実は快楽主義も禁欲主義も同じ
今回は、快楽主義と禁欲主義が実は同じだっていう話をしたいと思います。
快楽主義では幸福っていうのは「快楽」のことだとしています。誤解が多いんですが、これ別に気持ちいいことをするのが人間の幸せっていう意味じゃないんですよ。
肉体的な苦痛がなく、心が穏やかな状態。これが、快楽主義における快楽の定義なんですよね。
次に禁欲主義。禁欲的な生活って考えただけでも結構しんどそうじゃないですか。にもかかわらず禁欲主義の立場をとる人っていうのは、禁欲的になることで人間が幸せになると考えたわけですよ。
快楽主義と禁欲主義。
「実はこれって根本的に同じことなんだよね」っていうのを今回は説明したいと思います。
まず、快楽主義というのは肉体的な苦痛がなく、精神的に穏やかな状態であると定義しました。禁欲主義っていうのも、基本的にゴール地点は同じだと思うんですよね。
なんのために禁欲するのかといえば、肉体的な苦痛をさけたり、心を穏やかにするためですよね。たとえば、暴飲暴食のあとは、肉体的にしんどいことになるじゃないですか。
さらに、好きでもない人と性的な関係を持ったりすると、精神的にしんどくなったりするじゃないですか。
つまり、快楽主義の立場をとる人は、快楽を得ようと思って行動することによって、快楽を得ることができると考えました。しかし、禁欲主義の立場の人は逆の行動をとったわけですね。禁欲的な行動を選択することによって、結果的に幸福が訪れると。
快楽主義のパラドクスというのをご存じでしょうか?
快楽というのは本来、行動に付随してくるおまけみたいなものです。それにもかかわらず、最初から快楽を求めようとするとどうなるか。
快楽を求め行動することによって、快楽を得難くなってしまう。これが快楽主義のパラドクスです。
それに対して禁欲主義というのは、快楽を得るというよりも損失を回避しようとしていた節があります。快楽を得たことによっておこる、肉体的精神的苦痛。
そういったものを排除しようとしたのが、禁欲主義なのではないでしょうか。
では、どうしてこのようなスタンスの違う二つの派が現れたのでしょうか? この疑問に対して、神経科学的な観点から仮説を立ててみたいと思います。
禁欲的な生活をしないと幸せになれない人っていうのは、快楽後の反動がすごかったんじゃないかなって予測されるんですよね。どういうことかというと、たとえば薬物使用。
薬物を使用した後は反動がありますよね。しんどくなっちゃう。これと同じようなことがそこまで大きくない快楽のレベルでも起こったのではないかと推測されます。
快楽主義の立場をとる人たちは、多分快楽を終えてもその後の反動が少なかったのではないかと思います。だから純粋に快楽を享受することができた。
快楽を得ることで幸福になることができた。
しかし禁欲主義の人たちは大きな快楽を得るとその後の反動が相当しんどかったのではないでしょうか。薬物使用後みたいに。だから彼らは禁欲的な生活を送ることでその苦痛を避けた。
禁欲的な生活を送ることによってドーパミン受容体の数が増えます。
ーパミン受容体の数が増えると日常の些細なことで喜びを感じられるようになります。
彼らはそうした喜びを幸福だと感じていたのではないでしょうか。
もちろん快楽主義、禁欲主義どちらにしても幸福の正体、快楽の正体というのはドーパミンやセロトニンです。しかしその受容体の種類が異なったためにそういったスタンスの違いが生まれたのではないでしょうか。
これは現代人にも言えることです。例えば極端な話、覚せい剤を使ってもあまり副作用が出ない人もいます。
これは大きなドーパミンを得たとしてもドーパミンの受容体が減りにくい体質だと推測されます。逆にぼくは覚せい剤を使ったらすぐ副作用が出ると思うんですよね。
ドーパミンの受容体が減りやすい体質だからです。
近年では遺伝子検査によって自分の受容体がどういうタイプなのか分かるようになりました。
その受容体のタイプを知った上で行動のスタンスを自分で選択することができれば、幸福度っていうのは格段に変わってくるのではないでしょうか。
興味がある方は是非自分の受容体のタイプについて調べてみてはいかがでしょうか。
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