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『アイアムアヒーロー』が20巻だけない

アイアムアヒーローの20巻だけ本棚から欠けている事に気付いた。まあ色んな人間に貸したりしていたので、どうせ誰かの汚い部屋の一角に今も眠っているとかそんな感じだろう。一巻だけないのもモヤっとするよなあとか思いつつ、気付いたら12巻くらいから読み返し、完結の22巻まで一気読みしてしまった。読んでて新たに発見したけど、17巻以降、後半の舞台ってまんま池袋なんだよなあ。大学のキャンパスが池袋だから、高校生の頃は気づかなかったけど……最終巻で英雄の拠点になってるのが池袋西口の芸術劇場前でなおかつ、そこで作物を作っててテンション上がった。なぜ12巻から反復したのかって言うと、クルス編がやっぱり一番好きだったために、何回も読み返してかなり覚えてるからなのだ。それ以降はあんま読み返してなかったので、つい時間を忘れて没頭してしまった。友達から一緒にオンゲーやろうと言われていたが、その約束も反故にしてしまうほど……

と同時にまとめサイトだったり、Amazonのレビューとかをさらってみると、完結の仕方に対しての酷評がヤバイ。Amazonの星1コメとか罵詈雑言の嵐。おれは逆張りオタクなのでそういう、終わり良ければすべて良しの逆ベクトル、つまり、終わり悪けりゃキレ散らかす、みたいなムーブに対して異議を唱えたくて。例え、完結の仕方が納得行かなかったり、伏線が回収しきれてなくても、一時的な感情に流されてその作品の全体的な評価を決めてしまうのはおかしくないですか。特に、アイアムアヒーローってしっかりとした軸というかテーマがある、あとかなりリアリティに拘ってると思う。だから、あの完結の仕方(英雄がただ一人東京で生き残って孤独に生きていく。対照的に中田コロリ、苫米地グループの生き残りは、伊豆七島で新たなコミュニティを築いていく。)ってのも一貫したテーマに沿っているからで、アイアムアヒーローの表層的な面白さ(エンタメ性)にしか目がいってない読者はそこで置いてきぼりを食らってしまう。で、そのテーマっていうのはルサンチマンと孤独。作中の言葉を借りるなら、「世界が変わってもモテる奴はモテるし、モテない奴はモテないまま。」「人間は究極的には孤独で生きていくしかない。」


結局のところ、主人公鈴木英雄はもちろん何度かヒーローにはなり得たけど、最終的には孤独な立場に落ち着いてしまっている。大切だったヒロイン2人も救う事ができなかった。しかし、「でもおれはここまでよく頑張ったよな」と自己完結しながら独りごちる最終巻でのシーンが印象的。

<出典:『アイアムアヒーロー』22巻/花沢健吾/小学館>


最初から最後まで英雄は他者性を必要としていない。だから、他人に関心がないのだ。一巻の時から仕事場ではずっと独り言を言っているし、作中を通して登場するイマジナリーフレンドの矢島も、英雄の自閉的な傾向の証左だ。さらにはZQNがいなくなった世界で独り、小田さん、比呂美と3Pする妄想に耽りながら自涜しているところも相変わらずで愛おしい。というかゾンビから救えなかったヒロイン二人をネタに自慰行為する主人公とかまじで唯一無二だろ。あと何より共感したし、刺さったのは、英雄のエピローグでのセリフ「かかってこいよ…俺の人生…」

<出典:『アイアムアヒーロー』22巻/花沢健吾/小学館>

おれも思うけど、孤独と戦うのが人生みたいなところある。言語化するのが難しいけど、キラキラした生活ができないおれみたいな人間はふとした時とか、暇で暇でどうしようもない時に油断するとバッドにはいる。漠然とした不安というか、自分の人生のしょうもなさみたいなのに気づいてしまって。だからしばしば英雄の戯言とか妄言めいた発言には深く共感してしまう。

そして何よりも、終わり方も含めてリアルなストーリーテリングだなと感じた。普通の漫画だったら読者が期待する方向、中田コロリと共闘するとか、クルスとの直接対決とか、比呂美を救い出す、には転がらずに終わってしまう。20巻でも決意新たに比呂美救出に踏み出そうとしていたが、その意気込みも中途半端に終わってしまう。あのシーンがあったことで色々誤解とか齟齬が生まれてしまった気もする。最後の戦闘シーンに至っては、主人公が狙撃で活躍するんじゃなくて、人間サイドを誤射したりしてトロールしまくりだし。あまつさえ、盟友だった中田コロリ(ドクロマスクで顔が判別不可だったが)も「夏になると湘南で酒を飲んで騒ぎまくり、飲酒運転しても捕まらずにのうのうとやってきた連中」と決めつけて下腹部を狙撃してしまう。ここでも英雄のルサンチマンが引き金となったわけだが… そして狙撃された中田コロリは、私淑している英雄の激レア単行本『アンカットペニス』で弾丸を受け止め、一命をとりとめるが、両者、最後まで相手が誰なのかわからずじまいになってしまう。その後も英雄に見せるために漫画を描き続けるコロリさんの姿がなんとも切ないが…

<出典:同上>


前述したように中田コロリと鈴木英雄は、明暗分かれる結末になる。コロリは、パンデミック以前から漫画家としても成功し、終末後はコミュニティのリーダーとして仲間を救い続けて、自分の描きたかった漫画も描けるようになる。一方の英雄は、最初から最後までうだつが上がらない人間として首尾一貫した、情けない立ち振る舞いを見せてしまう。最終的には無論、唯一のとりえであった漫画とも断絶する。でも、そんな英雄のかすかに光る才能に、真のヒーローである中田コロリが惚れ込んでいるという構図は、かなりアイロニックだ。つまるところ、世界がいかに変容しようとも、ほとんどの人間は変われないということ。

ともあれ最終巻はこのような幕引きだったわけだけど、現実での事の成り行きってのもこんな感じだよなあと変に納得させられた。今までの性分が根底から覆って、イケてない奴が世界の救世主になれるわけはないのだ。だけど、ある時点ある場所では英雄は不格好ながらも確実に誰かの”ヒーロー”になれたし、社会的にダメダメだった人間の刹那的な輝きには何回も興奮してしまった。その過程も含めて評価するべきだし、この作品はエンタメ性と芸術を両立した、現代には非常に稀有なものであることは自明です、まじで。でもまあとにかくラストについては、「最初から最後まで孤独を抱えていた英雄は、社会、他者とは完全に断ち切られ、それを契機に狩猟民として一人で生を獲得していく覚悟を決める」っていうのが自分的な解釈ではある。もちろん大きな苦しみと痛みを伴うけど、俺にはある種の救いのようにも感じられた。人間として生活していく上でのしがらみからすべて解き放たれたような。というか何よりも感染してるのに、「歩兵ZQN」にも「狂巣」にも「変異体ZQN」にもなれず、巣あるいは集積脳としての共同体からも生かされる形で拒絶された英雄こそが一番の異能生存体ですわよね(´;ω;`)


今日の一曲。


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