共有と共感

「共有や共感って大事だとよく聞くけど本当に必要?むしろ共有や共感しやすい形に簡略化されることで失われるものが多いのでは?」

という文章を読んでとても共感しているという複雑な状況に今ある。確かに共有するためには共有する規模に応じた共通項が必要となるので、自分の頭で考えたことの跳ねたり尖ったりしてる部分をこすって落として無難な形にまるめてお届けする感覚があって「違うんだよなあ」ともどかしく感じることが多い。

売れるハウツー本とかその最終形態なんじゃないか。七つの習慣で人生が変わるとかまるめすぎだろうと思うけど。

共感も同じだ。仕事でも「出来るだけ多くのターゲットに共感してもらうコンテンツを」みたいな言葉が使われたりするけど、それを本当に実行しようとすると最終的に「ただかわいい」みたいなものをつくるしかなくなる。

共有も共感も、自分と少なくとも一人の他者がいる前提なので、他者をこう動かしてやろうという意志が裏側にあって、それゆえどうしたって少し傲慢な行為になると思う。どうしても共有や共感を得なくては!という状況であったとしても、少なくともその傲慢さは意識しながらでありたい。

でも最近感じているのは、共有や共感を得ようとしないで発した言葉や考えたアイデアの強さだ。簡略化されずに頭の中からつるっと出てきたものは、わかりにくいし変な形をしてるけど何も失ってないし異様な存在感がある。

多くの人が共感する前提じゃないからそっぽを向く人も多いけど、何人かには強烈に刺さり、しかもその何人かはそれぞれ違った捉え方をしてたりする。

だからナラティブ(これもまるめた言葉だけど)が大事で実は超個人的なことが超普遍的なことにつながるのはそういうことなんじゃないか、とシェア全盛のご時世に思う夜であった。



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