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処女を喪いたくないはずなのに、誰かに抱かれたい【参・終】


前回の記事はこちら。

「処女であること」それ以外に自分の価値を見出せず、恋人に精神的に依存しながらも性交渉を拒み続けた結果フラれた。こんなに簡単な、どこにでもありそうな話の続き。

どう見ても自分が悪いのに、彼が開封済みの避妊具を所持していたことをたまたま見かけたことを理由に「わたしは裏切られた可哀想な女なのだ」と思い込むことでしかまとも息ができなかった数年間。

しばらくこの話の続きを、ここに書こうか迷っていた。そうして迷っているうちに半年ほどが過ぎ、間もなく花の季節がやってくる。

処女、呪縛のゆるみ

20代後半になり、同僚の結婚式へ参加したり、友人に子供が生まれるというようなことが増えてきた。「この人のそばにいたい」「この人、この子のために生きよう」そう思うことができる友人たちの成熟した精神が、ひどく眩しい。

誰かの結婚式に出席した夜には、彼との思い出を振り返った。そして、ある日のことを思い出した。それは、彼と付き合って1年ほど過ぎたある日の夕暮れのこと。彼はわたしの手を取って、「この先も、ずっと一緒にいてくれる?」と聞いてくれたのだった。恥ずかしくて素っ気なく「うん」と短く返したわたしに向けられた、心の底から嬉しそうな、満たされた彼の表情を思い出した。

それなのに、その後のわたしは最低だった。勇気を出して聞いてくれた質問を忘れたように「でも、もし別れてしまったら……」などと自分の心配ばかりしていた。彼は悲しかったに違いない。わたしに身体を押しのけられるたび、拒まれるたびに、愛する人に信じてもらえない悲しみと孤独感に、彼は少しずつ蝕まれていたのだと気付かされた。

そして、でまかせだと思っていた「身体のことが別れる理由じゃないんだよ」という彼の言葉の、本当の意味をやっと理解できた気がした。

わたしは彼を恨むことで自分を守ることをやめた。彼には満たされた人生を送ってもらうことを願い、そして、今度は自分が愛した人をちゃんと信じたいと思うようになった。

ひとりからふたりを目指して

さて、誰かを愛し、信じたいと思えるようになったものの、もう何年も処女の檻に内側から鍵をかけて閉じこもっていたので、どうしていいかわからずにいる。

友人に紹介を頼むのは申し訳ないし、ひとりで完結する趣味が多いので出会いももない。学生時代、彼と別れた後に友人たちとうまく話せなかった日々を思い返すと、毎日顔を合わせる職場での恋愛は避けたかった。

そこで手っ取り早い出合いとしてマッチングアプリの使用を考えたが、どうしても抵抗があって、登録できなかった。そういうサービスには、火遊び感覚で登録している人も多いと聞く。処女の呪縛がゆるみこそすれ、「使い捨てられたくない。大切にされたい」という自分の素直な気持ちを大事にしてあげたかった。

でも、こんなことでいちいち怖がっていては、わたしはいつまでたってもひとりのままかもしれない。「やっぱりあのときアプリに登録しておくんだった」と30歳になっても40歳になっても後悔する自分の姿が頭の中ににチラついて、インストールボタンを押しかけてはやめる、ということを繰り返していた。

そんな折、職場の同僚が「マッチングアプリを使った出会いはダメだ。真正面から否定するには使った経験が必要だから、そのために登録してやった」と息巻いていた。

歪んでいる、気持ち悪いと思った。

それがその人なりの照れ隠しだとか嘘だとか、そんなことはどうでもいい。本当に出会いを求めている人がいる場を踏みにじるようなことを言ってしまうことが許せなかった。そしてなにより、「将来、後悔しないように」とインストールしかけていたわたしも同じくらい最低だということに気がつき、自分で自分が気持ち悪くなった。その話を聞いて数分間、心臓のドキドキがしばらく止まらなかった。

その一件以来、わたしは自分が心からやってみたいと思うまで、マッチングアプリには手を出さないと決めた。それはまるで、「本当に抱かれても良いと思える人があらわれるまで処女でい続けたい」と考えていた20歳の自分と同じだった。

こんな具合に、わたしの前には超えなければならないハードルが幾重にも並んでいるのである。

このお話をここでやめる理由

マッチングアプリを避ける理由のもうひとつ。実は去年の夏頃から、わたしには気になる人がいる。詳しくは話せないけれど、前々から知り合いだった人だ。

この気持ちに気がついたとき、わたしは「誰かのそばにいたい」という気持ちを諦めなくていいのだと、救われた気持ちになった。誰かを好きになれないわけじゃない。こんな簡単な事実が、6年にも及んだ重苦しい毎日に一筋の光をもたらしてくれた。

その人ともっとたくさん話していたいと思うし、その人が嬉しそうだとわたしも嬉しくなる。でも、キスしたい、触れ合いたいという気持ちには、まだなりきれていない。だから「好きな人」と言えずにいる。

これが「好き」という気持ちなのだろうか。自分から誰かを好きになったのはもう10年以上も前、つまり中学生の頃が最後なので、よくわからないのだ。この「恋愛感情のリハビリ期間」ともいえる時期を乗り越えたとき、わたしはその人に一緒にいて欲しいと打ち明けることになるのだろうか。それとも、今はまだ思いもよらぬ別の誰かにそう話す日が来るのだろうか。

想像もつかないが、未来が楽しみだと思えたのは数年ぶりのことである。

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この話はここでおしまいにします。家族にも友人にも誰にも話せないまま溜め続けた心の澱の重さに耐えかねて、誰かに聞いて欲しくてこのnoteを書き始めましたが、いざ書き始めると、この話題がひととおり終わるまで、他のことについて書いてはいけないような気がして、自分のnoteアカウントにアクセスすることすら億劫になっていました。

一通り振り返って話をしたことで、ずいぶんと心が軽くなった気がします。気になる人ができたのも、もしかするとこうやって誰かに話せたからなのかもしれません。

6年に及ぶ心の葛藤をすべて書き起こそうと思えばできないこともないですが、これ以上は、書けば書くほど深みにはまって抜けられなくなりそうな気がします。だから、「処女でなくなっても構わないから、誰かを抱きしめたい」と思えるようになったいま、ここでおしまいにすることにしました。

これからはまた、なんでもない毎日について書くことができるのだと思うと、とてもほっとしています。

もし3つのお話を全部読んでくださった方がいらっしゃるなら、お礼を申し上げます。ありがとうございました。

(Photo by Kristina Tripkovic on Unsplash)

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