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お菓子屋になるまで。〜幼少期編〜

こんにちは。
Famille店主の日下由美です。
今回で2度目の投稿となります。まだまだnoteの扱いに慣れず、消化不良な感じではありますが、書き残すことに意味がある!という気持ちでコツコツ書いていけたらと思います。

今回は、2011年にお菓子屋を始めた私の生まれ育った環境などまとめて行きたいと思っています。
が、まずは今現在の私の自己紹介をしてから始めますね。

店主である私、日下由美(くさかゆみ)と申します。
全国的には珍しくはないかもしれませんが、日下と書いて鹿児島ではまず〝くさか″と読める人はほとんど居ません。
そう、日下という姓は夫の姓で、その夫は東北の宮城県出身だからです。

私は、1987年生まれの36歳。
11歳年上47歳の夫と、もうすぐ5歳になる年中の娘、1歳3ヶ月の息子の4人家族。今は私の生まれ育った鹿児島県垂水市で暮らしています。

それではこの垂水市で過ごした幼少期編スタートします。

1987年1月
鹿児島市の産院で3人兄弟の末っ子として誕生。
3歳上の姉と、2歳上の兄がいます。

父は自動車鈑金塗装業
母はフルーツショップ(当時)を営む自営業一家でした。

父は高校の頃から自動車科に通い卒業後、大阪の自動車整備工場へ就職、修行して鹿児島へ戻る。20代半ば位に地元垂水市で自動車鈑金塗装工場をはじめる。

母は、鹿児島市出身。
鹿児島市の会社でOLとして10年ほど働いたのち、父と結婚。垂水市へ移り住む。

結婚前から父は自動車整備工場を営んでおり、結婚後、フルーツショップを2人で開業したそう。
朝、市場に買い付けに行くのは父の仕事。開店準備から店番は母の仕事。車の仕事がある時は父は工場へという流れで暮らしていたと思われます。

私は年中から幼稚園へ通い始めたため、それまではこのフルーツショップ内で母は子守しながら働いていたとのこと、今現在、2人の子育てをしてみてその大変さは私には真似できないなーと感心するところです。

このフルーツショップでは、果物や野菜・切花のほか、駄菓子やアイスクリームなども販売しており、店主の子どもであった私は棚からお菓子やアイスクリームをとって食べていたような…。
3人も子どもがいる中お店をやるのだから、子どもを制御するのも一苦労だったのは容易に想像がつきますね。
※見出しの写真は当時、お店のアイスクリームを食べている私。

このお店で生活していた中で一番記憶に残っているのが、私の大好物であった桃を父が市場で箱買いしてきて、店の冷蔵庫にキープしてくれていたこと。
美味しい桃をたらふく食べて幸せな幼児期だったでしょう。

そんなフルーツショップも、私が小学生になってしばらくした頃、自宅を新築するタイミングで閉店することになりました。

小学3年生頃から母は同市内にある県立の果樹試験場へパートへ出るようになりました。
知人の紹介で就職したようですが、果物との縁はずっと続きます。

母がパートに出るようになり、学校から帰っても母は不在。少し寂しいながらも、父は自宅横の修理工場にいるため、学校から戻るとまず工場へ『ただいまー』と声をかけ、自宅へ帰り5時過ぎに母が帰宅するという生活パターンに。

小学校高学年になると、自宅でお菓子作りをするようになりました。
たまたま家にあったオレンジページのムック本を眺めていて、ある日自分で作ってみようと思ったのがお菓子作りをはじめたきっかけだったように記憶しています。

その当時は自宅にオーブンは無く、幼少期からよく遊びに行っていた近所のおばちゃんちのガスオーブンを借りて、クッキーやカップケーキそして慣れてきたらチーズケーキやガトーショコラなど作るようになりました。

現在は、100円ショップでケーキ型やベーキングカップが安く手に入りますが、当時はそれらも結構高価で買えず、家にあったアルミホイルを使って見様見真似でカップケーキ型を作ったりしてお菓子を焼いていました。

始めた頃は型にどれくらいの入れたら丁度良いかもわからないし、母は忙しかったし料理は上手でもお菓子作りはあまりしない人だったので、私はほぼ1人で試行錯誤して、時には型から生地が流れ出して天板の上で生地が焼き上がったり、クッキーを焼いても生焼けだったり失敗ばかりでした。

それでもその作ったお菓子をおばちゃんや母が『おいしい』と言って食べてくれたのが嬉しくて何度も作るようになったのだと思います。
(最初の頃作っていたものは本当は美味しくなかったとは思いますが…。)

そうこうして中学生になった頃には、人並みくらいには美味しいケーキやクッキーが焼けるようになり、バレンタインの友チョコに作ったお菓子を持って行ったりして楽しむようになりました。

いま人の親になって自分の子どもの頃を振り返ってみると、わたしの母は『こうしなさい。』とかあれこれ手を出さず、たまには『こうしたほうがいいんじゃない?』と助言することはあっても基本的に子どものやる事を見守ってくれていたように思います。

この後の中学生〜の進路を考える時期もこの母の大らかさに助けられたんだなぁと思い出しては感謝する日々です。

幼少期、貧乏な家庭環境ではありましたが、ここでは触れていない事も含め、両親はいろんな体験をさせてくれたように思います。
今お菓子屋をやっているのも自営業という選択が当たり前にあったこの家庭環境も大いに影響しているので、両親には感謝している部分です。

毎日ハッピーに過ごしていた幼少期は終わり、次回は、悩みの多かった学生編へと進みます。

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