芸術と潜在意識 11(最終回):芸術の本質を考える
*この連載は、2017年~2018年にかけてウェブスペース En-Sophに掲載された「芸術とスタンダール症候群」を改題、転載したものです。
連載【芸術とスタンダール症候群】とは?
筆者が【幸福否定の研究】を続ける上で問題意識として浮上してきた、「芸術の本質とは何か?」という問いを探る試み。『スタンダール症候群』を芸術鑑賞時の幸福否定の反応として扱い、龍安寺の石庭をサンプルとして扱う。
連載の流れは以下のようになる。
1. 現状の成果…龍安寺の石庭の配置を解く
2. スタンダール症候群の説明
3. スタンダール症候群が出る作品
4. スタンダール症候群が出やすい条件
5. 芸術の本質とは何か?
* 用語説明 *
反応:抵抗に直面した時に出現する一過性の症状。例えば勉強しようとすると眠くなる、頭痛がする、など。
抵抗:幸福否定理論で使う"抵抗"は通常の嫌な事に対する"抵抗"ではなく、許容範囲を超える幸福に対する抵抗という意味で使われている。
スタンダール症候群:イタリアのフィレンツェで、観光客が起こす発作的な心因性症状。芸術作品鑑賞中や歴史的な建築物などで起こす事が多い。フランスの小説家、スタンダールが同様の症状を発症したことからスタンダール症候群と名付けられる。
連載のまとめ---芸術の本質を考える
本連載ではこれまで、『スタンダール症候群』という、芸術鑑賞時に起きるとされる症状に注目し、「芸術作品の鑑賞から芸術作品自体の本質に迫る」という考察を試みてきました。そのさいに用いた方法論は、心理療法家である笠原敏雄先生の提唱する『幸福否定理論』と、そこに登場する“反応”(冒頭の用語説明参照)を使うというものでした。私は『スタンダール症候群』とされる症状は“反応”と同じものだと捉えており、鑑賞→分析を行うための、ひとつの客観的な指標になり得ると判断したからです。
芸術作品に関しては笠原先生にも『希求の詩人 中原中也』という著作があり、執筆の動機の一つとして創作物を評価する指標の模索であることが述べられています。
「主観というあいまいなものに基づいて行われてきた文学作品の鑑賞や研究に、ある意味で客観的な指標を導入できるかどうかを、私なりの角度から検討することである。
(『希求の詩人 中原中也』 はじめに)」
同書は中原中也の生き方や主張、発病などを『幸福否定理論』から読み解いていく構成になっており、人間の創造性を分析するという観点からは非常に重要な著作です。ただ、中原中也の詩の考えられない誤写の問題(注1)など、実作における“抵抗”らしき具体例の検討も行われてはいるのですが、御本人も述べられている通り、焦点はあくまで中原中也の主張にあります。(注2)
私自身は、詩というものは、言葉が本来持っている意味に加えて、音やリズム、字のかたちなどの別の側面が同時に成立することで芸術作品になると考えています。そのような意味で、同書からは芸術作品の芸術作品たる部分を扱っていないという印象を受けました。また、個人的に中原中也の作品を読んでも反応が出なかったこともあって、連載では扱いませんでした。(注3)
それ以外にも芸術作品に関する様々な文章を読みましたが、芸術家の生き方や主張、作品の生まれる背景や、創造活動に関する言及は多くありますが、「なぜその作品が優れているのか?」という点を直接説明したものには、ほとんど出会いませんでした。本連載はそうした点を、“反応”という指標を使って検討し、「芸術とは何か?」という問いを考え続けた過程の記録となっています。
もちろん、各ジャンルの代表的な芸術作品を細部まで鑑賞することすら、一人の人間では手に余る、不可能に近いことですから、大逸れた試みであるというのは承知しています。ただ、それでも「全くわからなかった」という結果に終わったわけではなく、手掛かりは掴めたのではないかと考えています。
そして、分析には心理療法の手法を使ったため、人間の潜在意識に関しても重要な発見がありました。
最終回は、まず初めにその潜在意識について、その後、芸術作品に関しての暫定的な「まとめ」を述べたいと思います。
人間の潜在意識という側面
*能力的な側面*
これは私自身の発見ではなく、笠原先生の発見を確認した形になりますが、幼稚園くらいの年齢の子供や、発育遅れの子供でも芸術作品の鑑賞時に反応が出ます。
※ もっと年齢が低い子供でも反応が出るかもしれませんが、集中して2分写真を見る、症状が出たかどうかを伝える、などの行為が難しいため、無理に試していない状況です。
実際に使用したのは龍安寺の石庭やルイス・カーンの建築写真ですが、大人と変わらない反応が出るという事は、無意識化では作品をしっかり理解していると考える事ができます。
それらの結果から、"成長"とは、もともと理解していることが意識化される過程だと考えられます。この点だけでも、大きな発見です。
*心理療法としての側面*
心理療法を受けている患者さんに対して、希望者のみ、芸術作品の写真を使っています。未使用の患者さんと比較すると、良い意味で娯楽に興味が薄れ、俗っぽい事に興味が無くなってくるのが早いという印象があります。
※ あくまで“感情の演技"(参照:心の研究室)という方法が主で、補助的な使用となっています。また、強い反応が出るので、より効果が得られる半面、体調が不安定ならないように、様子を見ながら慎重に行います。従って心理療法の全体的なスピードが上がるという事はありません。
また、がんの患者さんは心理療法自体が続かない場合が多いですが、芸術作品を、"反応"が出るかどうか確認するため鑑賞してもらったところ、目線が外れてしまったり、感想や心情を述べるといった話に終始したり、他の疾患の患者さん達よりも絵に集中することができない印象があります。
統計的に結論付けるには患者数の規模が小さいので、何かしらの答えを出すまでには至っていませんが、研究が進めば、疾患別に取り組み方や効果に差がないか?など、色々な事がわかってくる可能性があります。
芸術の可能性という側面---龍安寺の分析に関する変化
本連載は龍安寺の石庭の分析からスタートしました。連載開始当初は、以下のような理由から鑑賞時に強い反応が出るのだと考えていました。
・最小限の石の配置で表現されている。(多機能性、同時成立)
・ピタゴラスの定理を使って、機能性(第3回参照)を持った無理数が表現されている。無理数の発見により、数学、特に幾何学において様々な関連付けが可能になり、飛躍的な発展を遂げた。関連付けにおいて手段である数の機能的な側面そのものに焦点があたっている。
しかし、連載の第9回で取り上げたバッハ『フーガの技法』の分析によって"反応"の原因が具体性を持ってはっきりしてくると、龍安寺石庭で反応が起きる原因に関して、上記の条件だけでは足りないと思うようになりました。
「本来は関連性がないもの同士を、複数同時に調和させる」という“同時成立”に関しては、『フーガの技法』の分析によって、「本来は成立しない関連性において、何と何がどのような形で成立しているのか?」を具体的に説明できる可能性が出てきました。
連載当初の解釈だと、物理法則や自然法則に則っているものも含まれていることになります。人間の感覚は自然法則に含まれますが、上記の条件のみであれば、条件を満たしながら、自然法則に則った、素直に美しいと思われる作品を創作すれば良い事になります。
研究が進んだ現段階では、反応の原因を探る上で、龍安寺の石庭においては、“不自然ながら何かが成立している点”の説明が必要だと考えています。
それが遠近法という観点なのか、ピタゴラスの定理という観点なのか、無理数という観点なのかはわかりませんが、新たな課題が見つかり、更に解析を進める必要性が出てきたと言えると思います。
*芸術作品の二つの方向性*
龍安寺ばかりでなく、連載中には、音楽におけるピタゴラスまで遡る音階の開発の歴史や、レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿を再検討することによって、「芸術には二種類の方向性がある」ということがより鮮明になりました。
二種類と言っても、完全にどちらか?というわけではなく、どちらの割合が強いか?という事になります。
一つは、
人間の自然な感覚と一致する調和の創作を目指す芸術
という方向性です。ピタゴラスの1度と5度(ドとソ)が最も調和する関係という発見は、クラシックからジャズ、現代のポップスまで音楽の基礎となっています。また、レオナルド・ダ・ヴィンチや葛飾北斎も人間の生理学に沿って、素直に感動できる絵画を描きました。
これらの芸術作品は「本来は関連がないもの同士を調和させる機能性(はたらき)の発明」を伴うという側面を持っており、素直に受け入れられ、多くの追随者を生み出しています。
もう一つは、
人間の自然な感覚とは別の調和の創作を目指す芸術
という方向性です。
具体的には、『龍安寺石庭』、『フーガの技法』、『ソーク研究所』、『源氏物語絵巻』、『中国陶磁器』などの例を挙げましたが、いずれの作品もすぐには理解ができず、「何が良いのかわからないけど、不思議な魅力がある」という感情を惹起させ、鑑賞者を困惑させます。
私は、上に挙げた作品郡には「本来は関連がないもの同士を、複数同時に調和させる多機能性の発明」があると考えています。もちろん、まだ仮説段階なので、これからの更なる研究が必要になりますが。
※ また、これらの作品は追随者がほとんどおらず、孤立した状態になることが多いのも特徴の一つです。龍安寺の石庭は他の京都の建築や庭園とは異質であり、バッハの『フーガの技法』はバロック音楽の文脈で語る事ができません。
芸術作品鑑賞時における“反応”の原因---多機能性”や“同時成立”の説明の具体性
"反応"の原因は、"反応"が強かった作品を集め、総合的に特徴を考えなければいけません。以下のことが、芸術作品鑑賞時に"反応"が起きる原因の、(現段階での)暫定的な結論です。
・本来は関連がないもの同士を、複数同時に調和させる多機能性があること
・多機能性や同時成立に焦点があたっていること
“反応”を目安にする、という方法論で、ある程度までは『龍安寺石庭』と『フーガの技法』の意図を分析することができました。どちらの作品も“反応”を目安にするという方法論がなければ、現在わかっている段階にも辿り着かなかったはずです。加えて、それぞれ譜面や図面という“設計図”が存在した為に、さらに具体的な分析を行う事ができた、という点も重要です。
今後は、答えを探すための手段として“反応”を追いかける事はもちろんですが、「何と何が同時成立をしているのか?」を具体的に示していく事によって、「どのようなものが芸術作品として成り立つのか?」といったもっと大きな事柄が少しずつ鮮明になってくると考えています。
*物理や自然とは別の関係性*
研究の過程では他に、心理療法を通じて物理法則や自然を鑑賞しても反応がほとんど出ないことを確認したのですが、芸術作品との比較で、その理由が見えてきたような気がします。
例えば、落下するものを見る、飛んでいる飛行機を見る、走行中の車を見る、など何でも良いのですが、物理現象の仕組みを「解き明かそうとする」物理や数学の勉強では"反応"が出ます。しかし物理的な現象を「見ているだけ」ではほとんど反応は出ません。また、オーロラや虹などの自然現象や、鉱物や元素など人間の能力をはるかに超えた精密さを持つ物質の写真を見ても、同様にほぼ反応はありません。
特に鉱物や元素などは非常に美しいものも多く、芸術的な側面があるのではないか?と考えていましたから、反応が出ないのは不思議でした。
しかし、反応が出る芸術作品を研究した結果、それらは物理法則の結果生まれたものとは異なり、本来は別々に表現しなければいけないものを同時に表現している(複数の視点を一枚の絵画に描く、本来は連続して鳴らされるコード進行を同時に鳴らすように工夫する等)ため、必然的にある種の不自然さをも伴っていることが分かりました。
現在は、その点を強く意識しながら研究を進めるようになっています。
『幸福否定』という側面で治療効果がある
"反応"が出る芸術作品のもつ最大の特徴は、人間の潜在意識に直接作用するというものです。幸福否定とは、例えば勉強しようとすると娯楽に耽ってしまうなどの万人に見られる成長や進歩に対する抵抗や、病気や問題行動など、生活していく上での妨げになる自滅性の事ですが、“反応”を指標に抵抗に直面し続けると、これらの問題点が少しずつ改善されていきます。
『スタンダール症候群』という名前をつけたフィレンツェのグラツィエラ・マゲリーニ医師は、芸術作品鑑賞時の症状を「芸術都市フィレンツェという状況が自我を危機に陥れた結果」と考えました。この解釈そのものにも大いに疑問がありますが、是非はどうであれ、彼女はフロイトの理論を踏襲、芸術作品が鑑賞者にストレスなどの影響を与えた、と判断したわけです。仮にそうであれば、芸術作品の価値は大きく歪められてしまいます。
他方、成長しようとするたびに"抵抗"で跳ね返される、というプロセスを繰り返しながら少しずつ進歩していくのが動物にはない人間の特徴ですが、マゲリー二氏の解釈とは反対に、「反応が出る芸術作品を鑑賞するだけで直接的に精神の進歩を促し、様々な問題行動や心因性症状の解決を促す」という関係性が証明されれば、芸術作品の位置づけも根本的に見直される事になるでしょう。
芸術の本質とは
今回の連載は、「反応を指標にして芸術作品の本質を探る」という試みの過程を記録したものです。芸術作品の分析に関心を抱いてから7年以上が経過していますが、昨年2月末に龍安寺の石庭において直角三角形や無理数が表現されているのを発見したこと、また、今年の夏にバッハ作曲のフーガの技法において、具体的に反応の出る原因がわかった事により、ある程度の段階まで書き進める事ができました。
芸術作品の目的として、例えば三次元を二次元の世界で表現する絵画のように、物理的には成立し得ない関係性を成立させることなどがあります。
しかし、その中でも第9回、第10回で書いた“多機能性”や“同時成立”を満たし、そこに焦点が当たっている作品は、上述したように人間の潜在意識に直接影響を与え、治療的効果まであると私は考えています。
そうした作品は芸術作品全体の中でも少数であり、歴史を概観しても、一般に傑作とされる作品は人間の自然な感覚に沿って素直に感動できるものが多いと言えます。
とはいえ、それら人間の自然な感覚に沿うように創作された作品の中にも、人間の潜在意識に直接影響を及ぼす、“多機能性”、“同時成立”といった条件が、細部であったり、通常は焦点が当たっていない部分などに表現されていることが多くあります。
(※具体例:例えば、ポップミュージックにおける、全体を損ねない程度の細部の不協和音や実験的な音作り等)
これに関しては、芸術作品を創作する側の芸術家も、鑑賞する側も、『幸福否定』という視点から見て抵抗が強い作品は避ける傾向があるからではないか?と推測しています。
通常、芸術作品を鑑賞した際には、意識の上でわかる良し悪しや、感動があったかが重要視されると思います。「よくわからなかったけれど眠気やだるさが出た」などの反応は、あえて口にしないことが多いのではないでしょうか?
仮に芸術作品から得られるものが、“感動”だけであれば、映画鑑賞やスポーツ観戦と同じような扱われ方になると思いますが、それだけでは、人類の歴史を通じて世界的に芸術作品が「高尚なもの」として敬意を払われてきた理由がわからなくなってしまいます。私自身は、ここまで何度も言及した“多機能性”、“同時成立”が作品に含まれ、それが人間の潜在意識に直接影響を与え、進歩を促すことが、芸術の本質であると考えています。
さらに、「人間の心とは何か?」という心理学的な視点で考えると、強い反応が出る作品を鑑賞する事により、“感動”という、意識の上で認識できる領域とは別の心の領域があることもわかるはずです。
現状では、“反応”という指標をもとにした、芸術作品の研究、芸術作品の創作、どちらに関してもほとんどが手付かずであり、広大な未知の領域が眠っているのではないか?と非常に大きな可能性を感じています。
おわりに
研究を始めた当初は、テーマが大きすぎるのに加え、反応が出る芸術作品のサンプルが少なかったり、また一部の成果を芸術全体に当てはめることに関しての危うさも自覚していたため、公開することを前提にはしていませんでした。
にも関わらず、今回、大それたテーマを掲げ、経過途中ながら研究結果を公開した理由には、「研究を進めれば進めるほど、芸術作品に関して、このような視点から研究する“重要性”が高い」と感じるようになったからです。
連載中、『フーガの技法』の分析が進むという進展があったために『龍安寺石庭』の分析から話が離れてしまったり、全体を通してわかりにくい部分が生じたかもしれません。また、結論が出たテーマではなく、方法論と一部の成果の提示という事で、慎重を期したつもりですが、至らない部分や間違いもあるかと思います。ご指摘、批判頂ければ幸いです。
今回で連載自体は終了しますが、研究自体は続くので、新たな発見があれば追補編として公表していきたいと考えています。研究内容に興味のある方は、芸術作品の鑑賞時に症状が出た経験や質問などをご連絡いただければと思います。
ご精読ありがとうございました。
連絡先:ファミリー矯正院 心理療法室/代表:渡辺俊介/ WEB: https://familyshinri.com/
注1:
帰 郷
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
緑の下では蜘蛛の巣が
心細そうに揺れている
山では枯木も息を吐く
ああ今日は好い天気だ
路傍の草影が
あどけない愁みをする
これが私の故里だ
さやかに風も吹いている
心置なく泣かれよと
年増婦の低い声もする
ああ おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ
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上記の中原中也の「帰郷」という詩の終わりから二行目が
ああ おまえはなにをしに来たのだと……
と、『中原中也-遠いものを求めて』(近藤晴彦著)において誤植されたまま評論されている問題を取り上げています。(参照:笠原敏雄『希求の詩人 中原中也』p12~17)
注2:「三〇年以上にわたって心理療法を専門としてきた、およそ文学には縁遠い人間としては、中也の作品そのものについて述べることはできない。」(参考:笠原敏雄『希求の詩人 中原中也』 はじめに pⅱ)
注3:私が読んだ限りで、文学作品で反応があったのは鴨長明の『方丈記』、宮沢賢治の短編、志賀直哉の短編、エドガー・アラン・ポーの詩、短編、『ユリイカ』などです。個人的な抵抗も含まれているとは思いますが、上記に挙げた作家は、一般の人でも内容が記憶に残りにくいという特徴があるようです。
参考文献:笠原敏雄『希求の詩人 中原中也』麗沢大学出版会 ,2004