。
 人間ではなくなってしまうのだって簡単だ。
 これは、今、初めて知ったこと。
 でも、自業自得だよ。
 私も、皆も、同じだよ。
 守れないのだ、モラルを。
 従えないのだ、規範など。
 完璧ではない法律なんて。
 惨めな価値観に染まって。
 思考も自我も制御されて。
 自分を殺すことが正義で。
 苦笑いをすることが大人。
 自由を求める姿は未熟児。
 心から微笑むのは政治家。
 一部の者達へと継承され。
 けして分配されないのだ。
 富も、自由も、正義すら。
 打ち捨ててまで従うのか?
 どうして? その理由は?
 答えはシンプルで明白だ。
 狂っているのだ、全人類。
 正常な者が道を外れるのではない。
 狂気に堕ちている者の中から、極稀に、正気に返る者がいる。
 それだけのこと。
 それが私であっただけ。
 ダンベルを投げ捨てて、フロアを出る。
 更衣室へ入り、服を着替える。
 帰るのだから、当たり前。
 ロッカに付けられた小さな鏡で、自分の顔を見て。
 ふき出してしまった。
 顔に血が飛んできた感覚はあった。
 でも、こんなに沢山飛んできているとは思っていなかった。
 想像以上に真っ赤だったのだ。
 せっかくだから、と首まで塗り広げる。
 それらしいではないか。
 メイクと同じだ。
 完成度が重要。
 バランスも見なくちゃね。
 バッグを手に取り、ロッカを閉める。
 もう二度と来ることはない職場。
 最高に清々する。
 更衣室を出て、建物内の廊下を歩き、ジムを出た。
 爽快。
 違って見える。
 世界丸ごと、異なるように映る。
 よくあることなのだろう、こういう心理変化など。
 けれど、真理に触れた者達は、その一度目で精神が耐えられなかったから、押し込めてしまうのだ。
 気が触れてしまう、と慄き、自分自身の人格が成長することを拒む。
 変容してしまう、と勘違いをするのだろう。
 知らないだけなのだ。
 触れる前から、逃げ出してしまっているだけ。
 真理や狂気の本質を視るなど、そんな真似をすれば、命を取られるよりも恐ろしい目に遭うと、社会的な制裁や、再起不能の現実的な未来を想起して、背を向けてしまう。
 自らが創り出した幻想による、可能性の死だ。
 なんて勿体ない。
 世界はこんなに綺麗なのに。
 人間は、これほどまでに自由であるのに。
「おはよう。また会ったね」
 私は笑顔で声をかける。
 視線の先には、朝会った、あの壮年の男性。
「お車を用意しておきましたよ」
 彼も笑顔で応じてくれる。
「お車といえば、リムジンじゃないの?」
 私は目の前の車の窓硝子を自分の肘で叩き割りながら言葉を返す。
「いいえ、時代は軽自動車ですから」
 彼はさらりと述べた。相変わらず面白い人。
「じゃあ、行こうか」私が言う。
「ええ、お供します」彼が頷く。
 軽自動車に乗り込んで、ジムの専用駐車場から滑り出る。
 運転席の窓を開け、片手を出してから、私はサイドミラーに映る最低な職場だった場所へ向けて中指を立てて叫んだ。
「HAPPY BIRTHDAY!」

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