呉の三角鉄柱群について
皆さんは“鉄柱”をご存じでしょうか?
私はちょっぴり電柱好きの人間なので、街角で電柱が気になることがしばしばあるのですが、極まれに鉄柱タイプ(トラス構造)の電柱を見かけることがあるのです。
それは何というか見ていて、周辺との違和感もすごいですし、錆びてて古そうだし、なぜ鉄柱なのだろう?という感じなのです。
鉄柱とは?
現在の電柱に使われる材料としてコンクリートのものが主流となっています。稀に木製や鋼管製も街角で見ることがあると思いますが、そのなかでも鉄柱(トラス構造)のものはとりわけ珍しく、現代で建てられることはまずないと考えていいでしょう。
鉄柱は他の電柱と同じく、がいしをつけて電線を支える役割をしています。他の電柱と異なるのは電線を支える柱の部分で、アングル(L型鋼材)の鋼材同士をボルト締めしてトラス構造となっているのが大きな特徴です。
鉄柱との出会い
私が小学生か中学生の頃に一度この鉄柱を目にしたことはあるのですが、単なる違和感としてしか認識しておらず、興味関心の対象外でした。
それから少し経って、広島県呉市の休山にある源宗坊寺という寺に行くことがあり、急斜面の参道を歩くことになりました。呉市内~山奥にある寺に通じる道は険しいもので、参道周辺の家々が斜面からはみ出しているように建っています。
ある程度の高さまで歩いたところで呉市内を見下ろすと、民家同士の間から錆びた鉄骨が電線を支えていることに気が付いたのです。
“あれは電柱?なのか”
その時は電柱自体に興味を持つことが“恥ずかしい”と感じていたので、興味は伏せていたのですが日を追うごとに気になっていきます。
ネットで鉄の電柱で検索してみると電柱を扱っている有名なサイトを見つけ、偶然この鉄柱タイプの電柱(まったく同じ形状)の記事を発見します。
記事の内容から、鉄柱は古いものであることが分かり、私はもっとこの鉄柱型の電柱のことが知りたい!と思うようになりました。
呉は軍港の発展を中心に栄えてきた街です。この鉄柱もおそらく軍港の歴史の一部となって歩んできたのではないでしょうか?電柱というマイナーな分野ではありますが軍港とともに歩んだ電柱の歴史を少しだけでもかじって頂けると幸いです。
鉄柱はどこで作られていたか?
実際の外観の調査
鉄柱の外観の特徴を下記に記します。
形状はほぼ三角錐
縦方向のアングル(L型鋼材)1本が60度開き(通常90度)となり合計3本が正三角形の断面を作るように組む
側面には小さなアングルをトラス構造のように組み合わせそれぞれボルト締め
路線名は八幡幹線と呼び、所有者は中国電力。建柱時期は不明。
現地には鉄柱6本が残ります。
製造メーカーの調査
ネット上で調査をしてみると鉄柱メーカとして有名なものは服部製作所(現:日本鉄塔工業)であり創業当時の製造物として”三角鉄柱”が挙げられています。今回その三角鉄柱のパンフレットを入手しましたので内容を精査し外観上の特徴と合致しているか調査します。
鉄柱パンフレットの調査
株式会社服部製作所(現:日本鉄塔工業)が発行したパンフレット「第7版三角鉄柱」に関して、発行年月日の記載がなく不明ですが
1946年~1948年頃制定当用漢字以前の旧字体を使用し記述がされていること。
製品の納入先に戦前の公官庁(海軍省,逓信省,鉄道局)や昭和16年配電統制前の電力会社(広島電気,出雲電気等多数)が記載されていること。
以上の2点を踏まえて戦前~戦中発行のパンフレットとして扱います。
パンフレットによれば“三角鉄柱”の特徴として下記の記述があります。
※旧字体は新字体に改めました。
パンフレットでは“三角鉄柱”は2種類(送電用と配電およびトローリー用)あると言及されています。呉の鉄柱がどちらに該当するか調べる際に、付近の清水通変電所の存在が大きなヒントになりました。
引用は呉レンガ研究会による”中国電力(株)清水通変電所訪問”に関する資料の一部ですが、現在は清水通変電所がすでになく駐車場となっています。
清水通変電所があった場所から鉄柱6本(八幡幹線)を経由すると和庄小学校(八幡地区)が見えてくるため、過去に清水通変電所と八幡幹線の鉄柱がつながり八幡地区へ電気を供給していたことは確かなようです。
さらに清水通変電所は2次変電所として機能し配電を行っていたようです。鉄柱(八幡幹線)は配電線路として扱われていたことから木柱代用三角鉄柱として考えます。
この説明に関しては先に述べた外観上の特徴とおおむね合致しており鉄柱側面には鉄橋等で見られるワーレン構造も見ることができます。
実際に計測することはできませんが、呉の鉄柱は完全な三角錐でなく途中から傾斜があり地面に達するまで断面が徐々に太くなっているのが目視で確認できました。
またその他にも、パンフレット内にて外観と同一の三角鉄柱外形図も添付されています。
以上を踏まえて鉄柱はどこで作られていたかという問いに対し呉の鉄柱は服部製作所が製造した木柱代用三角鉄柱であるとしました。
鉄柱が作られた背景
関東大震災の影響
「日本鉄塔工業50年史」(日本鉄塔工業)によれば、関東大震災による影響で木製電柱を多数損失した逓信省が木製電柱の代わりとして鉄柱を受注したことが木柱代用三角鉄柱の始まりのようです。
パンフレット内では服部製作所構内での鉄柱の強度試験の様子や風圧等の強度計算等詳しく記載されています。
また三角鉄柱を採用するメリットとして次のように書かれていました。
パンフレットは三角鉄柱を売り込むためメリットについての言及が多く目立ちますが、当初普及していた木製電柱と比べいかに寿命、建設費用、外観が優れているか詳しく書かれている一例です。
呉に建てられた背景
これに関してははっきりと呉に建てた理由の記述がある文献を見けることができませんでした。
ただ、昔の呉市内の貴重な写真を収録している「呉の歩み2」(呉市史編纂室)にて、2次大戦後呉に上陸した占領軍が撮影した写真を見ると、街角のところどころに電線を支持する鉄柱が多く見られます。
鉄柱を主体として撮影した写真ではないため三角鉄柱かどうか判断しかねますが、撮影した風景に自然と鉄柱が入り込むほど普及していたようです。
ほかに建てられている場所はあるのか
各地に残る三角鉄柱
実は、全国各所(主に中四国、関東、九州)にわずかではありますが服部製作所製の鉄柱が残っています。そのほとんどは80年から90年以上経過しなお現役の鉄柱も存在します。
用途としては、鉄道の架線柱用、配電用、通信用、送電用、掲揚塔用(元送電用)などバラエティ豊かなのです。
終わりに
海軍の歴史の印象が強い呉という場所にいながら、風変わりな電柱(三角鉄柱)と出会えたことで、日常に隠された電柱の奥深い世界を知ることができました。
まだ全然調べて切れておらず想像になるのですが、この鉄柱が流行った時代が短い時期(大正~昭和)にあり、それ以降コンクリート電柱の普及によって、この鉄柱の建設事例が減っていったのではないでしょうか?
本来木柱を置き変えるために普及させるはずが、鉄柱自身が持つデメリットのために鉄柱ですらコンクリート電柱に置き変えられてしまったことは十分考えられます。
そのため、現存している鉄柱が存在していること自体奇跡に近いと言えるでしょう。
今後もこの鉄柱に関しては書ききれないものが複数あるため、別記事として展開していこうと思います。
参考文献
・日本鉄塔工業50年史
1972年 日本鉄塔工業
・第7版 三角鉄柱
発行年不明 服部製作所
・呉の歩み2
1996年 呉市史編纂室
・呉レンガ研の歩み
1997年 呉レンガ建造物研究会
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