「わらい」は祈り
この前教えてもらった金子みすゞの「わらい」という詩が素晴らしかった。以下引用すると
それはきれいな薔薇いろで、
芥子つぶよりかちいさくて、
こぼれて土に落ちたとき、
ぱっと花火がはじけるように、
おおきな花がひらくのよ。
もしも泪がこぼれるように、
こんな笑いがこぼれたら、
どんなに、どんなに、きれいでしょう。
この詩は音読すると特に素晴らしくて、言葉ひとつひとつがきらきら光る感じがする(ちなみに詩を読むときは音読するといいです。黙読だけだとどうしても言葉の意味をつかむことに意識がいくので)。
「もしも泪がこぼれるように」という一節が気になって、そういえば詩は知っていても金子みすゞについてはあまり知らなかったと思い、金子みすゞについて調べたら辛い出来事の多い人生だったことがわかった。
幼い頃の父の死や親友の死、辛い結婚生活と離婚、娘の親権を離婚した父親から求められる中、金子みすゞは娘を母に託すようお願いしながら毒を飲んで26歳で自殺したのだ。
「こだまでしょうか」や「私と小鳥と鈴と」の詩から、あたたかく包み込むような優しい詩を書く人だと勝手に思ってたけど、それらの詩は、辛い現実に囲まれ、悲しみに暮れる中で、祈るように書いた詩だったんじゃないか。
詩は言葉を感じるのであって、詩人の人生をそこに重ね合わせるものじゃないと思っているけど、金子みすゞの人生を思うと、一見ほのぼのした言葉の裏にある祈りに思いを馳せてしまう。
「わらい」に感じた光は、祈りの光だったのかなあ。