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命の一回性と二人称の死~『なめとこ山の熊』を巡る思索

宮沢賢治の『なめとこ山の熊』は、自然や生き物と人との関わり、そして「死」の意味について考えさせられる深い物語です。ここでは、小十郎と熊の物語を通して、「命の一回性」「死の三つの視点」について、哲学的に掘り下げていきます。

第一章:死をどう捉えるか ― ジャンケレヴィッチの「三つの死」

フランスの哲学者ジャンケレヴィッチは、「死」を三つの観点から分類しました。

1. 一人称の死
自分自身の死。私たちにとって最も近いはずなのに、実際には経験することができません。死後、自分を悼むことや後悔することもできないため、抽象的な「死」として捉えられます。
2. 二人称の死
近しい人の死。私たちが最も心に深い影響を受けるのがこの死です。友人や家族が亡くなったときの痛みは、私たちにとって生々しく、死の現実を突きつけられる瞬間です。
3. 三人称の死
関わりの薄い人の死。ニュースで見る「○名が死亡」というように、数として記号的に扱われる死です。この死は他人事として受け止めることができるため、私たちの心に及ぼす影響は限られています。

第二章:『なめとこ山の熊』における死の変化

小十郎は猟師です。日々、熊を撃ち、生活の糧を得ています。小十郎にとって、最初は熊の死は「三人称の死」に過ぎません。ただの「仕事」として熊を殺し、命を奪っていたのです。

熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえも射たなけぁならねえ。

『なめとこ山の熊』、宮沢賢治、青空文庫

しかし、ある出来事が彼の心に変化をもたらします。

「どうしても雪だよ、おっかさん谷のこっち側だけ白くなっているんだもの。どうしても雪だよ。おっかさん」
 すると母親の熊はまだしげしげ見つめていたがやっと言った。
「雪でないよ、あすこへだけ降るはずがないんだもの」
 子熊はまた言った。
「だから溶けないで残ったのでしょう」
「いいえ、おっかさんはあざみの芽を見に昨日あすこを通ったばかりです」
 小十郎もじっとそっちを見た。
 月の光が青じろく山の斜面を滑っていた。そこがちょうど銀の鎧のように光っているのだった。しばらくたって子熊が言った。
「雪でなけぁ霜だねえ。きっとそうだ」
 ほんとうに今夜は霜が降るぞ、お月さまの近くで胃(コキエ)もあんなに青くふるえているし第一お月さまのいろだってまるで氷のようだ、小十郎がひとりで思った。
「おかあさまはわかったよ、あれねえ、ひきざくらの花」
「なぁんだ、ひきざくらの花だい。僕知ってるよ」
「いいえ、お前まだ見たことありません」
「知ってるよ、僕この前とって来たもの」
「いいえ、あれひきざくらでありません、お前とって来たのきささげの花でしょう」
「そうだろうか」
子熊はとぼけたように答えました。小十郎はなぜかもう胸がいっぱいになってもう一ぺん向うの谷の白い雪のような花と余念なく月光をあびて立っている母子の熊をちらっと見てそれから音をたてないようにこっそりこっそり戻りはじめた。

『なめとこ山の熊』、宮沢賢治、青空文庫

小十郎はある日、熊の親子が交わす言葉を理解している自分に気付きます。その瞬間、「熊」という抽象的な存在ではなく、「この熊」という一個の命として熊たちを見るようになります。それぞれが一回限りの生命を持つ個体であり、彼と同じように家族を持ち、生活を営んでいる存在です。

この「気づき」により、小十郎にとって熊の死が「三人称の死」から「二人称の死」へと変化するのです。あるいは「二.五人称の死」とも言えるような、微妙なニュアンスの変化が生まれる瞬間です。

第三章:死の痛みと生活の狭間で

熊が一つの個性ある存在であると気付いた小十郎は、葛藤を覚えます。熊を殺すことで生計を立てるのは辛い。熊もまた一回性の命を全うしているのだと知ると、殺し続けることに罪悪感が募っていきます。 

一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るときいままで言ったことのないことを言った。
「婆さま、おれも年老ったでばな、今朝まず生れで始めで水へ入るの嫌んたよな気するじゃ」

『なめとこ山の熊』、宮沢賢治、青空文庫

しかし、生活を支えるためには猟に出るしかないのです。小十郎は葛藤を抱えつつも、再び山へと足を運びます。その矛盾と苦しみを抱えながら、彼は最終的に熊に襲われ、命を落としてしまいます。
小十郎は熊たちによって丁重に弔われるのです。

第四章:命の一回性と死の関係性

この物語が伝えるのは、命の一回性と、その死が他者にとってどう映るかということです。もし私たちが周囲の全ての死を「二人称の死」として捉えたら、精神的に耐えられないでしょう。しかし、私たちの「三人称の死」は、誰かにとっての「二人称の死」でもあるのです。

宮沢賢治はこの作品で、「死」に対する多層的な視点を提示しています。小十郎の視点を通して、賢治は読者に「他者の死」というものが、単なる記号ではなく個別性を持つものだと訴えているようです。

結び:文学と死の向き合い方

『なめとこ山の熊』は、単なる自然描写にとどまらず、深い死生観を描き出しています。特に、熊と小十郎の会話が標準語で交わされる点にも注目してみてください。二人の関係性が親密になった証であり、個々の存在として向き合う姿勢が現れているように思えます。

この作品を通して、私たちもまた、自分にとって「三人称の死」が誰かにとっての「二人称の死」であることを意識し、他者への想像力を持つことができるのではないでしょうか。

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