「女を売るなんて絶対嫌」は本音ではなかった
「女はいいよな、いざとなれば体を売ればいいから」
小学生の時、クラスメイトの男子にこう言われた。この時、あたしはこの言葉の意味をよくわかってなかった。彼がどんな気持ちだったのか、何故それをあたしに言ったのか、そもそも前後に何を話していたのか、全く分からない。
ただ、あたしはその時「へぇ、そうなんだ」と1つ知識を得たような気持ちになったのは覚えている。
今のあたしが、誰かにこんなことを言われたら「は?」と返すと思う。
相手によっては、うるせえよ何様だよ、人の体を軽視するんじゃねえよ、と言ってしまうかもしれない。
だけど、一定この世の中に存在する価値観であり、実際にそんな職業が沢山ある。(もちろん男性だから、の仕事もあるだろうけど相対的に女性の方が多いのは間違いない)
この国では若い女の子が「売れている」。
なんだか流行りのフレーズのようにトー横キッズやパパ活なんて言葉も溢れてきたけれど、お金を持ったオジサン達が、女の子を買い、それで生死が分かれているような、そんな現実がある。
こんな現実は必ず淘汰されて欲しいと思いながらも、「若い女性」に価値があるという考え方があたしの中にも侵食されている。
あたしは、「女を武器にして」お金を得たことは無い。「若さを武器にして」も、もちろん無い。
あたしは福祉の仕事をしている。地道なことを、粛々としてきた。目の前の人の話を聞いて、考えて、寄り添うような、そんなことをやってきた。時には雨の中、カッパを着て自転車を沢山漕いだ。これを選んだことに後悔はない。自ら選び取ってきた人生だ。もう一度人生をやり直すにしても、あたしはきっと同じような仕事を選ぶと思う。
それでも、あたしは「女であること」が武器に変えている女性たちに憧れを持っている。
友人がコンパニオンを始めて、様々な写真を送って来たことでこの気持ちを強く自覚した。
ああ、綺麗な服を着て笑顔でいることに賃金が発生するんだ、いいなぁ、そう思った。
本当は認めたくなかった。女だとか関係なく、あたしは生活して仕事して生きてきたんだと思いたかった。でもきっと違う。だって、「女だから」許されたことは絶対に今まであったから。
その経験があるからこそ、女を武器に、自分自身がそれだけで価値あるものだなんて、羨ましいな、楽だろうな、と思う。
そんな仕事をばかにしているわけではなかったけれど、僻んではいたのだろう。
福祉の仕事は3Kと呼ばれる。
汚い、きつい、危険。
まさにそれを体現してきた。
疲れきった日にInstagramを開くと、
着飾った女の子たちが、綺麗な場所で綺麗な写真を撮っていた。SNSの世界は全てでは無いとは分かった上で、着飾った女の子にはお金が沢山集まって、あたしには集まらない。
あたしには、価値がない?そんな事をつぶやきながら、Instagramを開くという自傷行為を続けていた。
あたしはフェミニストであると自覚してるけれど、フェミニズムとは、性差を許すべからずという考え方だ。女性優遇ではない(勘違いされがちだと思う)。あたしは今も、「女だから許されたこと」から手放せる自信がない。
綺麗な服を着て、にこにこ笑って、お金が貰えるのなら、それが羨ましいと思ってしまう。
この気持ちと向き合わないと、本当の意味でフェミニストになんてなれない。
あたしの価値を決めるものは?
先日マルチェと朝ごはん会をした時、ルッキズムの話になって、マルチェは「外見を褒めるって、変えられないものを褒めることだから、あまり嬉しくはないよね」と言った。
あたしはその通りだと頷きながら、「外見も変えられる前提な世の中だもんね」と確か言った。そして、変えられないもので優劣がつくことで、人は他に変えられない自信を持つこともある。
何が自分の価値なのか、向けられる言葉や視線は自分で選べないことも多いから、何を自分の中に落とし込むのかは自分自身が決めないと、軸がぶれてしまう。
もうあたしも決して女の子ではない。
あの子と比べてあたしはなんて、自己否定する年齢でもない。そんなのかっこ悪い。
分かっている。分かっているのに、あたし達はいつも誰かに認められたくてもがいている。
女を仕事にしたいなんて思ったことがないと、
一点の曇りもなく言える人生だったらな。
この「女の子」の世界が好きで
覚悟を感じる歌なんだよなぁ。
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