「悔しい気持ち」は必要か?
この春に長男アユは中3、次男ワタは小6になりました。
日本でこのくらいの年齢、いわゆる思春期の子達を育てていると、自分の青春時代の頃をどんどん思い出すようになりました。ドイツにずっといたとしたら、何もかもが違いすぎてここまで思い出すことはなかったことでしょう。
次男ワタはサッカーをしていますが、なかなか強いチームなので、素質があってさらに頑張っている子は本当にどんどん上達し、ますます差が開いていく時期でもあります。前回の試合ではワタは試合に出られずずっとベンチのまま。同行していた夫としては、出ないのは仕方ないとしても、試合も出ないのに、長時間拘束されるのは困る、「全員を育てる」ことをモットーとしたプロコーチが行っている有料のチームであるので、出ないなら出ないで違うメニューを用意してほしい旨を相談をしたところ、結果として事前にメンバーは発表することになり、また、別メニューも行われることになりました。(以前もそうした取り組みはあったそうです。)ですが、コーチ曰く出れない子達を呼んだ理由として「悔しい気持ちをバネにしてほしい」と思う気持ちも伝えたかったそうなのです。
「悔しい気持ちをバネにして」「笑っていた奴らを見返してやれ」
こうした反骨精神…勉強や部活でよく言われてきたなあ。懐かしい。。。
私もそうした言葉で育ってきた一人なのですが、個人的にはあまり子どもにはかけたくない言葉でもあります。と言うのも、確かに悔しい気持ちや見返したい気持ちは強力なエネルギーになるし、効果もあります。が、それは完全に負のエネルギーであって、受験にしてもダイエットにしても何か競争ごとに関して、常に相手を気にしている限り、私自身結果の出ない期間中はずっとイライラしていたし、達成した後は、なんだかポッカリと穴が空いてしまうことも多かったからです。
そのためか、長男アユの中学ではなんとテストの順位も出ませんし、平均点も口頭でちょろっと伝えられる程度。時代も相対評価から絶対評価へ変わってきているんだな〜と思う反面、いやいやこれはこれで問題じゃない!?と思います。結局受験がある限り、相対評価は必要なため、順位が必要な学生達は結局塾の模試や外部模試を受けざるを得ず、塾通いがデフォルトになる、という仕組みにうちの学区はなっています。
いやいや、結果は結果で必要じゃない?で、そのポジションにいる自分を把握した上で、悔しいエネルギーにするのではなく、そんな自分と向き合ってどうしたいのか、なんのために頑張るのか、なんかを考えて行動した方がポジティブなエネルギーで向上できるのではないか、と思うワケです。
結果を見て、もっと上に行きたいなら頑張ればいいし、このくらいでいいと言うならそれでいいワケだし。スポーツなんかもプロになる人は実際には一握りなわけで、スタメンになれないならなれないで、自分のプレーを向上させることを楽しむとか、体を動かす喜びを感じることが楽しいならそれでいいのではと思うのです。せっかくの生涯スポーツや趣味にもなり得るものを「悔しい気持ち」や劣等感で嫌いになったりやめてしまうのは勿体無い気がするんですよね。
まあこの点については、色々な考えがあると思いますが、勉強にしてもスポーツにしても、事実は事実で「相対評価」で知ることは大事だけど、その動機に、悔しい気持ち、即ち相対評価を持ち込まない方が上手くいくのでは、と言うのが今の私の考えです。