具体と抽象〜とある会話の続き
仮にその人をKさんと呼ぶことにしよう。
Kさんとの会話は、話し込むうちにいつのまにか時間が過ぎ、面白い思考テーマに差し掛かった途中でタイムアップになるのはいつものことだ。
そしてその思考テーマは、その面白さゆえにその後も自分の頭の中で動きつづける。これもまたいつものことだ。この状態を「Kさんによる知的慣性の法則」と呼んでいる。というか今そう呼ぶことにした。
今回のテーマは「具体と抽象について」。KJ法の話から発展したテーマだ。KJ法で具体から抽象にまとめていく過程の面白さと、抽象化し過ぎた時の「何か言っているようで何も言ってないよね」という状態の、ハウツー本ライクな浅さ。
どのレベルの具体・抽象度が一番いいんだろうね、と話しているところでタイムアップ。そこから知的慣性の法則がはじまる。
ちなみに今の状態を絵で表すとこう。
解像度という言葉は言い得てない気もするが、はっきりわかる〜あいまい・おぼろげのレベル感を示している。
どのレベルがいいんだろうと考えたが、なかなかピンとこない。そこで思ったのは「そもそも具体と抽象という捉え方をする(その言葉を使う)からわからなくなるのでは?」ということだ。
そしてこんな図を考えた。
解像度の高低ではなく、つながりの強弱で考えるといいのでは?
個はもちろんつながりがないのでバラバラだけど、群になったらなったで内部のつながりは弱くなる。群になればなるほど共通でつながれる要素は減るからだ。
ただこの「つながり」というのが曲者だ。
例えば「公園の居心地」というテーマで考えてみる。まずは公園にある要素を書き出してみると
ブランコ、ジャングルジム、シーソー、ベンチ池、風、木、陽だまり…
ここで「ブランコ、ジャングルジム、シーソーは”遊具”というつながりでまとめられるよね」「池や風、木や陽だまりは自然環境つながりだよね」と考えてしまうと浅くなると思うのだ。それはつながりというより単なるカテゴリーで、そうやってまとめても想定の域や常識の枠を超えない。
そうではなく「仲良くなれそうかどうか」で考えてみるといいんじゃないか。
例えば「ブランコと風はなんか仲良くなれそうだよね」とか「陽だまりとベンチは親友みたいなもんでしょ」とか。そしてなぜ仲良くなれそうと思ったか、その理由を探っていき言葉にしていく。
こうやって「仲良しグループ」と「その理由の言葉化」を考えていくと、これまでとは違う視点で「公園の居心地」の姿を捉えることができそうだし、ちょうどいいレベルの構成要素にまとまるのではないか。
これはあくまで僕一人による思考実験なので、実際にやってみないと本当にそうかどうかはわからない。
ただ改めて、こういうこと考えるのは本当に楽しいし、もっといろんなテーマで思考実験をしてみたいと思った。性分だなあ。