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私の中の雑味とは

以前、いつも聴いているVoicyのパーソナリティでもある佐々木俊尚さんが音楽や料理における雑味について話している放送回がありました。

佐々木さんの意にはそぐわないと思いますが、最近私の中でこの雑味という言葉が浮かんできて、考えることがあるのでこの言葉を使っていきたい。

なぜ浮かぶのかというと、印象に残る事が多いのはこの雑味や不快さみたいなものじゃないかなと思うからです。

仮にこの雑味が洗練され、取り除かれている場合は、その瞬間は心地が良かったり、スッキリすることができるけれど、長く印象に残ったり、再び試してみたくなるものは雑味によって違和感が残る方だと思う。

商品を売る側であれば、そういった雑味を混ぜたり、残しておくのもいいと思うし、あえて完璧にしないということも賛否が分かれて、結果注目を浴びたりすることになる。そのバランスも大切だと思うけど、正体が人によって気付けたり、そうでなかったりする適当さが、あるで意味クセになる雑味として受け入れられると思ったりもする。

ちょっと話は変わりますが、自分の中の雑味な部分って何だろうと考えてみる。
それは「外的要因で予定が崩れること」から総じて「自分が乱されること」だと思った。おそらく私は時間に余裕がないことを嫌う。そして交通機関の遅れや思いがけず順番待ちなどで後の予定が狂う事がすごくストレスに感じてしまう。最近は読書時間ができたと思い、むしろ楽しむようにしているが、基本的には乱されるのが人一倍苦手な人間です。

これを他人がどう感じ、私をどんな人間と思うかは分からないし、そんなのを気にしたところでしょうがないと思っています。でも、私自身はこの気持ちを大切にして、そんな私が現れた時にもう少し深く自分を観察してみようと思います。雑味に注目してみれば自己理解も深まると考えています。

佐々木俊尚さんの仰る雑味のお話とは違うと思いますが、自分なりの雑味について考えてみました。もう少し解像度高めに書けると思いましたが、うまく言語化できていないようです。なのでこれからも思考を巡らせていこうと思います。

今日もいい一日です。


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