震災クロニクル(東日本大震災時事日記)
震災クロニクル(東日本大震災時事日記) 3/11①
(パチンコ屋で遊戯中、それは突然やってきた。
ズドン!
射幸性を煽る大音量の店内音楽の中からもはっきりとわかるザワザワ。店内のどよめきとドル箱タワーがひっくり返る音が遠くから響いてくる。ホールの床から伝わる振動で客足が狭い出入り口に徐々に向かっていく。振動が横揺れから地面全体をシェイクするように僕らを揺り動かしていく。さすが天井のライトを見ると左右に大きく揺れていて、いつ落ちてくるともわからない状態だったので、自分もおのずと足が外に向いた。
駆け足で外に出ると、周囲から
カラカラ
カラカラ
カラカラ
乾いた音があちらこちらからする。
なんだ??よく分からない。
周囲を見回すと、右往左往する人々の群れ。
電線は大きく揺れ、アスファルトにはヒビが入り、左右交互に揺れている。
大分長く揺れている。先程から聞こえるカラカラという乾いた音はなんだろう。
家のあちこちから砂ぼこりのようなものが立ち込める。
乾いた音は家の瓦が崩れる音が乾いた音の正体だった。
揺れの大きさから、立っていられなくなり、地面に手をついた。辺りを見渡し、あちこちから多くの煙が上がった。火事の煙ではない砂煙のようなものだ。
とりあえず自分の真上には電線はない。少なくとも感電死することはないということを確認。この揺れの中で命にかかわることに関しては意外と冷静でいることができたのは今でも不思議に思う。
ある程度揺れが収まり、辺りの人々はまた店内に吸い込まれていく。今考えると、ギャンブル依存症だよ、自分を含めて……。あの天変地異も喉元過ぎれば熱さ忘れる。こんな中でもまだ遊戯に興じれる狂った神経の持ち主達。私もその中の一人だ。しかし店内の様子に暫し愕然。
辺りはメダルとパチンコ玉が散乱していて、とても普通ではない。店員が客の安全のためと、外への誘導を始める。出玉保証のクレームが出始める。店員に食って掛かるまではないが、ある程度の話の内容は聞こえてくる。
あぁ、自分のその仲間ながら、ギャンブルなんて嫌になる。結局のところ、世界がどうなろうとも、カネ、カネ、カネなんだ。
後日、持ち玉、持ちメダル保証のため
店員同伴の確認作業が始まる。自分は一箱持っていたので1000枚保証であった。身分証明書を確認後、レシートをもらい、パチンコ店を後にした。すると、ガラにもなく、仕事場が心配になり、仕事場に向かっていた。
なぜかは分からないが、事態の異常さで、普段仲がいいわけでもない社員同僚、上司の安否を確認したくなったのだ。
そのときの自分はまだ事態の重大さに何も気づいていなかった。
3/11②
16:00頃、指定管理を受けている施設に向かう。事務所には理事長、数名のスタッフが電話の受け答えをしている。ロビーのソファには隣接している体育館で友達とバスケットをしていた中学生たちが困惑している。
どうすればいいのだろう。
とりあえず今日は卒業式。学校も早く終わり、みんなで遊んでいたのだろう。
自分はスタッフの一人とこの集団を車で自宅に送ってくると伝え、施設を出た。
街は道路も渋滞ぎみで、歩いてる人は右往左往しながら、見ず知らずてあろう他人と声を掛け合っている。
ガソリンスタンドには給油待ちの車で並びが始まっていた。不思議そうに後部座席の子供たちが混乱した町並みを眺めている。
何を思うのだろう。
不思議と笑みがこぼれた。不謹慎ではあったけれど、浮き足だった街は賑やかで、非日常が彼らには滑稽に写っていたようだ。
最後の一人を残して、子供たちはすべて自宅に送り届けた。最後の一人は家が留守で、誰もいなかった。家の中はもうめちゃくちゃで足の踏み場もない。火事になりそうなコンセントをとりあえず抜いておいた。
地震のせいでそこらじゅうにものが散らばっていた。そのまま帰るのも心配で、隣の家の人に子供をお願いして、施設に戻った。そのころからだろうか、今の状態が単なる大地震ではないと予感したのは。
車の行き来が激しくなり、踏切や信号でしばしば長時間待つようになっていた。
ふとラジオをつけると、自分達が想像していた以上に事態は深刻になっていた。
津波である。
自分達は急いで施設に戻った。市役所の商工労政課の職員が数人来ていた。
どうやらこの施設は避難所となったらしい。
宿直の希望をとられた。自分は特にすることもなかったので、勤務を申し出た。各会議室を開け、避難してきた人を迎え入れる準備に取りかかった。
ここまで自分は不思議なほど冷静に対処、行動していたと思う。しかしそれは、これから起こる悲劇を予測できなかっただけだったことにそのときは気がつかなかった。
3/11③
施設に戻った後、戦慄が走る。大津波だ。会議室ロビーのテレビに多くの人が集まる。
全滅だ……
誰かが呟いた。本当にその通りだ。テレビの映像は宮城県名取市のものだったが、この街にも大津波がきたらしい。浜沿いはもう駄目であろう。スタッフの中に20代の女性がいた。彼女の実家は浜沿いらしく、ただ茫然とテレビを眺めていた。家族と連絡がつかないらしい。不安と絶望でただ立ちつくしていただけだった。施設内に次第に多くの人々が集まるようになってきた。おそらくは浜沿いの人で家が流されたか、もしくは地震で家が倒壊した人たちであろう。市役所の人間もひっきりなしに押しかける。事務所は担当者や今後の対応についてで情報が交錯している。自分はとりあえずすべての会議室を開放し、毛布などの調達にあたった。その頃の自分は思考停止で何も考えず、とりあえず動いていた。
実家は浜沿いではなく、おそらく大丈夫であろう。まぁ、ほとんど絶縁状態で実家を出たので、天涯孤独の身だし気に病むこともない。
(この辺のことは話せば長くなるが、とりあえず自分は家族は大嫌い。)
しばらくすると半身泥だらけの集団が入ってきた。老人介護施設の人たちだった。介護施設はほぼ津波にのまれ、何とかみんなで逃げてきたという。急いでストーブを着け、一番大きな会議室に案内した。本当に危機一髪だったのだろう。滑って転んだような泥の付き方ではなかった。腹部より下はすべて泥に漬かっていた。引き波にのまれる寸前で、必死に堪えたらしい。切り傷や擦り傷も無数にあった。
この時は誰も涙することなく、ただ思考停止なのか、無我夢中で必死に動いていた。
しばらくすると、先ほどの女性のスタッフは家族と連絡がついたらしく、急いで家に帰っていった。目は赤く、おそらくはたくさん泣いたであろう狼狽した表情、幾多の涙がこぼれたであろう頬の跡が彼女の心情を物語っていた。
「ここは物資庫になる。」
商工労政課の職員がそう言った。翌日からはここは物資庫になるそうだ。ここに避難している人々は翌日隣の施設に移らなければならない。館内放送でその旨を放送した。職員の間でも動揺が広がっていた。市役所の担当者が具合が悪くなり、倒れた。とりあえず事務所で休んでもらうことになり、横になっていた。やがて緊急の毛布が大量に届いた。各会議室に配り、自分たちも一枚ずつ確保した。保温性に優れ、非常に暖かい。こりゃいい。しかし、自分たちはしばらく使わないので、着替え用ロッカーのわきに重ねておいた。
何気なくスマホを見ると、電波が微弱になっていることに気が付く。どこにもつながらない。ネットもできない。混線しているか、電波塔が倒れた影響だという。まさにどことの連絡も取れない。会社の電話も使えない。陸の孤島になっていた。水道は貯水タンクがあったので、まだ生きてはいたが、それもいつなくなるとも知れない状態であった。私たちはジワリとなにかに追い詰められているような気がした。単なる予感ではあったが、そんな気がしたのだ。それが次第に現実のものとなるとも知らずに。
深い闇が辺りを覆った。震災後初めての夜が僕たちを包み込み、不安な夜が始まったのである。
3/11~12④
50人前後であろうか、この施設に避難してきた市民は。思ったほど多くない。隣の社会福祉協議会や保線センターにも避難者が多く詰めかけているため、混雑がある程度分散したのか、とにかく、一人一人に行き渡るほどの毛布と枕、寝具各種は間に合ったようだ。事務所には自分を含めたスタッフが二人、テレビをつけて次の指示に備えている。テレビには何度も津波の映像が流れ、本当に鬱陶しい。
時折、大きい余震がきて、その度に館内はどよめいた。
ギュイーンギュイーン!!
携帯の緊急メールの音が館内のあちこちから鳴り響く。
また地震だろうか。いいや、そうじゃない。電波が微弱、混線していたので、届かなかったメールが深夜の比較的混線していない時間にたまたま届いただけである。すでに緊急メールは本来の昨日を果たしていない。文明の機器もここまでの災害ともなると、ただのおもちゃである。
「もう意味ないよな。」
スタッフの一人が携帯の電源を切った。家族との連絡もつかない。メッセージも送れない。ネットにも繋がらない。時間を確認するなら、壁にかかっている時計で事足りる。すでにスマートフォンは時計よりも役立たずになり果てた。
事務所には自分を含め、スタッフが二人だけ。市役所の職員は市役所で対策本部の指示待ち。本当に大災害になってしまった。ここで、はじめて自分達がおかれている状況の深刻さを痛感した。
つい数時間前のことだ。避難してきた市民の一人が市役所の職員に話しかけてきた。家のローンについてだ。
「どうすればいい……」
勿論、市役所の職員にそんなことが分かるわけがない。
「大丈夫です。日本政府は外国に借金してでも復興関係に予算をさくはずです。だから、安心して。これからの安全だけを考えましょう。」
彼は優しくいなしていた。流石であった。公務員なりの老練さ、いや老獪さが出たのであろうが、そのときの市民の顔を忘れない。不安の中にもふと安堵ににた落ち着きが垣間見えた。
そのときはただの他人事としか私自身受け止められなかったのかもしれない。しかし、夜が更けるにつれ、不安と恐怖で胸が締め付けられそうにもなった。現実に大きい闇が自分達を飲み込もうとしていた。深夜0時を回り、来訪者もほぼいなくなり、静寂が訪れた。たまに来る余震で度々フロア中の会議室のドアが開く音があちこちからした。
バタンバタン!バタン!
ウィーン
ドアの開く音の中に自動ドアが混じっていた。見ると胸の辺りまで泥だらけの50代くらいの男がフラフラでやってきた。
「隣街から、歩いてきました。家は流されて……」
言葉を失った。隣街まで30キロ以上ある。それを歩いてきたというのだ。とても信じられない。この寒空の下、裸足で、歩いてきたというのか。確かに傷だらけで目も当てられない様子だ。しかし、彼の話は真実だった。隣街の避難所が一杯になって、他の避難所を探していたのだという。すぐに、隣の保健センターに連れていった。そこには市役所の職員や医療関係者がいる。避難所にもなっている。とにかく彼を保護してもらおう。すぐに話をつけ、彼には保健センターの避難所に入ってもらうことにした。彼の寂しそうな顔は今でも思い出す。おそらくすべてを失ったのだ。表情には生きている感じがなかった。ただ無機質な表情がそこにあるだけだった。
施設に戻ると市役所の職員が数名事務所に来ていた。支援物資が隣の体育館に届くらしい。体育館に運び入れるのを手伝ってほしいとのことだった。私たちは黙ったまま、外の階段に向かっていた。すると、暗闇からヘッドランプが2つぼんやりとこちらに向かってきたのが分かった。
3/12⑤
大型トレーラーが体育館に横付けした。運び役は自分を含めて5人。施設スタッフと市役所の商工労政課の3人だ。水や毛布が来るのかを思いきや、食料だった。PASCOのパンが大量に見えた。その他、水や軽食が大量に積まれている。すべてを体育館に運びこんだ。弁当やお茶、ミネラルウォーター、お菓子。とりあえずは餓死しないようにしているのか。毛布や衣類も多く運び込まれた。
ありがたい。正直、何も喉を通らなかったが。
トレーラーの積み荷が全て運び終わった後、運転手はすぐに出発した。
何かがおかしい。妙によそよそしく、挨拶も無しで出発してしまった。まぁ、次に向かうところがあるのだろう。そのときは特に気にも留めなかったが、もう取り返しのつかないところまで来ていたのかもしれない、何かが。運び終わった後、ちょっと夜食をいただき、暫し歓談。
……しかし口から出るのは不安ばかり。黙っていた方が精神衛生上よいはずだ。今後のことを考えると、食べ物が喉を通らない。アパートはどうなっているのだろうか。安アパートだから倒壊したか。それとも火事にでもなったのかもしれない。静かすぎる夜は無機質な蛍光灯の下、食事をする私たちまでも深い闇に飲み込んでいった。ネガティブなことばかり口から飛び出した。
ふと市役所の職員から出た言葉がその場の空気を凍りつかせた。
「大熊の原発なんだけど……自衛隊の話によると相当危険な状態みたい。」一同戦慄が走った。テレビでも原発のニュースが徐々に時間を割いていった。原子炉の温度が下がらない。そんなニュースや首相会見は夕方からずっとやっていた。炉心溶融しただの、冷却装置が作動しないだの、非常用電源が動かないだの……深刻な問題であることは変わらないが、爆発までには至っていない。みんなマスクをしているが、それは周りの空気に流されての事であった。
きっと大丈夫だろう。
そんな甘えがたった今吹き飛んだ。外国人には原発半径100キロから離れる指示があったという。支援物資を運ぶトレーラーも運転手も川俣よりこちらには来たくないという。
合点がいった。先ほどの愛想のないドライバーはまさにこの状態だったのだ。無理やりお願いして来てもらったに違いない。ガソリンの大型車も会社からこの街には入るなと指示が来ているようだ。
市役所の職員は次々と話し始めた。
21:23 半径3キロ以内の地域の住民に避難指示。10キロ以内には屋内退避を指示
この時にすでに外国人は福島からも離れていた。私たちの知らない間にこの半径は広がっていたのだ。もちろん国ごとに危険レベルの設定は異なるわけだが、少なくともここはもう危険と判断した国は確実に増え始めていた。
自分たちがいるのは原発からの距離25キロ近辺。まだ何の指示もない。しかし、物資はすでに届きにくくなっていた。先ほどのトレーラーが最後の支援かもしれない。
夜食の弁当の箸がゆっくりと進み始めた。味わって食べなければ。もう食事にはありつけないかもしれない。暗闇は明確に絶望的な翌日を確実に照らし始めていた。
3/12⑥
物資の運び込みも終わり、朝が近づくにつれ、市役所の職員も集まりだした。もちろん家には帰っていないようだ。市役所に詰めて、各所の対応をしていたらしい。辺りまだ暗いが、状況は次第に明るみになっていた。
原発は相当やばい状態。(外国人や米軍が逃げだす程度に)
原発の影響で物資が届きにくい状態になっている。
電波トラブルで携帯電話やネットがつながらない。(つながりにくい)
午前4時、外はまだ暗闇。底冷えのする寒さだ。施設は多くの寝息に包まれ、ひと時の静寂が辺りを覆った。テレビは震災と原発関連がほぼ同じくらいの重要度になっていた。アパートはどうなっているだろう。ふと頭に生活のことがよぎる。どうしようもない状態ではあるが、ふとした時に毎日の生活の事を思い出す。震災という非日常の中に日常を顧みる余裕などないはずなのに。こんな時でも私の頭の中は非常なまでに非人間的であった。
ゲオに返すレンタル商品どうしよう。
銭湯は開いてるかな。
朝になったら、アパートに帰って寝よう。
なんて呑気な奴だ。自分でも嫌になる。シビアな状況なのにこんなことを考えている自分はサイコパスなのか。それとも厳しい現実からの逃避行動なのか。自分の心理状態は常人ではない。そう思い込むことだけがこの状況の中自分を保っていられる唯一の思考だった。
「沿岸に千人くらいの遺体があがった。」
市役所の職員が暗がりの中、施設巡回中の私たちに話しかけてきた。ぐったりと肩を落としていた。目も赤みを帯びている。相当な事だったのだろう。気も動転して、狼狽した様子だった。
一方それを伝えられた自分はというとそんなことを言われても自分にはどうしようもなかった。津波の被害が甚大であることは知っていたが、当然そうなるであろう結果だった。特に驚くようなことではない。しかももうどうしようもないのである。怖いくらい冷静な思考と無感情の生き物がまさにその時の自分だった。
宿直のスタッフは明日も自分だろう。家族のことを気にしなくてもいいのは自分くらいだ。天涯孤独だから。まぁいいや。朝は帰ろう。さっさと寝たい。外は次第に明るくなってきた。暗がりの中、薄明りが次第に優勢を極め、辺りを支配し始めたとき、この一連の震災の全容が明らかになろうとしていた。断片的な地震の被害。風聞による津波の被害。原発の状態は私の心に真に刺さらなかった。どこか他人事なのだろうか。その非日常を心のどこかで自分は楽しんでいたのかもしれない。
ゲスノ極みニンゲン
自分はまさにそのようなものだろう。そんな称号があるならば喜んでそれを受け入れる心の余裕が自分にはまだあった。震災という事実はまだ自分にとって他人事。いや、対岸の火事。どこか遠くの国の話としてしか認知できなかった。自分は社会をドロップアウトした人間だし、この世界がどうなろうと、自分にとっての人生のピークはすでに過ぎ去った。後は残りカスみたいな人生だろうと投げやりになっていた自分にとって震災なんて、どうってことない、人生のエピローグなんだろうな。今は与えられたこの状況をどう捉えればいいのだろう。とりあえずはロールを果たそう、この施設に宿泊している人々に不自由がないように。
午前6時。
一斉にあちこちからサイレンが嘶きだした。もはや消防か救急かもわからない。音の嵐は一つの集合体となって海側へと向かっていった。空を見上げると無数のカラスもそれを追いかけるように海へと向かっていく、餌場に向かうように大勢で。想像もしたくないことだが、きっとそういう惨状なのだろう。市役所の職員もひっきりなしに出入りし始めた。弁当が支給され、他のスタッフも出勤してきた。自分は引継ぎをし、さっさとアパートに向かった。帰路で飲み物を買おうとコンビニに立ち寄った。店内は品切れを起こし、弁当の類はガラガラだ。ミネラルウォーターもスッカラカンになっていた。少し焦り始め、500mlのお茶を3本ほど買った。不思議とこんな状況なのに眠気が自分を支配していた。さっさと寝てしまおう。
アパートに到着したが、外見は何も変わらなかった。よくもまぁ、こんなに古い建物なのに倒壊しなかったものだ。中は本棚がひっくり返りひどいものだったが、想像したよりもずっと軽いものだった。おもむろに蛇口をひねると、白い水が出た。
こりゃダメだ。上下水道にトラブルが出ているのだろう。仕方がないので、先ほど買ったお茶で頭を洗った。意外とさっぱりして、気持ちがいい。外では何やら雑踏やら物音が激しかったが、自分はただ隔絶された世界のようにのんびりと泥のように眠った。今マンでのすべて夢だったらと、淡い期待を込めながら。
3/12⑦
…………
夢も見ないくらい深い眠りについていたのだろう。黒い曇天が静かに開いた。意識がはっきりとして、目覚めたことに気がついた。朝なのか夜なのかさえわからない。
ええと…なにがあったんだっけ
しばらく昨日のコトを考えていた。プレビューを頭の中で再生しながら、コトの重大さにようやく思い至った。外は明るい。時計を見ると、3時をまわっていた。数時間寝たらしい。ふと外に意識をやると、雪が降ったかのように静寂を保っていた。車の可動音さえ聞こえない。やはり日常ではなく、非日常がそこにあった。あれは現実だったのだ。自分は非日常の只中にいる。ふと喉に乾きを覚え、冷蔵庫を開けた。独り暮らしの自分に買い置きがあるわけではない。仕方がないので、財布をもって表の自動販売機に向かった。ヨロヨロと立ち上がり、明らかに寝起きであろう顔をそのままにアパートの通りを数メートル歩いた。通りに人は見られなかった。誰もいないようにひっそりと建物があるだけである。これはどうしたことだろう。世界に自分一人だけしかいなくなったかのような異様な光景であった。一戸建ての家には人がいる様子はない。シンと耳鳴りがすするくらいの静寂である。沈黙ではなく静寂だ。黙っているのではない。そこには生き物がいないのだ。そんな雰囲気である。自動販売機まで歩くと、その異様さが改めて分かった。全ての飲み物が売り切れになっていた。
えっ……
思わず声が漏れた。自動販売機が完売したのである。そんな光景を自分はそのときまで見たことがなかった。
自動販売機で飲み物を買えなかった。他だそれだけのコトなのに、自分の心は深く抉られた。苛烈な現実の一部分を自分は知ってしまったのである。このときにはすでに自分の身の回りで想像以上のコトが起こっていた。喉の乾きはいつしか忘れられ、急いでアパートに戻った。部屋に入り、ラジオをつけた。
………
………
………
震災であった。
地震、津波、原発トラブル
自分の回りはこの三重苦に覆われていた。
仕事に行かないと……
普段、仕事を嫌がっている人間の発想ではない。ニヤリと自分をほくそ笑みながら、仕事に向かおうとエンジンをかけた。
通りに出ると、そこはまさに異様な光景だった。コンビニか閉まっている。窓には段ボールが張られ、ゴミ箱が自動ドアの前に置かれている。ゴミ箱にはゴミが山のように押し込められていた。駐車場にはゴミがあちこちに投げ捨てられている。ふと向かい側を見ると、ガソリンスタンドにロープが張られ、手書きの看板が見える。
「完売、緊急車両優先」
少し笑ってしまった。これではガソリンがあるのかないのか分からない。とにかく一般には販売できないということまでは理解できた。道路に対向車はない。蛇行運転しても咎めるものはない。
不謹慎なやつだ。
自分自身を蔑みながらも、辺りの様子を眺めながら、低速で仕事場である施設へ向かった。ふとガソリンメーターに目をやると、半分くらいだろうか、ある程度は入っている。まだ心配になる量ではない。しかし、これがいつまで続くだろう。そう考えると不安が大きく自分を包む。ボロの軽自動車で走行距離は10万キロを越えている。調子はいいし、愛着もあるが、少しこの現状では不安だった。燃費の面では心強かったことも間違いなかったけど。
そのガソリンスタンドの光景が脳裏に焼き付き、自分は静かに車内暖房を切り、ペダルを緩めた。
北斗の拳の世界だよなぁ。
閑散とした町並みを眺めながら、ふと思った。
時は20**年!世界は核の炎に包まれた!
嗚呼、バカなやつだ。この非常時にこんなことしか考えられないのか。時々自分が嫌になる。自分が軽蔑している自分自身がまた自己批判を始めた。
仕事場の施設が近くなると、この異様な光景はさらに異様さを増す。重機や作業車両があちこちに見えた。広い正面駐車場には何千もの水のボトルの山である。
どうなってしまったんだ。脇の駐車場に車を停めて、駆け足で施設の事務所に入っていった。
3/12⑧
施設の事務所には職員数名、理事長、市役所の職員数人が何やら話している。
「まいったよ……」
市役所の職員がうなだれる。
「〇〇市議なんだけど、『俺の車はハイオクなんだから、入れられるところ捜せ』って職員に言ってきてさ。こっちの身にもなってくれよ……。」
結局はそんなものなのだろうか。特段驚きはしなかった。政治家なんてしょせん政治屋だろう。利権やらなんやら薄汚いものが薄い面の皮から透けて見える。その職員も災難なことだ。この震災でさらに災難を受けるとは不幸なことで、自分だったら絶望の丘に立ち尽くすにちがいない。ガソリンの用立てなんてこの地域一帯では困難すぎる業務である。いまやガソリンはダイヤモンドみたいに貴重であるらしい。
机上には職員が持ってきた弁当が数個並んでいた。少し小さめののり弁のようなものだ。一ついただこう。テレビを眺めながら、弁当を貪るが、どうも食事が喉を通らない。食欲もない。感情の薄い生き物がそこで何かを食べているだけであった。ふとテレビに原発の映像がさっと流れ込んだ。
ボフッ!
音は聞こえなかったが、そんな感じに建物が風船のように割れた。白煙が薄く上がる。コメンテータが言葉を失う。事務所にいた私たちも言葉を失った。
爆発……なのか?少し沈黙があった後、テレビではコメンテータが重い口を開いた。「線量が……情報が……」結局のところ、何も分からないらしい。福島原発の出入り口の線量が発表された。すでに単位が違っていて、もはやマスクや外出を控えるなど、考えざるを得ない状況だった。
ふと電話が鳴る。事務所の電話はかろうじて復旧したらしい。近くのスポーツ施設の管理からだ。とりあえず職員は全員施設内に入ったらしい。話によると、外で植え込みの作業をしていた時に体育館の窓が全部
ビシーッ!
と音を響かせ、震えたという。衝撃波のようなものだろうか。その場でみんなが危険と感じ、施設内に入ったらしい。ちょうど原発1号機爆発の映像が飛び込んだ時間の少し前のことだ。その爆発によるものだろうか。自分ではすぐに判断できないが、容易に想像出来る関連させやすい情報であった。社交辞令の生存確認の後、電話を切った。事務所内の目線が暗い影を落としたかのように下へ向かう。
とりあえず機能の打ち合わせの通り、避難民は隣の社会福祉協議会の建物に移動になる旨、館内放送で職員が知らせる。
「施設内に避難している皆さんにお知らせします。…………避難所は隣の社会福祉協議会施設に移動になります。…………荷物をまとめて、廊下に出て待っていてください。」
一文ずつ数拍おきながら、分かりやすいスピードで明瞭に館内放送が響き渡る。さすがだなぁ。こういうことに公務員の仕事の流儀を感じる。自分には思いもよらなかった配慮の放送である。自分だったらできるだろうか。いや、できない。その行動一つに自分は尊敬の念を感じずにはいられなかった。
数分後、廊下の裏口まで長蛇の列ができた。裏口の扉は固く閉ざされている。この時すでに外の線量は相当なもので、マスクを着用は当たり前で、出歩く人はめったにいなかった。被爆を避けるため、最小距離で行ける裏口からの退場になったわけだ。裏口から社会福祉協議会の正面玄関が見える。向こうのドアが開くと、こちらも呼びかけをして堰き止めていた人の流れが一斉に流れだした。各自それぞれマスクをし、ない人は布で顔を覆い、避難さながらに数十メートルの民族大移動である。
施設は一気に閑散となった。地震の影響で消防の赤いランプが飛び出し、伝上のあちこちにひびが見られた。人がいなくなるとこういったものが目立ってくる。理事長は知らぬ間に事務所から消えた。どこかに行ったらしい。職員も日が暮れるにつれ、少なくなり、また長い夜が始まるのかと、事務所に入った。物資が届かない状態はもはや深刻な状態になっており、この地域は原発の汚染地域の如く、どんな支援物資も届かない陸の孤島になっていった。自衛隊の車両が道路を行き交い、町を歩く人々は疎らにしかいない。
テレビは震災の事よりも原発の様子を伝えるニュースが大部分になっていった。線量の放送もされ始めた。しかし、原発からの近距離に線量計はすべて壊れていて、線量の数値は発表されなかった。
「本当か。本当は壊れていないんじゃないか。ただ発表できる線量ではないだけではないか。」
自分が報道に初めて抱いた懐疑の目であった。壊れている線量計は原発から近い所に限られていた。明らかに都合がいい。そんな偶然が起こるだろうか。
本当のことが知りたい。もはや最悪の状況を聞く心の準備はできている。想像するに容易い。きっと切望的な事実なんだろう。
「直ちに影響はない。」
この言葉がすべてを物語っているではないか。
自分は嘘で塗り固められた気休め、慰めの言葉をもはや看過できる状態ではなかった。このままテレビをつけていると頭がおかしくなりそうだ。悔しくも使えないスマホを眺めて時間をつぶすしかない自分を情けなく無力に感じていた。
気づけは辺りは薄暗く、夜になろうとしていた。不安な二夜目が僕らを包みこむように辺りを覆った。
【プチコラム】
上の記事をご覧ください。写真に写っている先生は何の関係もありません。問題は1枚目の『混乱する教師たち』のタイトルに書かれている文です。これは2011年秋の週刊誌だったと記憶しています。当時、私はこの内容をよく知る職場にいました。この信じられない言動は真実です。この週刊誌が発売されたときに当該教員は職員室で「おれじゃねぇぞ!」と連呼していたそうです。
……
いやいや、お前だよ……
誰もが分かることでした。この理科教師は現在でも教員をしています。とある中学校で学年主任をしているそうです。
この教員は震災以前から話題でした。教育実習の学生をいじめて泣かせたり、末期がんで入院している祖父の看病している講師に「どうせ死ぬんだし。お前の仕事をなくすことだってこっちはできるんだぞ。」と恫喝したり。
信じられないようなことばかりですが、少なくとも自分が関わったことがあることに関してはすべて真実です。生徒や保護者との対立からバレーボール協会を追い出され、部活動ではバレーボール部を担当させてもらえないそうです。
そもそも福島県のとある地域のバレーボール協会は問題のある教員ばかり。パワハラ、セクハラ、恫喝まがいのいじめ、アルコールの強要、挨拶ができない人間の自己顕示欲の塊が集まる巣窟です。
話を戻しますと、この教員は理科の担当ですが、生徒が反発することが多く、へそを曲げるとすぐに職員室に帰ってしまう癖がある人でした。自分が考えるに、それは職場放棄で有り、指導力のなさを自ら露呈する行動なのですが。震災の年はこの教師の学年が中学三年で受験学年でした。授業態度か気に入らなくて、職員室への逃亡が続き、この学校の理科の進度が近隣の学校と比べて著しく遅れる事態となり、町内の塾は理科受講希望の学生でごった返しました。その後、2学期途中で担当学年が変更させられ、1学年になり、この事態は収まりましたが、彼への不信感は一生消えることはないでしょう。上の記事のセリフはすべて彼ものもので真実です。一人でも多くの人に周知してほしいです。
「震災クロニクル」でもこの話は出てきます。そのときに詳しく書きたいですが、これを読んだ皆様の心にこの内容を残せればと思います。
尚、拡散・転用はご自由に。出来るだけ多くの人々に知ってもらいたいでので。
3/12⑨
辺りは暗く寝静まっていた。部屋の明かりがポチポチと団地を彩っていて、星空と大差ないくらい綺麗な光景だ。それは明るすぎず、本当にポチポチと暗闇を飾る。ただ道路は奇妙なくらい静まり返っていた。たまにパトカーと自衛隊車両とおぼしき車両が徐行運転で辺りを見回っている。各学校の体育館は避難者でいっぱいだそうだ。
ふとテレビをつけると原発関連がどのチャンネルでも大勢を占めていて、津波関連や地震関連はテロップやバナーに追いやられていた。まったく地震を報道しないわけではないが、深刻さの度合いからいって、原発関連がトップにくるのも仕方がなかった。そのときの僕らは未曾有の天災よりも、未曾有の人災に神経を裂かざるを得ないことは身に染みて分かっている。しかし、そんな状況が好転しないことは昼間の状態から明らかである。夜のテレビでそれを再確認なんてしたくない。分かっている、分かっているんだ。だから、どうしろって言うんだ。僕たちはとどまるしかない。行き場なんてどこにある?
「マスク着用をお願いします。」
「外出は控えてください。」
「外から帰ったら、まず服をよく叩いて、ゴミを払ってから室内に入るよう心がけましょう。」
もうたくさんだ。そんなこと繰り返したって、原因の施設はまだ物質を垂れ流し続けるんだろう?僕らがそんな努力をしたところで、いつまで続ければいい?お偉方の会見は僕らのそんな素朴な質問にすら答えてはくれなかった。
「テレビ消さないか?」
ふと自分から言い出した。もう一人の宿直のスタッフは
「……そうですね。」
か細い声で答えた。彼は20代前半の入ったばかりの男性スタッフだった。NPOに入ってボランティアを志したわけではなく、次の就職までの繋ぎだろう。まさしく自分もそうである。二人ともここを本当の就職先なんて考えていない。運悪くブラックのNPOに入ってしまった後悔こそあれ、この理事長一族のコマとして一生を終える気なんて更々ない。
思えば奇妙な話である。ボランティアや奉仕の精神とは無縁の僕ら二人は震災をきっかけに宿直を直訴し、避難したきた人たちの世話をし、物資庫となった庫の施設を管理している。市役所とのパイプ役にもなっている。
震災が僕らの立ち位置を180度変えてしまった。しかも、意識することなく、自然にその立ち位置変換は起こったのである。ボランティア無縁男2人がいまや、この施設から復興の狼煙を上げる旗振り役にでもなったつもりだろうか。こう考えると何か奥歯の奥がむず痒くなってくる。
しかし今はもはや疲れた。どんな情報も僕らを疲弊させるだけだった。机には市役所からの支援物資。
おにぎりセットとおかずが無機質に置かれていた。
何気ない夜勤の光景ではあるが、そのなかに今後の不安を予知していることがあったとは僕たち二人は知る余地もない。ただ、その食事を不信心な口に運ぶ作業にしばらくは終始した。
テレビを消して、辺りは静か。耳鳴りがするほどの静寂は僕らにほんの一時の安らぎを与えてくれた。
3/12~13⑩
深夜になり、事務所の明かりだけがついていた。物資庫になって、何が運び込まれるかは知らない。ただ駐車場には無数の水と重機が置かれていた。今日も宿直は二人。館内の自動ドアは切っているが手動で開けられるように、表玄関だけは鍵を開けておいた。すると、小柄やせ形の男が入ってきた。
「パトロールです。」
と敬礼をして館内に入っていく。僕たちはふと館内に入れてしまったが、考えてみると不審な点が多々ある。何の腕章もしていない。ボランティアや災害対策本部のバッジもない。パーカーに文字も入っていない。
ふと、奥の会議室の扉が開く音がした。とっさに音のする方へ向かった。彼は明らかに不審者だ。ここは物資庫になって避難民がいないという情報は市役所との連携がある団体ならば分かっているはずである。わざわざ物資庫をパトロールにくる理由が分からない。
「…あの、すいません。ここは物資庫ですよ。どこの団体の方ですか。」
声をかけると、
「あっ、そうでしたか。失礼しました。」
と、足早に表玄関に戻り、立ち去っていった。おそらくは避難者の金品目当ての不審者だったに違いない。火事場泥棒はどんな事態であれ現れるものだ。宿直の二人から眠気は吹き飛んでいた。とりあえず、施設内の廊下には所々に明かりをつけ、防犯に努めようとした。まぁ、盗むものなんて何もないが。
しばらくすると、また一人入ってきた。今度は中年の男である。こいつは見覚えがある。普段、施設内のスポーツジムを利用している常連客である。事務所で声をかけられ、
「あのさ、シャワー室使わせてくれないか。風呂入ってないんだ。」
気まずい雰囲気で、暫くの沈黙のあと、自分が口を開いた。「シャワー室の水が使えるか分かりませんし、ガス系の設備は一応点検しないと使えませんよ。あれだけの地震の後ですから。水だけになるかもしれませんけど……」
三月の寒空の下、それは無理なことは自分でも分かっていた。
「……分かりました。でも、更衣室で体拭きたいんで、貸してもらえますか。」
「いいですよ。使ってください。」
すこし安堵の表情を見せて、彼は更衣室に向かっていった。おそらく水道関係は全滅なのだろう。この施設は貯水タンクが備わっているので、今のところ問題なく水は出る。ただ、ガス系統は不明であった。しばらくすると、更衣室から出て来て、
「ありがとう。」
見かけによらず弱々しい声で、自分達に感謝を伝えた。
「お互い頑張りましょう。」
気休めの言葉だったのかもしれないが、自分の口からとっさに出た言葉だった。
「……あぁ。」
即答できない彼の心中は如何に。容易に想像できた。頑張ってどうにかできる事態ではない。そんなことはお互いに分かっていた。屋内退避が伝えられた日の夜に外に出て、ここに来ること自体が日常では考えられない。しかもこの状況は明日も明後日も、そしてその次もきっと好転はしない。明日からの大きな不安を抱え、その男は去っていった、マスクもつけずに。自分達は彼の背中を黙って見送ることしかできなかった。
原発はいつ爆発するか、それは誰にも分からない。テレビは煽るだけ煽る。いや、正直に伝えた内容なのかもしれないが。屋内退避が告げられてから、残数の分からないカウントダウンが僕らに突きつけられていた。
3/13⑪
夜も更けて、人という人を辺りに見なくなった。耳鳴りがするくらいの静寂がまた僕らを包んだ。しかし、今夜はテレビを付けていない。さらに沈黙が僕らの気持ちを塞ぐ。
「ちょっと、つけよっか。」
結局テレビをつけ、息のつまるような静寂から抜け出した。
『原発3号機が……圧力を下げるために……緊迫した状態が続いております。』
テレビをつけたことを後悔した。一斉に様々な不安が襲ってくる。とりあえずは外にはでない方がいい。もしかしたらベントで放射性物質が拡散するから。原発の爆発を防ぐために、1号機内部の圧力を下げるベント作業が行われていた。でもそれは数時間前のこと。今さら何をしても意味はないかもしれない。
ここは原発から25キロくらい。風にのってやって来るかもしれない。にわかに通気孔を段ボールで塞いだ。館内の通気孔を探し、段ボールで塞ぐ作業がどれくらい効果があるが分からないが僕らは必死に取り掛かっていた、まるで不安をかき消すように。機械室と外のドアの隙間、裏口のドアの隙間、トイレの換気口すべて塞いだ。
テレビのコメンテーターが言うことに僕らが踊らされていただけなのかもしれない。しかしテレビ越しに見るコメンテーターが口を重くして、話し出す様子に僕らは真実であると判断せざるを得なかった。
外界との分断が終わり、賑やかなテレビをつけながら、しばし歓談した。
「シャワー浴びよっか。水だけど。」
そういえば風呂に入ってない。周りの喧騒でそんなことを考える時間もなかった。私は銭湯や温泉が好きだったため、お風呂セットと替えの下着は常に車に積んでいた。
水だぞ……お湯でないぞ。
考えている余地はない。早く体を綺麗にしたい。二人は順番にシャワー室でシャワーを浴びた。1日の疲れを水で洗い流すように鬱蒼とした空気の重たさは変わらなかったけど、気持ちのリセットはできた。
「寒い!冷たい!風邪ひくわ!」
お互い笑った。もはや水で体を洗うことなんてどうでもいい。こんなくだらないことで笑いあえるその瞬間が僕らには至宝だった。
夜が明ける。午前5時。辺りは暗かったが、それ以上に今日何が起こるか暗中模索で何かが進んでいる。それが何なのか、僕らには伝えられないだろう。ただ、未曾有の何かが起きてしまって、今まさに進行形で起きている最中であることは肌で感じていた。
7時になる。市役所の職員も施設に集まりだした。自分達のおにぎりをもってきてくれる。有り難くそれを戴いて、僕は帰路についた。自衛隊車両や重機があちこちに見える。僕はアパートが無事であることを神様に感謝した。
ゆっくりと目を閉じ、ラジオをつけながら、眠りについた。夢でだったらなという淡い期待とともに。
3/13⑫
午後2時
やはり夢ではなかった。意識がはっきりとしていくにつれて、散らかった部屋が夢から現実に僕を迎え入れた。
アパートのドアを開けると、何気ない毎日の風景。向かいの一軒家は重厚な黒塗りの壁で、僕のアパートに迫ってくる勢いだ。ふと屋根に目をやると、所々抜けている。やはり夢ではなかった。たかだかそんな光景が絶望的な現実への回帰を確かなものにした。車にエンジンをかけ、仕事場へ向かう。街は大分車が少ない。市役所に車を走らせ、出勤前に事態の把握を試みた。
すると驚くべき光景が、そこにあった。あれだけ人通りが少なかった街とは思えないくらい、人でごった返していたのである。辺りには臨時の掲示板が並べられている。貼られた紙には手書きで、
「松本洋子 生きている。避難先……電話番号……」
同じように書き連ねた無数の紙が辺り一面の掲示板に貼られている。取り敢えず普通ではないことだけが僕の認識のなかに強く刻みこまれた。
項垂れながら、市役所を後にし、職場へと向かった。相変わらず施設には沢山の重機と水の山。体育館には支援物資と思われるものが少しある。
事務所に入ると、違和感に気づく。明らかに市役所の職員が少ない。きっと別の避難所やら東奔西走しているのだろう。しかし、この場にいた一人から、真実が告げられた。
「自衛隊の話を聞いて、逃げたよ。」
そういうことか。自衛隊との情報交換の中で、真実を告げられ、逃げたした職員が多数いるとのことだ。
不思議と怒りはなかった。普通なら怒鳴りちらすほどのことだ。しかし、よくよく考えてみれば、自分が逃げたした職員の立ち場だったらどうするかを考えたとき、きっと同じように逃げてしまうだろう。そんな自分が彼らの行動に腹をたてる資格はなかった。仕方のないことである。いなくなった職員の気持ちも痛いくらい分かっていたつもりだった。
商工労政課に残っているのは中高年の男性だけだった。
ふと理事長に目をやると、笑顔で挨拶をしてきた。珍しいことだ。いつもスタッフをいびるのがこの婆の日課なのに。NPOの傘に隠れたブラック企業が!
「おはようございます!」
子どものような元気な声で、30代の女性が入ってきた。理事長の息子の嫁の潤子だ。こいつも普段はスタッフをいじめ、よく女性スタッフを泣かせていた。まるでお姫様気取りのおばさんが一体何の用だ。
「おにぎり食べてください!」
出来立てのおにぎりを僕の目の前に出した。
正直気持ち悪い。あれだけ僕たちスタッフに威張り散らしていたバカ女が、震災程度で掌を返すだろうか。
ひきつった顔でおもむろにおにぎりを口に運ぶと、やはり真実が告げられた。
「私たち今から愛知に避難します。皆さん頑張って下さい。」
とびきりの笑顔で、それを言ってのけた。これにはさすがに怒りを覚えずにはいられなかった。それがおにぎりの行動と相まって、込み上げる衝動を押さえきれなかった。とっさに手を止め、残りのおにぎりを食べずに事務所から出た。
「ありえないよな。」
昨日ともに宿直した相方が僕に話しかけた。二人ともその場に立ち尽くし、今日は何をすべきか考えていた。その方が気が楽で、明日のことを考えずに済む。とりあえずはガソリンの調達だ。職員の中には車のガソリンが底をつきそうな人もいた。自分はちょうど半分くらいか。まだ、考えなくてもよいくらいの量だ。しかし、何時まで続くとも分からないこのサイクルは要らぬ心配に拍車をかけた。
もしかしたら1週間はもたないかも。
先のことを考えたくなくて、事務所から出た自分達は正にその「先のこと」で頭を悩ませていた。すると、理事長がラミネートされた一枚の紙を僕たちに手渡した。
A4版の紙には「物資庫管理」と大きい文字で描かれ、下には理事長の名前と社番が押されていた。
「これでもしかしたらガソリン入れられるかもしれないから。」
気持ち悪い笑顔が眼前に広がると、吐き気をもよおす様な偽善の嵐だった。
取り敢えず僕らはガソリンスタンドに向かった。どこも閉まっている中で、一件だけ長蛇の列だ。
スタッフがドライバー一人一人に声をかけている。
「すいません。すいません。」
どうやら売り切れらしい。ダメもとで並んでいると、自分の車にもガソリンスタンドのスタッフが来た。すぐにラミネートされた紙を出すと、店長とおぼしき男と話をし、前に誘導された。なんと!列の最後尾から、ガソリンスタンドの敷地内にワープ。
これは凄い効果だ。ガソリンを満タンにし
「後払いでお願いします。」とスタッフに言われ、そのまま仕事に戻った。
そのとき、もっとも人間の醜悪な部分が僕の心に巣食い始めていた。
3/13⑬
施設に戻ると、ガソリン満タンの車をそっと駐車場の片隅に置いた。事務所には炊き出しのおにぎりの残りが机に残っていたので、取り合えずそれを口に入れた。少しだけ食べたくなったのだ。食欲はさほど戻ってはいなかったけれど。
もう外から帰ってきたら上着をはたいて埃を落とす作業が、違和感を感じないまで見慣れた光景になっていた。勿論マスク姿もこの街ではすでに常識だ。
日常のルールがどんどん変わる。
街から洗濯物が干してある風景は消えた。
ベントが原発で始まって以来、市内の人間は明らかに消えていった。
コンビニは閉まり、開いている店はない。
閉まっているガソリンスタンドに朝から並ぶ。どこから情報をいれたか、給油できるところを聞き付けて、朝から並んでいた。その列が一時間足らずで長蛇の列に変化する。結果として、品切れになればトラブルが起こる。
「次の入荷日は未定です」
ガソリンスタンドはこの決まり文句を言って短時間で店を閉める。
原発が原因で、全ての物流がストップしかけていた。あるのはドライバーの個人的な意思で
「市内に入ってもいいよ」
と言ってくれたときだけ、物資がこの街に入ってくる。しかしそれは、空のプールにバケツ一杯の水を入れるがごとくであった。
事務所の書類整理をして、ふと外を見ると雪がちらついている。まだ寒い3月の中旬、これほどの不安と絶望の状況は勿論体験したことがない。
これからどうなるのか……
鬱蒼とした頭の中はきっと何をしても晴れないだろう。
理事長の息子夫婦は逃げた。
スタッフの女性もほぼほぼ逃げた。
そういえば今朝の引き継ぎの時、とある女性スタッフが出勤してきた。逃げたと思っていたので意外だったが、彼女は旦那の話をしだした。
沿岸部の遺体回収から帰ってきた旦那は
「……助けられなかった……」と何体もの遺体を泣きながら運んだらしい。もちろん子どもの遺体も。想像も絶する惨状だったらしい。棒で泥を突っついて遺体を探したり、足場が悪いところや水が引かないところは、水を抜く作業が完了するまで、その惨状を放置しなければならない。
心が折れる……奥さんである彼女は旦那を寝かしつけて、自分は出勤してきたとのことだった。
給油から帰ってきたら彼女の姿はなかった。さすがに避難したのだろう。それも仕方のないことだ。
50代の男性スタッフは妊娠中の娘をいち早く県外に逃がした。家族も逃がし、自分だけがこの街に残った。
今この街に残っているのは単なる残りカスか。それとも覚悟を決めた義士か。または生け贄か。
僕の心にある最後の手段をこの時点で使おうとはまだ考えもしない。しかし、これからの状況でどう変わるかは全くの不明で、状況は好転しないまま、直ちに影響はない深刻な状態は徐々に悪くなっていったのである。
3/13⑭
理事長が他の避難所をまわって、帰ってきた。妹の春水(はるみ)さんも一緒だ。この妹は化粧品の会社の社長で、このNPOの理事でもある。ケチで卑しい。スタッフに平気でたかる。しかも、下ネタ好きの三拍子揃った、ゴミくず野郎である。震災前はよく市役所に高額化粧品を売り付ける押し売りをしていた。姉が指定管理施設のNPO理事長だからか、市役所にも我が物顔で出入りしていた。
「コーヒー」
まぁ、入れてやるか。無言で入れると、館内の見回りを名目で事務所を出た。廊下を歩くと、あちこちに細かな地震の影響がある。天井はあちこちヒビが入っていたし、壁もあちこちにヒビ、崩れが見られた。
事務所に戻ると、
「市の道場の様子を見に行くから、車にのせていって」
マジかよ。理事長乗せるのか。まぁ、ガソリン満タンだし断る理由はない。
この理事長のNPOは市内の市内のスポーツ施設の殆どを指定管理していた。身内はほとんどNPOの理事をしている。前市長との繋がりで一括で指定管理をとったらしい。考えれば怪しい話だ。このお陰で、理事長一族に年間4000万の指定管理料が注ぎ込まれる。この事を議会で追求した議員が今の市長である。だから、次の指定管理の更新は難しいだろうと巷では囁かれていた。
その方が健全でいい。
そこのスタッフながら、自分はそう考えていた。
話を現実に戻すと、指定管理をしている施設の一つである道場は物資庫ではなく別の施設になったらしい。自分の顔馴染みのスタッフがそこで宿直している。自分も様子を見に行きたくなった。
理事長を乗せた古い軽は、道場に着くと、理事長と共に中に入った。50代の男性スタッフが受付から出てきた。娘をいち早く県外に逃がしたお父さんスタッフだ。
「お疲れ様です」
だいぶ疲れている様子で挨拶をされた。自分も挨拶を返したが、少し普通ではなかった。
奥の道場に足を踏み入れると、少し異様な空気になった。換気扇は回っているが、物資庫のように何かが運び入れられている様子ではない。ガランとした空間にジッパーがしてある白いビニール袋がいくつか置かれていた。
ここは遺体の安置所になっていた。仄かに香る線香と、無機質な袋のコントラストが自分の心を激しく揺さぶった。
あぁ、ホントなんだな。これが現実なんだ。
テレビを見ていると、どこか遠い国の話だと心のどこかで思っていたのかもしれない。この非日常を心のどこかで楽しんだいたのかもしれない。
だが、ここで現実が心の芯を食った。思い知った。僕はただ呆然と白いビニール袋の前に立ち尽くした。この震災ではじめて涙が頬をつたった。
両ひざをついて、手を合わせ、白いビニールに深く頭を下げた。
しばらく館内を見回ると、受け付け奥にある事務所に入り、今後の打ち合わせをした。とりあえず当面の移動に使うため、自分にも渡されたラミネートを彼にも手渡した。
「使うときは十分に注意するように」
理事長はそう言うと、僕と二人、道場を後にした。
3/13⑮
少し疲れた……
理事長を自宅に送り届けた後、自分は事務所の机に突っ伏した。知らない人の遺体を目の当たりにした。生まれてはじめてだ。実際に見てはいない。だが、白いビニールに入れられ、確かにそこに人はあった。
人がいた……ではなく、人があった。もはや人ではなかったかもしれないが、面影を確かに感じた。このビニール袋に入っていたのは少し前までは確かに人であった。
……ぐったりうなだれているところに、今日の宿直のスタッフと、市役所の職員が1人自動ドアを手動で開けて入ってきた。(自動ドアは電源を切っていた。)
二人ともだいぶ疲弊していた。指示系統がうまく動いていないらしい。各避難所に食事が行き届かなくなっている。とうとう物資が枯渇してきた。
隣の体育館には支援物資ぐ運ばれているのを見たことがない。震災の深夜に運びいれたあれ以来、自分は手伝ってもいない。というか、大規模なトレーラーが入ってきた形跡は全くない。
恐れていたことが起こりつつある。
ここはもはや陸の孤島だ。
市役所の職員も少しうなだれ、椅子に腰を下ろして休んでいた。
そうだ。いい機会だから、今疑問に思っていることを聞いておこう。
「あの、今からあの円が広がることってあるんですか?」
原発から同心円で、避難指示や屋内退避を当時決めていた。
一番外側の円は原発から30キロ以内
「屋内退避」外に出ないでほしい区域
ここだ。
勿論内側の円にはすでに住人はいないと思われる。自分は内側の円が広がってくるのではないかと察しをつけていた。原発の様子がほとんど好転しない。
圧力が高くなった。
破損した。
燃料棒が露出した。
それで、あの1号機の爆発。
広がることは簡単に予想できる。
しかし、職員は
「いや、これ以上広がることはないだろう」
意外な答えだ。
「なぜですか」
職員は本部で渡されたであろう原発からの距離を同心円で書いてある福島県の地図を僕らの前に出した。
「仮に円が40キロ、50キロ、60キロになったとすると……かぶっちゃうだろ」
?
?
?
円周上に少し入った道路を指差した。
東北自動車道だ。
「この道路が区域になると、福島はおろか宮城、岩手への物流がストップする。この高速道路が東北の生命線だ。隣街でさえ、この道路から回り道で入ってくる支援物資に支えられている。東北自動車道に入るための主要道路を考えると40キロの円を描くのも難しいだろう」
十分すぎる説得力だ。実に合理的な理由だ。あくまで彼の見解ではあるが、おそらく正解だろう。対策本部の内容を踏まえた上での見解だ。
放射能の同心円はその他大勢の東北民を守るため、黙殺された。これ以上はどんな状況の変化があってもこの円は広がらない。でも、そこで被害が頭打ちになったわけではない。本当のことは風呂敷袋に隠して、
「この道は安全ですから、通ってください」
これをやるつもりだ。
慟哭の衝動が頭の中を暴れまわった。
僕らは復興の触媒になる……。
3/13~14⑯
夜、館内を見回ると、至るところに、18Lの灯油のポリタンクとダルマストーブが置かれていた。避難所になったときの市役所の備品だろう。物資庫になった今でも片付けに来ない。人員がもはや追い付かないのか、それともただ忘れているだけなのか。ともかく物資庫になって以来、この施設の動きはほぼない。
一番大きいホールにはある程度の資材が運び込まれているが、それはそこまで多い量でもない。明らかにもて余している。
近くの高校は遺体安置所になっているらしいが、とても追い付かない。市の道場にも遺体が運び込まれている。それに避難所の数をまだ把握しきれていない。小中学校体育館であることは間違いないのだが、果たして全てが避難所になっているのだろうか。さっき、支援物資やご飯が行き届かないという話を聞いた。
もしかしたら市役所も避難所すべてを把握しきれていないのでは?
夜になると、ふと隣の団地を窓越しに見る。
明らかに明かりの数は減った。寝ているのか、もはやいないのか。
この街から避難する人は確実に増えていることは市役所の職員も把握していた。そもそも職員も出勤せずに逃げだすことが相次いでいた。
おそらく放射能の恐怖からだろう。
1号機の爆発があってから、ほんの少しだけ漂っていた楽観は消し飛んだ。誰が見ても深刻すぎる状況。
気休めの言葉を並べる会見。
何故か原発に近い線量計だけ壊れて、線量を発表しない。
隠されている。
都合の悪いことは理由をつけて隠されている。
状況からしても何かを隠していることは明白だ。みんな自分の頭で考え行動し始めた。その結果がこれだ。
「直ちに影響はない」
そんな発表がもたらしたことは自主的な避難の嵐だ。誰も政府なんか信頼しちゃいない。それぞれにここから散らばっていった。
この日の夜は比較的何もなく更けていった。
時々スマホが鳴った。だいぶ前の緊急地震速報が、混線している昼間には届かず、微弱な電波でも届きやすい深夜や早朝に届くのだ。もはやこの音にも慣れっこになっていた。ふと見ると、着信履歴が数件。
母親からだ。着信は決まって早朝に集中していた。
留守電にも「逃げろ」のメッセージ。
もうここは救われないのか。頭の中を逃げるか否か何百回も自問したあげく、もう少し残ろうと思った。指定管理の責任感などではない。ある程度、見届けたかったのだ。このどうしようもない顛末を。
3/13~14⑰
午後8時頃だろうか。連絡があり、今日から宿直はナシだそうだ。確かにここは避難所ではない。夜の見回りも不要だろう。市役所の職員も「今日はゆっくり休んだ方がいい」と言う。
相変わらずの危機的状況は変わらないが、そんな崖っぷちの水面にふわっと漂っているような気分だ。いつ決壊してもおかしくない激情を堰き止める無表情は周りから見れば平静を装っているように見えるのだろうか。自分の中身は一日のうち何回も大きく揺さぶられた。さっきだって、原発距離同心円の話の時も自分の感情は大きく揺らいだ。ここから飛び出したかった。しかし、それから先のビジョンは描けない。どこに流れていくのかわからない。結局のところ、自分はここに留まるしかない。どうしようもない夜は今日もやってきた。ニュースはベントやら放射線量だとか、原発情報が大半を占めた。テレビを見るのはやめよう。
シャワー室でシャワーを浴びた後、施設に施錠してその日は帰路についた。道路は警察車両以外は誰もいない。まるで街全体が外出禁止令を出されたような異様な雰囲気だ。所々にある自動販売機は赤いランプがずらっと点灯している。すべて売り切れだ。何も機能していない。信号は虚しく点滅して、交通安全を呼び掛けている。
誰もいないのに。
住民の半数以上はもう逃げたのだろう。今日、職員が打ち合わせをしていた話がたまたま耳に入っていた。
蛻の殻の街に点滅信号
凄まじく寂しい風景だ。運転席からその光景を眺めると、涙が込み上げてくる。どうしてこうなってしまったのか。
アパートに戻ると、駐車場には自分の車しかない。やはり、もう避難したのか。これ以上ここに留まるのは無理なのかもしれない。
先の見えない葛藤と闘いながら3月14日は暮れていった。
翌日、7時にはもう仕事に向かっていた。施設の鍵を開け、市役所の職員が来るまではとりあえず待機だ。
施設を見回っても何も変化がない。当然だろうが、少し安心した。ここまで震災による被害が深刻になると、次は治安が悪くなることは目に見えている。コンビニのATMが荒らされたなんてニュースはちらっと聞いていた。ましてこの施設は物資庫だ。何を盗られるか分からない。
やがて、職員とスタッフがちらほら集まり始める。どの顔も相当疲弊している。おにぎりにようやくありつける。遅めの朝ご飯を貪った後、施設の被害状況を調べ始めた。
こんなことをして一体何になるんだろう。
自分の仕事は急に無意味なものに思えて仕方ない。本当はもっとしなければならないことがあるのではないだろうか。自分はこんなことをしていていいのだろうか。昨日の夜に生まれたこの葛藤は日々の自分時間を確実に奪っていった。
職員が出入りする度、これからの見通しどころか、今夜の打ち合わせも出来ていない。暗中模索の対策本部である。きっと連絡体制が整っていない。同じ情報が何度も錯綜した。
そんなもめ事をよそに自分は黙々と書類を片手に天井に入ったヒビを記録していた。
そして、衝撃の午前11時がやってきた。
3/14⑱
そのときはついに来た。
スタッフ一同テレビに食いつき、愕然とした。
音はなかったが、「ドン!」という衝撃がテレビ越しに我々の胸を貫く。
1号機爆発のときとは違って、黒煙が噴き上がる。明らかな大爆発だった。そこにいる誰もが言葉を失った。誰も声を発しようとはしない。テレビのコメンテーターも言葉につまった。
どうすべきなのか。何を言うべきなのか。
ここにいてはいけない。
それだけは共通認識として頭に焼き付けられた。
市役所の職員出入りが急に激しくなる。私ができることは、……何もなかった。
「これで支援物資は今まで以上に入ってこなくなる……」
誰かが呟いた。
いや、違う。心配すべきことはそこじゃない。ここの放射線量はどうなっているのか。どのくらい上がっていて、ヒトが生活できるレベルなのか。避難はしなくていいのか。外に出ないだけで安全は保てるのか。(『屋内退避』指示は15日から)
たくさんの問いが、頭の中から涌き出てきた。しかし、ぶつける相手がいない。テレビはこの質問に答えてくれない。
ここに残っているのは、自分を含め男性スタッフがたった3人。理事長とその妹だけである。市役所の職員は顔も覚えられるくらいの人数が出入りしている。当初よりもだいぶ少ない。
ふと、ひげ面の男が自動ドアを叩いた。手動で開けると、ゴミの回収だそうだ。
各避難所や公共施設を回っているらしい。取り敢えず、まとめておいた大量のゴミをその男に渡した。すると、燃えないゴミも指差して
「あれももっていきますよ」
燃えないゴミも一気に回収しているらしい。これはよかった。まとめて運んでもらい、ある程度受け付け玄関はさっぱりした。
取り敢えず掃除しようか。
ふと言葉がでた。
モップや掃除機をとりだし、廊下やフロアの掃除を黙々と始めた。僕らは何もできない。かといって、じっとしていられない。どうしようもない気持ちを紛らすには身体を動かすしかなかった。掃除をしているうちに不思議と気持ちが和らいだ。
たくさんの人が避難している。
市役所の職員も逃げ出した。
理事長の息子の嫁一家も逃げ出した。
そんな苛立ちと不信感、怒り、憤りは綺麗にバケツの水が洗い流してくれた。
廊下を掃除することは心の掃除をすることに似たり。
そんなところだろうか。
男同士、暫し歓談しながらお互いの作業に没頭した。
やがて、市役所の職員がご飯を持ってきてくれた。
白米の塩おにぎりが数個。明らかに物資が枯渇している。
いきなり現実に引き戻された。とうとう僕らの食にまで影響がではじめた。思い悩んだ様子で、市役所の職員が口を開いた。
「明日はどうなるかわからない」
とうとうきたか。支援物資とガソリンの欠乏が原発事故のせいでほとんど入ってこない。今後の見通しもたっていない。
一同暗くなった空気を拭き取るように
「取り敢えず食べよう」
誰かがお茶を淹れ、1人1つおにぎりを戴く。
テレビでは先程の爆発の解説を長ったらしくやっている。何を検証しても、今どう動くべきか誰も教えてはくれない。
テレビのCMは自粛され、すべて、ACの宣伝に切り替わる。
「思い」は見えないけれど「思いやり」は見える。
そんな台詞を言っていた。すごく皮肉に聞こえたACの宣伝。自分は胸の奥から込み上げてくるこの衝動が怒りと苛立ちだとすぐに分かった。
僕らの「思い」は誰にも届かない。
だから誰の「思いやり」も伝わらない。
今はきっとそうだろう。いや、そうは思うまい。目の前のおにぎりを持ってきてくれた職員の思いやりは確かに伝わった。
ただモニタから発せられる言葉にそんなことを諭されたくなかった。やけに他人事に聞こえたからだ。僕らは僕らの小さい世界で肌を寄せあって、ただただ怯えていた。
⑲
また夜になった。事務所には理事長、その妹、自分、もう1人の男性スタッフの4人がいた。つまらないことで、理事長が怒り、その男性スタッフを叱責している。確か珈琲の入れ方がどうとかそんなくだらない話だ。理事長の妹はその光景をにやにやした表情でただ眺めていた。
非常に気分が悪い。だが、お互い気が短くなってしまうくらい追い詰められているのだ。その場にいる全員がイライラしていた。
「もうやめましょう!」
殴り飛ばしてやりたかった。
怒鳴り口調でその場の空気を自分が凍らせた。ある程度の静寂の後、少し冷静になったようだった。
テレビでは原発の2号機燃料棒が露出していると伝えている。かなり不味い状況らしい。空焚き状態で、いつ爆発してもおかしくないらしい。一同の口が凍りついた。何も言わない時間がどれ程続いただろう。
「少しの間、避難するか」
理事長が切り出した。ここから山沿いに向かい、30キロほど離れるのだ。4人はその案に同意し、荷物をまとめた。荷物といっても手荷物と少しの食料だけだが。
理事長の妹の車に乗り込むと、急いで山沿いに向かった。一山越えたところに道の駅がある。とりあえずそこに避難して、原発の様子を見るという計画。
対向車線に車は一台も走っていない。だが僕たちの向かう方向にはたくさんの車がいた。皆この場所から離れようとしている。大勢の避難者のなかに僕らもいた。
暫くして道の駅に着くと、駐車場は車で一杯だった。漸く1台分のスペースを見つけ、そこに駐車し、ラジオをつけた。そこにいたどの車も車内で皆何かをしていた。相談、打ち合わせ、ラジオ、テレビ、そんなところだろう。トイレに向かうと、やるせない会話が聞こえる。
「……どうすっぺ」
「とりあえずは役所に行ってみっか」
「……あんまりガソリンねぇぞ。避難所までもつか」
本当に気が滅入る。さっさと車に戻って小一時間4人はラジオに耳を傾けていた。
やがて、原子炉関係の放送が一段落し、地震関連のニュースが多めに流れた。原発がある程度の小康状態にあると僕らは推測した。
「戻るか」
理事長がそう言うと、僕らは帰路に着いた。
「お前が避難しようって言うから、私たちは付き合ったんだぞ」
理事長が自分にそう言った。考えられない。お前が避難しようと言ったんだろ。心のなかで拳を強く握っていた。まぁ、指定管理の理事長の宿命だろう。自分だけが逃げたと後から言われないように、1人のスタッフのせいにしておきたかったらしい。それにしても後味が悪い話である。
自分は施設に戻るといち早く帰路に着いた。理事長らバカ姉妹と一時でも一緒にいたくなかったのだ。
アパートに帰る途中、避難先から帰ってくる車の中で見たものを思い出していた。何十台も連なった車が自分達の車とすれ違った。きっと避難をするのだろう。もう戻ることのない旅だ。僕らの車はそれらの車のドライバーからはどう写ったのだろう。きっと自殺志願者とでも思われたに違いない。
そう考えるとそのまま遠くに行ってしまった方がよかったのかもしれない。
自衛隊の車両がゆっくりと街を巡回している。帰宅した僕はただただ疲弊して、幾度となくくる余震を枕に再び眠りについた。
明日は状況が少し落ち着いていますように。
儚い願いも共に束の間の安息がその日の幕を閉じさせた。
3/15⑳
15日。その日は曇っていた。鈍重な鉛の空に重くのしかかられた日が始まった。
7時に施設に向かうと、タイミングよく二人のスタッフが来ていた。20代の男性スタッフが2人。自分を含めると男が三人だけ施設に出勤していた。というよりも、もはやスタッフがこのくらいしかいないのだろう。とりあえず鍵を開けると、事務所に入った。その場の空気が明るくなることは決してなかった。
テレビでは相変わらず福島第一原発の状況を逐一伝えている。良い情報なんて1つもない。見ているだけで避難を脅迫されているようだ。その場の空気はますます重くなる。だが、僕らはそれを見ざるを得ない。現実を直視しなければならない。
8時前、市役所の職員が1人僕らのご飯を持って入ってきた。塩おにぎりが数個。
ありがたい。その職員は50代の男性だが、ゆっくりと事務所に腰を下ろして低いトーンで言葉をこぼし始めた。
「君たちはもうここにいない方がいいのかもしれない」
絶句した。
「弁当だってこれが次にも来るか分からない。物資がなにも届かないんだ。市の方で大型車を準備して多少離れたところまで支援物資を取りに行っても、そこに向かうまでの燃料も入ってこない」
その職員はさらに話を続けた。
「隣町の避難所に避難した市民は向こうの市役所の職員に『市民税払っている人優先なので』と言って、食事を与えてもらえず、隣町の病院に行った人は表の張り紙で『○○町、○○市から来た人は裏口に回ってください』と書いてあったので、裏口に回ったら、まるで汚物を扱うようにサーベイをうけ、別で診療されたということも起こっている」
「もうここにいることが差別の対象になりかねない。これからこういったことはどんどん起きてくるだろう。勿論学校でもそうだ。仕方のないことではあるけれど、市内の線量も上がりはじめている。まだ若い人はもういるべきではないと思う」
職員が暫くしてその場を離れると、また僕ら3人になった。
決断のときだ。
「もうだめだろ」
「どうします」
「避難するしかない」
「あてはあるの」
「仙台に兄がいる」
「連絡とれるの」
「とれる。ただそこにいくまで大分国道がやられてるから」
「ああ、津波が被ってるのか」
「山道は通れないところもあるだろうし」
「俺はとりあえず県庁に行って、物資が届く避難所に入るか。ここの避難所からも移っている人がたくさんいるし」
「ここの鍵はどうする」
「さっきの職員に返そう。指定管理なんてもはや意味ないよ」
「ガソリンは大丈夫か」
「半分以上あるから大丈夫」
自分のガソリンは満タンだった。
話は決まった。僕ら3人は避難する。
1人は兄を頼って仙台に。
僕ともう1人は県庁に行ってから遠くの避難所に入る。
館内の職員に事情を話して、鍵を返した。
その職員は安堵の微笑みを見せた。
「うん。そうした方がいい」
僕らは軽い会釈をすると、施設を出た。
仙台に行くスタッフは
「また、会いましょうね」と言うと、早足でその場を去った。
車を見送ると、僕ら2人はガソリン満タンの自分の車で避難することに決めた。まずはアパートに向かい、着替えやインスタント食品をありったけ持っていき、もう1人の男性スタッフも家でありったけの着替えと食べ物を僕のオンボロ軽自動車に積み込んだ。
とうとう僕らの放射線からの避難が始まった。
3/15(21)
軽自動車が山道に向かって走っていく、僕らを乗せて。楽しい雰囲気ではない。よく行ったスーパー、本屋、ガソリンスタンド、どんどん横を通り過ぎていく。少し寂しさを感じながら、その店は後方の景色に小さくなって飲み込まれていく。
どうしようもなかった。
僕らは地元を捨てたのだ。自分は決して『郷土愛』に満ち足りた人間ではない。どちらかというと『田舎』というものを心から軽蔑したいた。でも、どうしてだろう。今はこの街を捨てることに強い後ろめたさを感じている。
車の後方の景色に懐かしい建物が吸い込まれる度、苦虫を噛み締めるようなどうしようもない後悔にも似た感情に苛まれた。
「なんでこんなことに……」
助手席で同僚のスタッフが頭を抱える。自分は声をかけてやれなかった。何も言えなかった。いや、何を言うべきか自分には分からなかった。
山道に入り、細く蛇行した道が延々と続く。途中多くの自衛隊の車両とすれ違った。見たところ特殊車両だろうか。ジープを大きくしたような形をしている。きっと今さっき捨ててきた故郷に向かうのだろう。その車もバックミラーに小さくなって消えていった。
山間部の村にたどり着いた。歩いている人はいない。ただ、信号が無情に動いていた。途中のコンビニは営業していたが、駐車場は車で一杯。店内はほぼ食料を買い尽くされていた。飲み物も水やお茶はすでに売り切れ。甘いジュースだけ、辛うじて残っている。
食欲もあったもんじゃない。トイレだけ済ませ、僕らは県庁に急いだ。アクセルは踏みすぎないよう、ガソリンをできるだけ使わないように、運転にも細心の注意を払った。
故郷から避難して2時間30分後、僕らは福島県庁に到着した。
その場は異様な雰囲気に包まれていた。あちこちに駐車してある自衛隊車両。公園で途方にくれる家族。外の階段でうなだれている母親とおぼしき女性と子供。そんな途方にくれる人たちが散見される。
自分たちも受付に誘導されるまま避難所受付に向かった。
県庁の別棟一階。大急ぎで造ったであろう受付がそこにあった。とはいうものの、長机1脚かポツンと置かれ、そこに男性職員が二人座っていただけだ。
どうしてだろう。人の心地がしない。彼らの眼光が僕らを処理するという冷たさで、温度が自分の肌にも感じられるほどだった。
自分たちの前に数人の人がいた。受付の男性職員と話している様子を見ると、困った、困ったと話しているようだった。県庁の職員は淡々と言葉を連ねる。少し感情的になったかのか、女性は泣き出してしまう。
こんな調子だから順番がなかなか回ってこない。
やがて諦めにも近い雰囲気で、相談していた人が席を立った。少しずつ自分たちの順番が近づいてきた。気になるのはやはり男性職員の無表情さだ。明らかに僕らを不愉快にする無表情がやけに自分の鼻についた。
そして、やっとのことで自分たちの順番がきた。
3/15(22)
「市内の避難所はもう満員ですね」
冷淡な声が自分たちを襲った。
「ではどうすれば……」
とっさに質問を返した。
「そうですね。どこから避難されてきたんですか」
更に事務的な質問を返される。
「○○です」
正直に言うしかなかった。原発から近い地域から来たと分かれば対応も変わるだろうという淡い期待とともに。
……
少しの間沈黙が走る。
「そうですか。では〇〇高校で線量を測ってください。結果、線量が大丈夫だったらその結果を持って会津の避難所に向かってください。人数がまだ少し空いています。向かったとしてもそれまでに一杯になってしまうかもしれませんが」
線量を測っている高校の地図と会津の避難所に地図が手渡された。
ここからかなり遠い。ガソリンはもつだろうが、もし入れなかったときここに戻ってこれるかどうかは分からない。さらに言えば、その後の見通しもない。悩んだ挙句、
「ガソリンが給油できる所は近くにありますか」
ダメでもともとの質問をぶつけた。
「……ないですね」
「では、どうやって会津に行けばいいのですか」
「そこまでは知りません」
「そうですか」
即座に席を立った。それ以上の問答は無駄だと感じた。県庁もここまでが限界なのだろう。一緒に避難してきた同僚のスタッフは悲嘆にくれていた。
「まずは線量を測りに行くか。その後のことは後で考えよう。とりあえず結果を知らなきゃ避難所も受け入れてはくれないだろ」
車に戻ると、とりあえず指定の高校に向かった。公園にはただ茫然と座っている人があちらこちらに散見される。
「きっとガソリンが無くて避難所に行けない人もいるんだろうな」
助手席の彼がふと口にした。
その一言で、今の自分たちが比較的幸運な状況であることに気づいた。ここには身動きできない人たちもいる。少なくとも僕らはまだ移動ができる。それは神様に感謝すべきだろう。少し気持ちが軽くなり、車を軽快に走らせた。
高校に到着すると、そこはごった返した人の群れ、群れ、群れ。
体育館に向かうと長い長い長い列が幾重にも重なっている。線量測定だ。気が遠くなるような待ち時間だが、仕方がない。僕らはその最後尾に並んだ。
2時間ほど経過しただろうか。順番が回ってきた。足の裏、身体すべてに金属の棒が向けられた。
「〇△×□です」
数字を言っているが、それが高いのか低いのかが分からない。
「大丈夫ですよ」
白い服に包まれた計測員が自分に声をかけた。
「そうですか。ありがとうございました」
白い紙きれが手渡された。問題なしの証明書のようなものだ。しかし、標準の線量がどのくらいで、自分の線量が高いのか低いのかそれすら教えてもらえなかった。
同僚のスタッフも問題なしの証明書をもらい、人でごった返した体育館を去った。出入り口では格安のカレー販売。
おいおい……
流石にこれはひいた。こんな状況で商売かよ。商魂たくましいとでも言うべきか。ただ、そこで食べ物を買ってしまえば何か罰が当たるような気がして、その場を足早に走り去った。販売している人の笑顔がたまらなく憎らしかった。
「ちょっと場違いな気がしますね。カレー販売とか」
やはり考えていることは同僚も一緒だった。
「ちょっとね……なんかずれてるよね」
僕ら2人は少し苦笑いをし、その学校を後にした。
さてどうしようか。
もうすぐ日も暮れる。
3/15(23)
日も暮れ、夜になる。まずい。行き先が決まらない。向かう先が定まらないのだ。自分と同僚の意見が合わない。いや、合わないというよりお互いに意見がないのだ。何でこうなってしまったのか嘆いてみても、それは詮方ないこと。
福島駅の近くの駐車場に車を停め、とりあえず一晩宿泊できるところを探した。運よく近くのビジネスホテルは営業している2人が向かうと、受付で誓約書なるものにサインを求められた。
端的にいえば、水は出ないトイレは使えないしシャワーも出ない。大きい余震がきても責任はホテルでは負わない。それでもいいならサインをして宿泊費を払ってね。
という内容だった。もはや僕ら二人は驚きはしない。サーベイをした学校でカレー販売を目撃したときからすでにここの常識は把握したようなものだ。商魂たくましい彼らのルールに従うしかあるまい。
さっさと会計を済ませ、僕らは部屋に入った。
早速これからの会議が始まった。
「どうする?」
「会津に行っても、受け入れてくれるかは分からない」
「しかも豪雪で運転も不安だ」
「でも、他に行くところはないだろ」
「福島市内の避難所をしらみつぶしにあたるか」
「いや、それもガソリンの無駄遣いになる」
「二度とここに戻ってこれないかもしれないぞ」
「ちょっとまて!ここはネットがつながる」
「少し調べてみよう」
……
行き先は決まった。数時間スマホで検索の後、自分たちは関東に向かうことに決めた。国道4号線を南下し、栃木県の黒磯駅に向かう。そこから電車が動いている。それに乗って東京に向かう。
東京では避難所はまだ満杯になっていないだろう。しかも、何かしら対応してくれるところはあるはずだ。きっとうまくいく。
というか、確実に福島から避難する方法はこれしかなかった。
少しだけ希望が見えたその晩。同僚は施設の理事長に電話をかけ、避難の経緯を説明していた。自分は話したくなかったので、電話出なかったが、特段怒ってはいなかったらしい。自分はそんなことすでにどうでもよかったが、一時避難したあのときの動機を自分の我儘と転嫁したあのくそ婆の性根が未だに許せなかった。
午後10時くらいだろうか。かなり大きい余震があり、ホテルの部屋から飛び出した。ずいぶんと長い地震だ。廊下にちらほらと人が出てくる。やがて地震がおさまると、お互い顔を見合わせ、安堵の顔を見せ、また各自の部屋に戻っていった。
いつまでこんな不安な夜が続くのだろう。しかし福島を捨てればこの不安から少しは解放されるのかもしれない。もはやこの地域は安住の地ではなくなった。いまさら何の未練がある。よく考えてもみろ。生まれた場所というだけでそんなにいい思い出はなかったはずだ。
自分にそう言い聞かせて、気持ちを落ち着けた。
施設の理事長の心根。サーベイのときのカレー販売。ホテルでの誓約書。県庁での冷たい対応。被災した市役所職員の避難。
ありとあらゆる今までの経験でこの県を忌み嫌うよう頭の切り替えをした。一晩中何千回と被災してから今までの経験を思い返した。憎め。嫌え。福島なんてろくでもないところだ。捨てることに何の躊躇いがあろうか。
翌朝。
自分は別の人格になっていた。
3/16(24)
朝6時。
僕らは目覚めた。自分は戦う目をしていた。
「さっさと行こう」
同僚をせかした。もはやこの地域に何の未練もない。むしろさっさと出ていきたいくらいだ。そう、福島は僕らに出ていけと言っている。僕らに選択肢はない。
すぐにでも出ていって、これからの未来を描いた方がまだ夢がある。ここにいれば明日の生存や食料の不安、健康の不安が期限未定で続くことになる。そうなることはもう目に見えていた。同僚に運転を代わり、国道4号線をただただ南下した。ところどころ道路が壊れているが走行できないほどではない。大型のダンプやトレーラー、自衛隊車両がちらほら見える。
途中セブンイレブンが開いていたので、立ち寄ることに決めた。食料は後ろにたんまり詰め込んでいたが、今どのような状況なのかとても気になった。
案の定おにぎりや弁当棚はスッカラカン。飲み物も4,5本残して売り切れ状態だった。ビールやアルコール類は品ぞろえ豊富だったけど、売れていない。レジにはある程度の人だかり。とりあえずお菓子を一袋買おうとレジに向かう。
「明日はやってますか」
前の50代女性くらいのお客が店員に話しかけている。
「わかりません」
淡々とレジ作業をこなしながら、そう答えていた。
(国道4号線沿いで物資が入ってこないわけでもなかろうに。)
心でそう考えたとき。はっと思い出した。市役所職員の言葉。
「福島には入るなっていう指示がだされている運送会社もあるし、この街には入るなって言われてる会社もある。アメリカ人は原発から半径100キロって言われてるから。東京から避難した外国人もたくさんいる」
施設で打ちあわせをしているとき、そんな話を聞いた事を思い出した。きっとここには物資が届かないんだ。ガソリンも東京あたりでも不足していると聞く。ここまでくる移動手段がないのかもしれない。おそらくこのセブンイレブンもまもなく閉店するだろう。
その店を出た。原発からこれだけ離れていても、物資不足の問題は深刻だ。やはり「福島」のようなレッテルは物資不足を呼び込むのか。「福島県」でくくられるとこれほどまでに流通に影響を与えてしまう。まさに呪いの言葉のようなものだ。
「もうさっさと行きましょう。こんな光景もう疲れました」
今度は同僚が僕をせかした。
「そうだな」
僕らはもうこんな地域を一刻も早く出ていきたかった。
道路は少し波を打っていたけれど、自分の心は静寂を保っていた。最早どんな状況でも驚かない。震災から5日。信じられないような光景、言動、行動を見てきた。これ以上のことはもう起きないだろう。もう1時間も車を走らせれば、栃木県に入る。そうすればこれほどの八方ふさがりの状態にはならないはずだ。
僕らを乗せてポンコツ軽自動車はさらに南へ。
ラジオでは相変わらず震災の被害状況や津波・原発情報を流し続けている。放射線量の数値も地域ごとに出し始めた。しかし原発近くの大熊の街の線量は線量計の故障か何かで数値が分からないとのことだった。
「都合のいいことを」
自分が呟いた。
「そんなにタイミングよく壊れるかよ。よっぽど高いから公表したくないだけだろ」
同僚も自分の呟きに同調した。
もう何も信じられない。信じられるのは風向きと原発からの距離だけだ。僕らはできるだけ離れることを選んだ。風向きはいつ変わるかわからない。それよりも離れていったほうが確実にこれからの計画が立てられるってもんだ。
そして僕らは那須から栃木県に入った。
3/16(25)
栃木県の平坦な田園地帯は続く。震災なんて無かったかのように、穏やかな風景が眼前に広がっている。しかし、スライドする車は重機を積んでいたり、大型車ばかり。やはり、福島に向かう車はそれなりに震災関連の様相をしていた。ただただ平坦な道を僕らは黒磯駅に向けて車を走らせていた。ふと、FamilyMartがあったので立ち寄ってみると、
「計画停電のお知らせ」
との手書きの貼り紙がしてある。まだ予定らしいが、震災の影響で電気が足りないらしい。店内は店員以外誰もいない。僕らはソフトドリンクコーナーに行くと、案の定空っぽ。
「やっぱりな」
半ば諦め口調で店員に
「何もないですね」
と話しかけた。
「そうですね。物資も入ってこないし、買い占めもありますから……」
買い占めか。そういえば、そんなこともラジオでいってたな。物資が届かないことに注意してしまって電力不足のニュースなんて意識して聴いたことはなかった。まぁ、物資がきても電力がないなら、それはそれで困るだろう。どっちも止まっていた方が店舗にとってはいいのかもしれない。
「黒磯駅ってここからどのくらいですか」
唐突に切り出した。
「黒磯駅なら次の信号を曲がればすぐですよ」
店員も普通に受け答えをした。妙に災害時でものんびりとした光景で、話しかけた自分も少し笑ってしまった。もっと大変なことが起きているのに僕らは道を尋ねている。なんとのほほんとした光景だろう。切り取り方によっては
とある日曜の昼下がり
といった感じだろうか。店員にお礼を言うと、僕らはすぐに車に戻った。結局のところ何も買わず、道だけ訊いただけの僕らは客としては最低のランクだろう。ただ、あの店員もあまり売る気がないようで、店内をただぼーっと眺めているだけだった。
しばらく車を走らせると、黒磯駅らしき建物が見えてきた。駐車場を探していると、隣に有料駐車場が見える。
「ん?なんかおかしくないですか?」
同僚が目を凝らす。なんと有料駐車場のバーが開きっぱなしになっている。
「つかっちまおう。ここに戻ってこれるかどうかわからん。車も乗り捨てるつもりで置いていくわ」
相当の覚悟で言う台詞だが、自分には軽い台詞だった。内容はそのまま「地元を捨てる」に直結する。それでもいい。未練は今朝のホテルに置いてきた。自分はそう言うと、おもむろに奥の方に駐車した。二人して旅行のような荷物を持つと、駅の構内に向かった。
ダイヤは大幅に乱れており、30分に一本のペースで電車が東京まで出ている。
僕らは片道切符を買い、とりあえず東京に向かうのだった。
気乗りはしない。しかし、八方塞がりの福島からようやく脱するところまで来た。もう後戻りはできない。帰ってくることは無いだろう。
かなり思い入れのあるポンコツ軽自動車をプラットホームから見つめながら
「ありがとう」
小さな声で呟いた。電車に乗ると、古い軽自動車がすぐに見えなくなる。
目頭が熱くなった。
もはや引き返せない。ここからが勝負だ。振り返ってはいられない。懐古の念も捨てなければ、生き残るために。
僕らは車窓をただずっと眺めていた。
3/16(26)
車窓が次第に賑やかになっていく。薄暗くなりつつある空に反発して街はネオンでまるで宝石箱のように明るい。行き交う人々を流れる景色とともに見ながら、
ふとこんなことを思った。
彼らの活気で街自体が鼓動してまるで生きているかのよう。まるで震災なんてなかったかのように。
東京が近づくにつれ、ふと気づく。
自分の体の臭いだ。
2日は風呂もシャワーも浴び出ていないし、制汗スプレーなんてつける余裕がなかった。自分の体臭が気になりだした。うん。確かに臭う。下着は交換したが、体そのものから汗臭い何とも言えない臭いがしていることに気づいた。
これはまずい。
さっさと風呂でもシャワーでも浴びたかった。車両内は次第に人で埋め尽くされていく。自分の周囲にいる人の目線や仕草がやけに気になる。
こんなことになるなんて……。
自分は立ちながら隅に身体を寄せ、できるだけ人のいないところに移動した。
みじめだった。本当にミジメ。これほどのことがあるだろうか。自分自身が情けなく、ただただ本当に情けなく……。これほどまで自分たちは追い詰められているのか……。本当に現実から逃げ出したかった。
終点である東京のとある駅に着くと、プラットホームで作戦会議。同僚は長距離移動ですっかり疲弊していた。
どうしようか。とりあえず格安のビジネスホテルか、ネットカフェ。またはカプセルホテルを探さなくてはなるまい。しかし、自分はとりあえず身体を洗いたかったのでホテル優先で探そうという結論に至った。
出来るだけ安い宿泊。ネットでくまなく探した。東京で安い宿舎でここから近い所。池袋に自分たちはいる。ここからあまり移動したくはない。とりあえず同僚の疲弊は見るに堪えない。早く休めなければ。
「歌舞伎町でいいんじゃないですか。ここ安いですよ」
同僚がスマホの画面を見せた。
2800円
確かに安い。新宿歌舞伎町にある格安のカプセルホテルだ。
悩んでいる暇などなかった。もうそこに行こう。自分のかなりの体力と精神力を消費していたのだろう。考える力が著しく乏しい。
僕らは這うようにその場所に向かった。山手線に乗るのがとても鬱陶しかったけれども、周囲の人々の気持なんか考えている余裕がなかった。
それにしてもなんて煌びやかな風景だろう。対照的に自分たちは何てミジメなんだろう。東京の風景がより一層自分たちを追い込む。
ここは本当に同じ日本何だろうか。ほんの数日前に大震災や原発事故が起こった国とは思えないほどの活気と人の群れ。しかも福島県よりも暖かい。ちょっとした異世界だった。
しかし、自分の体の異変に気付く。さっきからクシャミと目のかゆみが激しい。
そうだ。花粉症だ。自分は重度の花粉症でその症状が出ていた。普段は気が付かないが、少し暖かい所に行くと季節のせいか症状が出てしまう。だが、それを気にしている余裕はない。さっさと目的のホテルに着かないと。焦る気持ちがそのまま歩くスピードに表れた。
3/16(27)
年季の入った建物。
日本一の歓楽街の片隅にいかにも社会のひずみのような雰囲気を漂わせる建物に僕らは入っていった。意外と混んでいて、海のものとも山のものとも分からない人がチラホラ。中にはホワイトカラーもいるのだろうか。スーツ姿もチラホラ。
さっさと受付を済ませ、ロッカーに荷物を押し込んだ。自分は洗濯物をまとめ、大浴場に向かった。同僚は長旅の疲れからだろうか、少し眠りたいといって、カプセルに入っていった。
ここ数日のドタバタを外側から綺麗に洗い流し、久々に長風呂をした。背中に落書きをしている人たちがたくさんいたのにもかかわらず、自分は物怖じをせず、好きなようにふるまった。浴槽で存分に足を伸ばし、しばらく天井を眺めていた。天井から滴り落ちる滴を目で追う度、少しずつ眠気が襲ってきた。明日がどうなろうと、もうどうしようもないところまで来てしまったのかもしれない。新宿の区役所など、避難所に関することに対して動き出さなければならないのに、今は力が出ない。そっと湯船からあがると、洗濯物を洗濯機に押し込んで、少し自分も休もうとした。食堂では相変わらず震災のニュースが流れている。20人くらいが食い入るようにそれを眺めているが、そこには何一つの悲壮感もなかった。テレビから流れるニュースが今日も流れている……そのニュースが流れる……。テレビに映る悲劇的な映像が日常のカプセルホテルの食堂、その風景の一部分に溶け込んでいた。少なくともテレビを見ている20人の近くには現実にその悲劇的な状況を駆け抜けてきた2人がいることに彼らは気づいていない。
…………………
午後11時頃だろうか。少し眠ってしまったらしい。洗濯物を取りに行き、乾燥機に入れた。ロビーは閑散としていて、テレビの前に5人足らずの人たちが泥酔している。いや、もしかしてうたた寝していたのかもしれない。
何とも言えない平和な日常が今日も東京では繰り返されていた。どこか物寂しい。
福島では今日も生きるか死ぬかの駆け引きがあったり、自分の行く先が分からず、未だに不安を抱えて避難所で夜を明かす人々があまたいることだろう。僕らはそこから抜け出した。
抜け出して、たどり着いたところは別世界。震災のことはテレビの画面で伝えるのみ。ここにはいつもと同じ日常があった。
本当に同じ国なのだろうか。
「ここは別世界ですね」
同僚が起きてきた。彼はとても寂しい顔をしていた。
「ちょっと散歩でもしようか」
珍しく自分から誘った。少し歓楽街の光に当たりたかっただろうか。僕らは外に出た。煌びやかな服を身にまとう女性たちや黒塗りの車が街を行き交っている。
こじんまりした居酒屋に僕らは入った。
「少し飲もうか」
ビールとウーロンハイ
おつまみを2品注文して、僕らはささやかなカンパイをした。
普段は全く飲まないアルコールを今日ばかりは飲んだ。喉かカァッと熱くなり、気分が高揚した。普段飲まないから余計に酔ったのだろうか。30分くらいして僕らはその店を後にした。
その日は震災の事は何も語らず、自分たちはただゆっくりと眠りについた。明日から始まる激動をまだ知らずに。
3/17(28)
朝方、やたら早く目が覚めた。そう長くは眠っていない。とりあえず連泊でも10時から午後3時までは清掃のためホテルには入れない。階段の踊り場にあるとても小さな雑談所に数人のおじさんたちが雑談をしていた。目が合うと軽い会釈を交わし、自分もそこに腰を下ろした。
「お兄さん名前なんて言うの?見ない顔だね」
長身で60代ぐらいの男が笑顔で自分に話しかけた。どうやらここにいる人たちは長期滞在らしい。
「俺は宇田川っていうんだ。1年くらいここに住んでる」
自分も正直に言わねばなるまい。そこまで悪い人ではなさそうだ。
福島から避難してきたことを正直に話した。嫌がられるかな。
「そうなの!それは大変だったね。ゆっくりしていきな。ここは安いから」
「いえ、東京に避難所が拡充されてきたら、そちらに移ろうと思います。そんなに持ち合わせありませんし」
苦笑いをしてそう答えた。
同じ雑談所に居合わせた人たちから沢山の励ましをもらい、少し仲良くなった。
どうしてだろう。福島で会った人たちよりもこっちの方がよっぽど人情深い。学生のとき、「東京は情が薄いから田舎の方がいいよ」なんて親戚に言われてたっけな。どっちがだよ。結局のところ田舎発信の質の悪いステレオタイプなんてこういったときにメッキが剥がれるものだ。
同僚が起きてきた。彼もここで一休み。タバコを吸う彼は一服している。同じ避難をしてきたことをそこにいた人たちに話す。小一時間くらい震災の時の話に花を咲かせて、僕らはちょっとした芸能人になった気分だった。朝食をご馳走になり、チェックアウトの時間が迫ってきた。もちろん連泊だ。
受付で手続きを済ませ、ロッカーに荷物を入れると、僕ら二人は街に繰り出した。都会の喧騒も自分たちには新鮮で、どこか違う世界に飛ばされたという意識は昨日から変わっていない。街角では学生による震災の募金活動は至る所で行われていた。駅前のLawsonに立ち寄ると、店内を見て愕然。
福島のそれを変わらないようにほとんどの食べ物と水、お茶が買い占められたのか店内はがらんどうの棚が並んでいた。ほとんど買うものが無い。
これが震災の影響なのか。東京でも買い占めが起こっていて品薄状態が新宿でも続いていた。ガソリンスタンドもリッター制限。車が道路に数台の列をなしている。
スマホを見るとwebで福島県のガソリンスタンド情報が一覧で見れるサイトが立ち上がっている。
〇×△で学ガソリンスタンドの状況をつぶさに伝えている。userの書き込みが可能のようだ。しかし、〇のところはほとんどない。△の給油制限・短時間営業か×の営業していないのどちらかである。
では、僕らが見ているこの光景は一体何だ。
東京でも同じことが起こっている。不安感が人々の行動パターンを操作しているようだ。本当に恐ろしいことだ。ここに実際の危機はない。しかし、連日伝えられる東北の様子、とりわけ福島の様子はここに住む人々の不安を必要以上に煽った。その結果がこれである。東京でも品不足。ガソリン不足。
本当にいい商売だよ。僕らはあきれがちに区役所に向かった。
3/17(29)
「まだ受け入れ体制は整ってませんが、ここになる予定です」
大きなホールの地図を渡された。
「もう入れるんですか?」
「分かりません」
もう話にならなかった。公務員ってこんなもんだろうか。震災の避難所設置はここではまだ連絡不十分なのか分からないことがたくさんあるらしく、自分が投げ掛ける質問に「分かりません」を連発。さっさと帰ってほしいといったように話を切り上げようとする。
「分かりました。ありがとうごさいます」
軽い会釈をして建物を出た。同僚とただ呆然と街中を漂う。
「こんなもんかな」
「対応悪いですよね」
「結局迷惑なんだよね、彼らにとっては」
自分は投げやりにそう言った。同僚はただただ役所の対応の悪さに不満を漏らす。僕らはただ大都会にいるだけで、決して受け入れられているわけではなかった。自分のなかで何か覚悟が決まった。それが何の覚悟かはだいたい察しがついた。
生き抜いてやる。どんな手を使っても。これから何が起こるか分からないけれど、どんなことをしてでもこの困難を、この苦難を乗り越えて何がなんでも生き抜いてやる。
この大震災を生き抜いて、どんなに狡いことをしてでもこの地獄を抜けてやる。狡猾にどんな局面でも乗り越えてみせる。
覚悟が決まった。僕らにはそんな蓄えがあるわけでもない。そりゃ貧乏NPOで働いていてお金なんか貯まるわけはない。だから、ここにどれくらいの期間滞在できるかたかが知れていた。
とりあえず出来るだけお金を使わないようにしないと。
スーパーの惣菜売り場で今日の晩御飯を買おうか、コンビニで済まそうか。しばらくは品薄が続くだろう。歌舞伎町に個人でやっているような小さいスーパーがあった。そこの惣菜やお弁当は驚くほど安い。
「よし、ここだ」
まずは毎日の食事はここと決めた。
あとは1日3000円弱の宿泊費だ。ネット予約だと200円ほど安い。ここは事前に次の宿泊予約を予めしておこう。ある程度節約して、あとは出来るだけ財布を開けないかだ。
目の前にパチンコ屋が映る。震災のため時短営業をしていた。
「気乗りしないが、ここしかないか」
同僚と入店する。他人にどんなに間違った行為をしているか指摘されようとも、生き抜くための手段は選んでいられる状態ではない。ノーマルタイプでさらっと300枚出せたらさっと引く。それまでにいくら使うことになるだろうか。とりあえずモノは試しだ。やってみるしかない。
……
暫くして二人は店を出た。たまたま上手くいって4000円の勝ち。同僚も同じくらいの勝ち。
取り敢えず今日の宿泊は身銭を切らずに済む。ホテルにチェックインできる時間になり、昨日と同じカプセルホテルに向かった。
ロビーはきれいに整頓され、もう何人かはチェックインしていた。自分達は今晩の食事を買い込み、寝室に向かった。同僚はやはり疲弊が激しく、さっさと寝てしまう。自分はロビーのソファにゆっくりと腰をおろし、震災のニュースを見ていた。
これからどうするか。どうすればこの状況を変えられるか。いや、変えなくてもいい。この状況よりも悪くならないようにするにはどうすればよいか。
色々考えを巡らせた。
取り敢えずバイトか。この近くで仕事でも探そうか。ネットのアルバイト募集はとても怪しいものばかり「白ロム」だのなんだのかんだの。そんな手っ取り早く高額を稼ぐよりも、毎日の時間を埋めるために、ある程度セコセコ働けるようなところがいい。
もう自分のなかに「被災している」という感覚はない。もう生き抜くために必死にもがく生き物がそこにいた。
3/17~18(30)
「いつまでもこんなことやってられないよ」
「パチだろうがスロだろうが、いつも同じように勝てるとは限らないしな」
「避難生活のめどがたつまでこうしているほかないだろ」
「『めど』って何さ。避難するかしないかだろ。もう戻れないぞ、あそこには」
「避難所開く日だってわからないままじゃ、ここにいるしかない」
「……そうだけど、この生活が向かう先は分からないだろ。こうしている間にも費用はかかっていく。何とか次の手を打たないと」
夕食はちょっとした論争になった。
お互い結局そこで次の言葉が止まる。テレビに映る地元の放射線量は平常値の何十倍をゆうに超えていた。帰れるわけがない。
想像を絶する物資不足。放射線の見えない危機。原発事故の一刻を争う危機。それらのプレッシャーにとても耐えられそうにない。
「どうしたんだ。いったい」
宇田川さんが食事にやってきた。事情を話すと、
「そうか。でも今は動かない方がいいんじゃないか。ここに腰を落ち着けるわけにはいかないかもしれないけれども、下手に動くと帰って混乱するぞ。幸運にもここにはテレビがある。情報は入ってくるわけだし、宿泊費はかなり格安に抑えられている。困ったときはお互い様の関係も出来てるだろ?ここで無理して福島に帰っても、どうにもならないじゃないか。ここよりも大変だぞ。物資が届かないそうじゃないか。とりあえずここでゆっくり作戦を練って動き出した方がいい。俺はそう思うな」
ゆっくりと諭すように、僕らに話しかけた。その空気にのまれただろうか、僕らはすっかり平常心を取り戻して、バカな話に花を咲かせた。和やかな雰囲気に自分たちも次第に心を許していった。
宇田川という老人は見かけは普通の老人だ。お金がないからここに宿泊して数年になるという。「明日は仕事で金を引っ張ってこれる」と言っていた。いったいどんな仕事をしているのだろう。聞きたいが、もし聞いていしまうと彼の善意のイメージが壊れてしまうような気がして、それ以上立ち入らないことに決めた。お互い知らないことがある方がちょうどいい。
「ところで避難したときの車はどこに置いてきたんだ?」
宇田川さんが自分に聞いた。
「黒磯駅の有料駐車場が開きっぱなしになっていたので、そのに乗り捨ててきました」
「それはもったいな いことしたな。もう捨てたつもりなのかい?警察に聞いてみたらどうだ?もしかしたら預かってきれるかもしれんぞ」
あぁ、そうか。帰りの足がなくなってしまうかもしれないもんな。一応確認した方がいいのかもしれない。
「明日栃木県警に電話してみます」
自分も不思議と地元に帰る想定をしていた。絶対に帰ることのない列車に乗ったはずなのに。
宇田川さんはきっと何の事ない心配を僕らにかけてくれた。だけど、そのことが自分の心の奥底に合った望郷の念を浮かび上がらせたのか。
その日はこれからの話をせずにゆったりと無駄話に僕らは花を咲かせていた。これからのことは不安であったけれども不思議と肩の荷が軽くなり、明日やることができたという事実がたまらなく嬉しかった。
警察に電話をするというミッションは大切に明日に抱えていこう。
3/18(31)
18日の朝
福島第一原発の現状を伝えるニュースが1日の放送の大部分を占めていた。朝になり、まずは栃木県警に電話。
「……」
なかなか話がかみ合わない。
「もういいです」
こちらの方から電話を切った。結局は警察も手一杯らしく、個別の対応はしていないようだ。無理もない。これほどまでの災害は経験したことがない。乗り捨ててきた車の安否を気にするよりも自分たちには明日の心配をする必要がある。
振り返ると、同僚が何やら深刻な顔で電話をしている。
「□〇※……」
何やら揉めているようだ。しばらくしてから聞いてみよう。僕らはまず今後の事を考える時間と余裕が欲しい。
働きに出るか……。
カプセルホテルで仲良くなった人たちの中に仕事を紹介してくれる人がいた。優しいお言葉に甘えて、面接に行くことにした。
しかし世の中はそんなに甘くない。自分は住所がカプセルホテルであるため、いろいろ問題があるようだ。確かに住所不定で働くには何かと面倒なことがあるのは素人である自分にも分かる。
結局話はこじれにこじれた。自分にはアパートを借りる余裕もない。あたたかい厚意は断るしかなかった。カプセルホテルに戻り、申し訳ないと謝罪をし、自分の寝室に戻った。
さて、ここに居続けるために収入を確保しなければ。
「すいません」
外から同僚の声がした。
「どうした?」
寝室から出ようとしたら、同省が目の前にいた。自分に話があるらしい。
「山形に行くことになりました。父がそこにアパートを借りて、皆でそこに避難することが決まったみたいです。自分も明日、山形に向かいます」
「そうか。よかったな。とりあえずはここでお別れになるわけか」
自分は快く送り出そうと努めた。明日からは自分ひとりの生き残りをかけた闘いになる。覚悟しなければ。
「必ず生きてまた会いましょうね」
「そうだな、生きていたらまた会おう」
握手をしてその日はお互い早めに就寝した。表情は普通だったが自分は不安に押しつぶされそうになっていた。明日からは自分の考えですべての避難生活が決まる。ここにいるのも去るのも自由だ。それは先行きのない不安と相まって自分を情緒不安定にした。
とりあえず自分がやるべきことは……
1.体調の安定を維持する。
2.避難生活にある程度の見通しを立てる。
3.情報収集を怠りなくする。
どれも大切な項目だ。しかし、どれも手立てが見当たらない。
どうしよう……
しばらく寝つけない。深夜になって、同僚は完ぺきに寝ている。自分はとりあえずロビーをウロウロしていた。
「どうした?寝れないのか」
宇田川さんが声をかけてきた。
「実は……」
正直に話した。
「そうか。家族がそっちに行ってるのでは仕方がないな。君はどうするんだ?」
「実は何も考えていないんです。親戚はいることがいるのですが……疎遠でして」
「そうか。人それぞれ事情はあるもんだ。いざとなったらそこに頼ることにして、しばらくは色々やってみたらどうだ」
不思議と気が楽になった。
「ここに腰を落ち着けるもよし、避難所に行くもよし。ただし福島には戻らない方がいいぞ。それはやってはだめだ」
宇田川さんの目は本気だった。本当に危険な場所になってしまったのか。寂しくもあったが、自分を思いやるこのおっさんの優しさがやけに目に染みた。
とりあえず明日の予定は……
病院に行って花粉症の薬をもらうこと。
1.体調の安定を維持する。
これに決めた。
3/18~20(32)
同僚は次の日からこのホテルにチェックインはしなかった。完璧に一人になった。しばらく自分は息をひそめるようにこの塒に隠れていた。世の中の喧騒から遠ざかるように。数日間、宇田川さんをはじめとするカプセルホテルに暮らす人々との交流を深めることに専念をした。
次の日も同じように朝夕と歓談をしながら、テレビを食い入るように見ていた。放射線量はこのころ全国ニュースで放送されるようになっていた。
「高い。とても帰れない」
「そうだな。まだ帰ってはだめだぞ」
宇田川さんは自分の気持ちがまるで読めるかのように自分を諫めた。
朝になると、もう限界だった。目は赤らみ、クシャミが止まらない。こんな時に……
花粉症の症状だ。もっと早く薬をもらいに行けばよかった。震災以降、病院に行く暇がなかった。今日は休日だし、診療はしていないだろう……。
困った。ネットで調べていくと休日診療をしている診療所がある。
よし!
少し歌舞伎町から歩くが、仕方がない。地図を見ながら、そこに向かった。30分くらい歩いただろうか。片手にポケットティッシュを持ちながら、診療所へ向かった。何とかたどり着くと、年老いた医者がぽつりと座っていた。
「どうされましたか」
不愛想に話しかけられて、少し気まずかったが、
「花粉症がひどくて……」
「そうですか。お薬だしておきますね。保険証持っていますか」
「あぁ、はい」
財布から保険証を出すと、そこに住所が記載されていた。それを見て医者が、
「あぁ、福島の方ですか。避難されてきたのですか」
「そうです。数日前にここに来ました」
正直に言うしかなかった。『まさか放射線量測ってこい』とは言われないだろう。しかし、医師は次のように言った。
「何人で避難してきたの?あまりここで今日診療やってること教えないでね。たくさん来ると大変だから」
信じられない言葉だったが、あきらめた。もはや福島はどこに行っても厄介者扱いをされることを覚悟していた。
「分かりました」
そう言うと、診断書をもらい、近くの薬局で薬をもらった。薬剤師の女性から
「頑張ってね」
と優しい声をかけられると、
「ありがとうございます」
とお礼を言って、すぐに帰路についた。予期していたことではあるけれど、冷たくされるのと優しくされるのをほぼ同時期に受けると、どの対応も同情のように感じて、ひどく気分が悪かった。
カプセルホテルに戻っても、まだチェックインできる時間ではない。点鼻薬と飲み薬を使って、厄介な症状は治まるだろう。しかしこの厄介な状態はまだ暫く続くのかと思うと本当に気が滅入る。
とうとう最後の手段を使う時が来たのも知れない。
「電話するか……」
東京に住む親戚の家の電話番号
本当は連絡も取りたくないし、顔も見たくない。しかしお金がいつまでも続くわけないし、収入も見込めない。こうなれば支出の方をできるだけ止めるしかない。
「……」
電話をした。
「もしもし……」
連絡すると、心配そうにおばさんが出た。
事情を話すと「来なよ」と気軽に言ってくれた。ただ素直にそのときは嬉しかった。あくまで「そのときは」だが。
田町で中華料理屋を経営していて、自分はそこの手伝いをすることになるだろう。まぁ仕方ない。そこで手伝うことで、しばらく避難生活をするしかない。観念して翌日そこに向かうことに決めた。
カプセルホテルにチェックインすると、そのことを宇田川さんをはじめとするお世話になった方々にそのことを伝えた。数えきれないほどの励ましの言葉を戴き、翌日自分はその塒を朝早く出て行った。なぜか震災後、人の優しさに触れる事が出来た場所がここだったのかもしれない。福島を差別なく温かく迎えてくれた人々に感謝。
小さくホテルに礼をして、僕は電車に乗った。
過ぎる新宿の街並みをいつまでも眺めていた。
3/28(33)
「もう帰ろう。最後は故郷で」
3月28日
自分は栃木県黒磯駅に向かう電車の中にいた。
親戚宅での数日。自分は神経をすり減らすように毎日を過ごしていた。昼は中華料理店の皿洗い。夜はただひっそりと他人の団らんを眺めていた。従妹は自慢話ばかり。大学でどうのこうの。
「指定校推薦で慶應行きなさい。そうすれば、 『ははーっ』て企業の人が採ってくれるわよ」母親の妹だが、本当に典型的な蟒蛇。表層的な人。うわべだけでも
自分への当てつけか?
自分の大学はそこまでいい大学ではない。自分はここの大学にとても感謝しているのだが。
ここの親戚はどうも昔から実家との見栄の張り合いがひどい。こんな時まで……。
本当に居心地の悪い空間だった。
「さっさと避難所に行けるように大田区の市役所に行ったわ。そうしたら……」
(さっさと出て行ってほしいならそう言えよ。はじめから「来い」何て言うな)
心でそう言いながら、空返事を返した。この家庭は震災の事など、どこか他の国のような出来事だった。
本当に居心地が悪い。何をするにも気を使う。自分の家のようにはとてもではないが振る舞えない。
日がたつにつれ、ここから出たいという気持ちが強くなった。
朝夕の食事。
入浴。
就寝時間。
起床時間。
すべてにおいて、彼らの機嫌を損なわないよう細心の注意をした。テレビで流れる福島県の空間線量。
「2.0マイクロ/時になったら、帰ろう。どうせ死ぬならこんなところではなく、住み慣れた地元で最期を迎えよう。その方がよっぽどいい人生だったということができる」
心にそう決めた。もはや生き残るというよりも、どう最期を迎えるかについて頭がいっぱいだった。
母親の妹の夫は中華料理店の経営者で、昔からおかしな人だった。幼少のときからそう。
自分の福島の実家に来たときは気のいいおじさん。
自分が東京のこの家に泊まりに来たときは横柄なおじさん。毎日のようにお説教。
自分の実家に来たときは自分の祖父にこのおじさんがお説教をうけていた。
結局のところ、親戚間の対立に自分が子供の時から巻き込まれていた。この最悪のタイミングでその意地の張り合いが表出しないよう、自分は息をひそめてここで数日過ごしていた。
決定的だったのは深夜のテレビ。自分がトイレに起きてくると、おじさんは夜の経営が終わり、夫婦で居間にいた。テレビでは国会でああでもないこうでもないの議論が繰り返されている。東京電力の賠償の話になると、「あいつももらえるのかな」とぼそっと叔父の口から声が漏れた。自分はドア越しにその言葉を聞いた。そこからは文に書きたくないくらいのえぐい話だった。
詳しくは書かないが、お金の悪臭がした。翌日の昼。17歳の従妹と留守番しているときに、自分はこのマンションを出て行った。
「ごめん、帰るわ」
そう言い残すと、自分は電車に乗った。途中でその親戚宅に電話。帰ることにしたことと、お世話になったお礼を言おうとすると。母親の妹であるこの家庭の母は激怒。
「お礼がないって怒ってたわよ!」
「感謝の電話ですよ」
「そうじゃなくて、」
そこで叔母さんは言葉に詰まる。
そうか。お金か。宿泊費と滞在費用をよこせと。
すぐに電話を切った。もう繋がりも切ったと言ってもいい。妙に清々しい気分だ。もう地元に帰ることはできないのかもしれない。黒磯駅に乗り捨ててきたあのオンボロ軽はもうないかもしれない。ただあの醜悪な牢獄にいるよりは後ろめたくない最期を迎えられる。
車窓からハコモノが徐々に消えていく。
過ぎ行く景色を脳裏に焼き付けた。
この景色を忘れない。
3/28(34)
電車に揺れながら、自分の心は東京にいた日々を思い返していた。しかし、感情は驚くほど薄くなり無表情でその思いを噛み締めていた。
カプセルホテルでの出来事
親戚との軋轢
この2つは自分のこれからの糧となるだろう。
良い意味では人の温かさ。
悪い意味では人の業の深さ。
そんなものに当てられて、自分はくたびれた雑巾になった。結局のところ、この世はサバイバル。
生き残りのゲームに身を投じるしかない。
ただ、降り注ぐ災難のなか、最期を迎えるなら故郷をえらんだ、あれだけ嫌っていた故郷を。
この気持ちを説明することなできない。いや、きっと自分自身も理解することはないであろう。震災を通して郷土愛が芽生えた訳ではない。ただゆっくりと目を閉じるときは見慣れた風景の方が心穏やかで逝ける気がしていた。
栃木県の黒磯にたどり着いた。駅から出てみると本当に閑散としている。人の気配はあまりない。
車は……奇跡的にそのままだった。
よかった。足ができた。
とりあえずエンジンをかけると、勢いよく車が唸った。調子が良い。そのまま帰ろうか、それとも……
何を思ったか、自分は役所に向かった。避難所の有無について聞きたかった。役所に着くと受付で尋ねた。
「福島県から避難してきた者なんですが、避難所はありますか」
「福島の方ですか」
そう言うと、受付の中年男性は言葉を詰まらせ、奥の方で数人と相談している。きっとダメなのだろう。予感はしていた。
「今のところ、福島県からの避難受け入れ先はないのですが……」
「そうですか。わかりました」
本当にあっさりしていた。そうなることは大体予測していた。自分も簡単に引き下がった。粘ったところで結論は同じだから。やはり「汚染地域」に帰るしかないのか。
もう夕方。ガソリンは半分くらい。どこまで走れるだろうか。黒磯の街中を国道4号線を目指して走っていた。
あっ!!!
ガソリンスタンドが一件開いている!!
ここで助けが舞い降りた。
しかも今チェーンを外したような開店したばかりの様相だ。なだれ込むように車が次々と入っていく。自分もその列に加わった。
3/28(35)
給油できた!
道路に並んで4台目。間違いなく給油できた。
しかし少し割高で、リッター165円くらいだろうか。兎にも角にもこれで福島に帰ることができる。後は国道4号線をただただ北上するだけだ。そんなに心の高揚はなかったが、気分が深く沈むこともない。ただ人生の終末の事を考えていた。放射能の影響がどれほどあるか分からない。報道されている内容などほんの一部分にすぎないだろう。ともすればウソかもしれない。
2.0マイクロシーベルト
平常値は0.05マイクロシーベルト
何十倍もの放射線量の中、どれほどのトラブルに見舞われるか分からない。おそらく健康には良くないであろう。それでもかまわない。
生まれ育ったところでただ眠るように目を閉じることがいかに幸せか自分は悟っていた。
広い国道に出ると、そのまま北に車を走らせ続けた。辺りは暗くなり、雪混じりの雨が次第に強くなっていった。
途中不安になり、カラオケボックスに寄り、そこでトイレを借りた。
「すいません。福島市までどのくらいですか」
ふと店員に問うた。
「えっ……」
彼は言葉に詰まった。しばらくして
「あと少し北に行けば、福島市ですが、行かない方がいいですよ」
「ああ、そうですよね。でも行かなくちゃいけないんです」
そういうと、無表情で車に向かった。誰も僕のこの愚かな行動を止めることはできない。もはや理屈ではないのだ。腹のくくり方が違った。
さらにボロ軽は北に向かう。霙はさらにひどくなり、前が見にくくなるほどだ。
しばらくすると「福島市」との看板が見える。
ようやくだ。
ようやく僕は福島に帰って来やがった。
そこからは山道に入って、浜通りに向かう。霙は何時しか雪に変わり、度々車の足を奪った。右に左にうねる山道は暗く、ただ手前を車のライトだけが照らしている。辺りは民家があるものの、電気がついていない。もう避難したのだろうか。
人の気配はしないが人がいた形跡がある。
こんな異様な光景が数十キロも続いている。ガソリンスタンドはおろか、コンビニもやっていない。ただ、暗い道路だけが雪の中静かに照らし出されている。行き交う車もない。ポツンと軽自動車が一台テクテクと危険地帯に向かっている。懐かしい郷愁とともに。
3/29(36)
山の狭間のうねった道を一時間かけて抜けると、林道に出る。両サイドの視野が一気に開ける。少し気分が晴れた。ふと、ぼんやりと光が見える。街灯ではない。以前に勤めていた建物が避難所になっていて、灯りがついているのだ。深夜で、辺りは静まり返っていて、コンビニすら営業していないこの地域で、不気味な明るさを放つその建物に自分は無意識に車を止めた。
「どうも」
恐る恐る入ると、昔の同僚が声をかけてくる。
「あら!ひさしぶり!どうしたの?大丈夫?」
笑顔の奥に戸惑いが見える。多くの絶望の後に味わう懐かしい気分にどう反応すべきか分からないといった表情だ。
「なんとか生きています。今、避難先の東京から帰ってきました」
複雑な表情で返した。
「避難先から帰ってきたの?ちょっと早くない?何かあったの?」
不思議な表情で僕を見る。
「いやぁ……色々考えたあげく、帰ろうって決めたんです」
無理に無理を重ねたイビツな笑顔で、取り繕ったように暈して答えるのが精一杯だった。
(最期を迎えるときは故郷でって決めたんです)
なんて言えるわけがない。
「まぁ、あがってよ」
自分は奥に通されると懐かしい人たちと暫しの歓談。
何日ぶりかの心からできる笑顔だった。
テレビから津波にのまれる街の映像が何度も流れる。
「本当の悲劇はこれだけじゃない 」
年配の元上司がゆっくりと口を開いた。
「本当の悲劇は……これからだよ。放射能の被害はすぐにはでないんだ。実際俺たちだってどれだけ浴びているか……病気になって出るのはもう少し後さ」
一瞬の静寂が辺りを包む。ゆっくりと蛍光灯の灯りがチカチカと繰り返す。まるで沈む一同を面白おかしくスナップショットで撮られているような卑猥さ。
「そろそろ、おいとましますね。会えて嬉しかったです。お互い頑張りましょうね」
とっさに自分の口から出た言葉だが、流石に吐き気をもよおした。
「頑張る」だって?これ以上何を頑張ればいい?何を望めばいい?明日することは?明後日は?今後の見通しなんて何一つたっていない。結局のところ、帰り道の山道でヘッドライトをたよりに雪を掻き分けて進むボロ軽自動車と同じなんだ、この地域は。
社内のラジオから嫌というほど流れる。
「心は誰にも見えないけれども、心づかいは見える」
「頑張ろうニッポン」
「ポポポポーン」
泣きながらオーディオを叩き続けた。
何度も何度も
何度も何度も
何度も何度も
なんどもなんども
ナンドモナンドモ
なんども……
ちくしょう。
もう頑張れない。頑張ることが何なのか分からない。僕の慟哭の向かう先がどこなのか。今は分からない。これがやがて怒りに変わり、怨念になり、禍根になる。結局そうなることは分かっていた。
どれ程の時間がかかるか分からない。けれどもこの感情が膨大に膨れ上がるマシュマロのように頭のなかを埋め尽くしていく。
頭がどうにかなりそうだ。割れるほど痛い。
これが本物の怒りなのか。いい大人が涙を流しながら、霞む道路を見ながら、また車を走らせた。
テクテクと。
3/29(37)
深夜の12時をとうにまわっている。僕の車は一台トコトコと福島第一原発に近づいている。辺りから人の気配は消え、無感情の点滅信号がやたらとはばをきかせている。自衛隊の車両とおぼしき車が数台巡回している。まるでゲットーにでも迷い混んだかのよう。点滅信号を守る意味はあるのだろうか。車はとうとう自衛隊車両と僕の車だけになった。僕の街はすでにもぬけの殻のような静寂と整然と区画された街並みだけがあるだけ。それはまるで写真のような沈黙空間だった。
アパートに着くと、もちろん戻ってきている住人は自分しかいないことがわかった。駐車場にポツンと一台のボロ軽自動車があるだけ。つまり、自分以外の住人はどこかに逃げたのだろう。
ゆっくりと部屋の鍵を開けると、棚の荷物が落ちている。きっと余震があったのだろう。トイレもベッドもそのまま。特に荒らされた様子もない。
「ただいま」
一人で呟く。スマホを片手に横になった。電波塔が回復したのだろうか。ネットには繋がる。すぐにこの街の情報収集を始めた。
灯油の販売
支援物資の配布
義援金
とりあえずライフラインの確保が重要で、3月の寒空の下、ストーブの灯油と、食べ物は喫緊の課題だ。
…………あった!
近くの生涯学習センターで食料の配布と灯油販売がある。素早く日時をメモして、今の灯油の量を確認。節約を心がけた。とりあえずノーリターンの覚悟で出た街に、恥ずかしげもなく戻ってきてしまった。
人生の最期をここで迎える覚悟とともに。
この街の運命を見守ろうと思う。
これからどんな悲劇があろうとも。
色々と計画を立てては悩み、その繰り返し。
そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか眠りについてしまった。静寂と暗闇の街の中で、ひっそりと息をしている自分はまさに世界でたった一人、悲劇のど真ん中のベッドに揺られながらテクテクと夢の中へ歩いていった。真実の喧騒など届くわけもなく。
3/30(38)
午後1時、不気味な静寂の中目覚めた。
あぁ、そうか、帰ってきたんだったっけ。もう少し生きたかったけど、最期を迎えるのはやはりここが安心できる。そんな気持ちで帰ってきた。
遠くで時折、車の通過する音が聞こえる。辛うじて人がここに暮らしている証拠か?それとも作業員か?自衛隊か?
よく分からないまま、徐々に体を起こしていき、やっとのことで起こした身体を酷使するように、車に飛び乗った。向かったのは昔の仕事場。いや、正確にはまだ在籍しているかもしれない仕事場だ。公共施設に向かうと、事務所に灯りがついていることに気づく。気まずさとともにゆっくりと扉をノックする。
「こんにちは」
「おお!また会えた!元気だったか」
そこには数人のスタッフと理事長がいた。暫しの歓迎の後、案の定理事長の愚痴が始まった。
「指定管理をしていて、税金で飯を食っているのだから、公務員に準じた責任がある。だからって訳ではないけれど……」
何が言いたいんだよ。お前も避難しただろうが。というか、その市役所の職員もどんどん居なくなっていたのをこのオババは覚えていないのか。
後にこの理事長も市のバスで新潟に避難したことが分かる。
偉そうに。ダカラナンダヨ。
「あ?なんですか?」
自分の凍てついた視線と冷めたきり返しに、理事長も言葉の矛を納めた。
もともと一年契約だったので、そろそろこの仕事も終わり。さっさと次の仕事を始めたかった。
避難体験をお互いに話し、暫し和やかな雰囲気で時間は過ぎていった。
話題は武田邦彦教授のコラム
この教授のことはごみの分別の無意味さを説いてきたことでよく知っていた。彼が放射線に関する報道に警鐘をならしていた。テレビの報道やコメンテーターの適当な安心の安売りには飽き飽きしていたので、彼を信用するかどうかは別にして、
「正しい姿勢」
についてはある程度共感できた。特に放射性物質については正しく知り、正しく対処することを学んだ。できるだけ身体に取り込まないようにするために毎日の生活で何を気を付けなければならないのか。
放射線にも大分詳しくなった。
β線……テレビでよく言われる「セシウム」だのはこれ。
α線……本当に怖いのはこれ。プルトニウムとか。あまりテレビでは放送されない。
重いから飛ばない……と言われていたが……。
僕らは正に悲劇の只中にいる。
4/1~5(39)
避難から帰ってきて数日が過ぎた。夜はとても静か。コンビニも24時間営業はしていない。そもそも閉店している店がほとんどだ。コンビニすらこの街には1軒しかない。その1軒も時短営業で17:00には閉まってしまう。ガソリンスタンドはチラホラ営業している。しかし、お昼には閉まっていしまうところと、開店しても2時間足らずで行列ができてしまい、やはり閉店してしまうところばかりだ。僕は給油のために早起きして、ガソリンスタンドに行く。配給や灯油販売もネットで配信され、そこに向かう。何とか生きている。自分が3月まで働いていた公共施設は支援物資の配給で賑わっている。皮肉なものだ。被災して多くの住民が避難し、街の喧騒は跡形もなく消えたはずが、支援物資の配給になると、これほどの人がまだこの街にいるとは。
震災前はこの街は7万人の住民がいたらしい。震災が起こり、原発事故の影響で一時は1万人を切った。現在はどの程度戻ってきているのかはまだ不明だ。未だに他の件に避難をしようとしている家族もいるだろうし、戻って来ようとする人たちもいるはずだ。結局のところ自分の身の回りの状況しか自分には分からない。この街がどうなっているか、この県はどうなっているのか、そんなことに答えてくれる人はいったいどこにいるのだろう。毎日毎日、ガソリンの心配と食べ物の心配をネットの情報で右往左往しながら何とか生きているだけである。それだけで精いっぱいだった。
義援金給付の受付も始まった。ある小学校の体育館が使われたが、そこでも多くの人が長蛇の列を作っていた。自分もそこに並んだが、2時間以上の待ち時間のあと、やっとのことで手続きをした。
毎日こんなに震災に振り回されるのか。
本当に嫌だ。これからのことを考えたい。もっと先のことを考えたい。
そんな気持ちは毎日の情報でかき消される。
とりあえず生活用品の配給を受けないと。
食料の調達はどうしよう。
ガソリンスタンドの情報はどうだろう。
幸いにも自分次の仕事は決まっていた。4月下旬から始まる。この街から50キロ離れた山間の小さな仕事場。おそらくその仕事場付近はこの地域よりも圧倒的に放射線量が高い。原発から離れていても、風に乗って放射性物質が飛散した地域だからだ。飯舘村の近くだから本当は住めないレベルだろう。しかし行政区画が異なると隣町ということになり、避難の指示が出ない。
本当におかしな話である。放射線が県境や町境を気にするだろうか。そんな事お構いなしで、風に乗って飛散するのである。しかし、私たちの社会は地域行政ごとに震災対応が異なる。その地域の人々の健康の影響など関係ない。すべては地域行政の大きな生き物の一部として私たち住民は生きなければならないのだ。運命共同体のようなものだ。
いや、そんなことは言うまい。その区画のおかげで自分は仕事が得られた。
この思いは心の中にしまっておこう。
これから赤十字の義援金や東京電力の仮払いが始まる。もっとこの状態は混乱するだろう。きっと想像もできないような大混乱になる。
そんな漠然とした自分の予感は結果的に的中した。
4/6~4/10(40)
灯油販売の日は前もってネットに公開された。生涯学習センターに行くと、やはり長蛇の列ができていた。数量制限があったため、18リットルのポリタンク一つ分だけの販売だ。自分は一人暮らしなので十分すぎる量だ。当日は調理パンの配布もされており、自分もそれを戴いた。
「出来るだけ早く食べてくださいね」
賞味期限を見ると、数日過ぎていた。まぁ、仕方がないだろう。そこまで贅沢は言うまい。自分はそのPASCOのパンを数個もらい、灯油を積んで、アパートに戻った。
PASCOのパンかぁ……
やたらとその会社名が記憶に残っていた。
そうだった!
3/11の夜、一番初めに来た支援物資のトレーラー。あの愛想の悪い運転手が運んできた食べ物はほとんどがPASCOのパンだった。その記憶が自分の記憶に残っていた。なんでこんなにたくさんのパンを、しかもいち早く僕らの元へと届けてくれたのだろう。
(このことは数カ月後じっくりと調べた。この謎解きは自分の興味というよりは日本の歴史を正しく知るために。その結果は言いません。)
賞味期限なんて意味がない日付なんだろう、きっと。ただただありがたく
「一食分の食費がういた」
などと、自分の財布の心配をしながら、その日は悠然と暮れていった。自衛隊車両が街中を巡回しながら、僕らの生活を見張っている。いや、見守っているのか。しかし、歩道を歩く人疎らで、白マスクの集団が、生涯学習センターから出ていく。その異様な光景にカルト的な奇妙さを感じながら、すぐそこに迫った危機的な状況と、現実味を帯びた「死」を枕にして僕はこの街にいる。
夕焼けに映える自衛隊車両は悠々自適に道路を闊歩する。僕らは生きるために右往左往する。どうしようもない末期的なこの状況を見ながら、震災前を夢見て。
やたらと暗い夜はすぐ目の前。
近代以前の静けさのような、沈黙の中。原発の状況は刻一刻と変わる。毎日のニュースがそれを克明に伝えている……と言えるのか?
武田教授のホームページを見ながら、メディアへの不信感は積もっていった。
本当の状況はもっと深刻なものであることは間違いない。
これはここに住んでいる人間の一部かもしれないが、確かに感じていた。
「もう大丈夫です。比較的安定しています。」
と言うアナウンサーはマスクをしているので、僕らには説得力ゼロなのは言うまでもない。状況を確認しに来た国会議員はフルアーマーのロボットのような恰好。それに対応する市役所の職員は平服でマスク姿。
何もかも嘘で塗り固められていた。しかも、ウソの塗装の仕方が荒くて、そこら中から僕らに真実を見せてくれた。なんて間抜けな政府とメディア。
そんな彼らの行動が僕に真実を見据える目を開かせてくれたんだ。
最大限の皮肉ではあるけれども。
4/11~15(41)
放射線との戦いにも慣れてきた。外出するときは必ずマスクをつける。外から帰ったら、必ず上着をパタパタ。洗濯物は外には干さず、室内に干す。部屋干ししても臭わない洗剤で洗う。靴は底を毎回丁寧に洗うようにする。必ず外の水道で。
個人商店の店舗も少しずつではあるが、再開してきた。しかし、中には悪しき噂とともに再開した店もあった。
震災数日後、生肉100g数千円で販売していた精肉店をはじめとして、アコギな商売をしていた店が再開したとしても、世間の目は非常に冷たいものとなった。そんな悪評は自分の耳にも入るようになり、デマであるかもしれないそんな不確定な噂も複数から聞けば、信憑性が増す。そんな小売店は再開しても誰が振り向くというのか。県庁に行った後の放射線量測定をしていた学校でカレー販売をしていた業者と何か重なるものがある。
彼らの商魂にカンパイ。とは言えないだろう。人の生き死にの間際で日銭を稼ぐ浅ましさに吐き気をおぼえる。
ガソリンスタンドの時短営業ではあるが、徐々に再開していった。自衛隊車両に加えて工事車両や作業車が怒涛の如く街中に散らばり、国道では原発方向に向かって早朝に一斉に向かっていった。もちろん夕方には大渋滞になる。避難住民ばかりのはずなのに、この賑わいと喧騒は大都会のそれとどことなく似ている。しかし、中身は全く異なった混沌と不安はこの世界のどこと似通っているのだろう。あえて言えば、戦争後のイラクやアフガニスタンのような荒廃だろう。人心の荒廃もそれと似ているはずだ。
除染作業員もどんどん増えてくる。夕方のコンビニでは長蛇の列だ。自分もたまたまそこに居合わせたのだが、
「○○○○出来たてでーす。いかがでしょうかー」
店員が大きな声で呼びかける。
「そんなことよりもさっさとレジやれ!」
長蛇の列の作業員から乱暴なヤジが飛ぶ。店員たちが総がかりでも対応できないぐらいの賑わいだ。本来はうれしいことではあるが、こんな状態では買い物するのに何分かかるのだろう。除染作業員を運ぶマイクロバスがコンビニに止まる度に、作業員たちで店内が埋め尽くされた。
複雑な光景だ。復興のために遠くから出稼ぎに来ている人たちには感謝しなければならない。しかし、その人たちのふるまいは被災者の傷口に塩を塗る行為や言動で溢れている。荒っぽい言葉でまくしたてる除染作業員。ただただ謝り、頭を下げるコンビニ店員。きっとこの人たちも被災者だ。
「この人たちが避難したら、君たち買い物できないよ」
勇気をもって、除染作業員に僕は言った。もう我慢ができなかった。
「……」
何も反論してこない。騒いだ作業員はそれから何も言わず出て行った。
何か時間軸がずれているような気がした。そのときに僕は確かに強い違和感を感じたんだ。
世間は「復興」と言う。「頑張ろう福島」と言う。
しかし現実は……まさに「震災中」なのだ。日々、震災による被害を受けている最中で、そんなときに「がんばろう」と言われてもねぇ。
除染作業員たちを乗せたマイクロバスはまたワガモノ顔で夕闇に消えていった。
4/16~20(42)
震災から1カ月が経過した。僕らの生活は震災前とが激変した。外に洗濯物を干す人は誰もいない。みんな部屋干しなんだろう。コインランドリーが大賑わいだ。倒壊や津波で家を失った人たちが仮設住宅から大きな洗濯籠を抱えて、コインランドリーにやってくる。町中のコインランドリーは週末になるとほぼ全台稼働して、しばらく待たなければならない。
原発情報では「ベント」の言葉に敏感になる。「次の日の朝、ベントをすることに決定しました。皆様の健康には影響ありません」とはいうものの、信じている人は皆無だろう。それは次の日の朝になればよく分かる。早朝から、隣町までつながる道路は混雑した。ベントが始まる前にできるだけ原発から離れたいという心理から、この街を一時避難する人で国道は溢れかえった。しかし、そんなことをしたってお昼にはみんな戻ってくるんでしょう?この行動にいったい何の意味があるっているんだ。でも、放射能から少しでも離れたいっていう気持ちも痛いほどわかる。
単なる気休めなのだ。そうやって右往左往することで自分は最善の選択をしているんだって自分自身に言い聞かせる。宗教儀礼のようなものだろう。原発安全神話が崩れ去った今となってはとてつもない皮肉めいた表現だが、国道の渋滞は、自分にはベントするという情報に踊らされている魚の群れのようにしか見えない。
本当に放射能が怖いならここには戻ってこないのが最善の選択だろう。そんな数時間この場所を離れたからって何が安全だと言うんだ。きっと彼らの行動に意味はない。
「直ちに健康に影響はない」
官房長官が繰り返しこの発言をしていた。それは今やもう虚しい戯言。「ただちに」が示す明確な時間などない。それが数日なのか数年なのか、はたまた数十年なのか。自分たちにそれを知る術はなかった。
自分はそんな魚の群れには加わらなかった、もう覚悟を決めていたから。堂々とここで死んでやろう。できる限りの生活の注意さえしていれば、後は野となれ山となれ。
僕は日々の生活で洗濯物を干す場所と外出時のマスク、帰宅時の服のパタパタ、そして、食べ物の原産地と水には気を配った。それ以外は普段と同じように生活した。ネットで情報収集。その後、ガソリンの確保と開いている店舗の探索。原発情報に耳を凝らした。毎日の食糧確保はなんとかできた。しかし水やガソリンは購入できないこともあった。この街にはいつの間にか住人と同じくらい原発関係の作業員が押し寄せていた。おそらくは除染、解体、建築、復興関係だろう。彼らがいつトラブルを起こさないともかぎらない。とてもまともじゃない言動や行動をしていた。自分はできるだけ彼らに近づかないよう、息をひそめて暮らしていた。まるで野良猫のように。
もうすぐ新しい職が始まる。新しい生活は何の変化もない放射能と隣り合わせの不安を抱えたまま、厳しい船出になる事は目に見えていた。
4/21~30(43)
仕事が始まった。自宅のアパートから片道50キロの小さな場所。そこで勤務だ。山の中で、小さな小さな仕事場。初めて向かうと、その仕事場に朝向かうとき、が図多くの自衛隊車両や作業車、大型ダンプとすれ違う。山道なので、スライドするのがものすごく怖い。うねった国道をトコトコ仕事場に向かう。
放射線量は自宅よりも高い。それは原発から距離はあっても風の通り道だったからだろう。ガイガーカウンターは鳴りっぱなし。
このガイガーカウンターは自分が住んでいる街でとあるスーパーが再開したとき、無料で貸し出しをしていたものだ。自分の身の回りの放射線量を知りたくて、1週間レンタルしたものだ。仕事場の放射線量が知りたくて、仕事に持参した。福島第一原発から30キロ以内の自宅(約25キロ)と比べると、距離は大分離れている。放射線量は20倍を超えた。車は内気に切り替え、マスクを常備した。流石に自分の危機感を覚える。
勤務していると少し違和感がある。道路を挟んだ向こう側に人の気配がないのだ。自分が勤務しているところは浜通り添いの市の一番山側の地域。道路を挟むと、山の市に変わる。山の市は避難を決めたらしい。人はほとんどいないそうだ。しかし、道路を挟んだこの仕事場が属する市はあくまで自主避難で、公務員はほとんど勤務している。この異様な光景は自分のトラウマとなった。放射線量が比較的低い浜沿いを基準にすると、同じ市に属している地域はその基準で避難が決められる。道路を挟んで隣の市は、山間部の市で、放射線量が高い。そのため避難を決めた。そして、今自分がいる所は明らかに放射線量が高い。しかし浜沿いの基準なので学校も再開してしまう。放射線が行政区分で、広がるのだろうか。本当にばからしい話だ。
ここからはB市だから、入らないようにしよう。
放射線がそんなことを思うのだろうか。大気に国境線が引けないのと同じように、放射線量も一概に市町村単位で区分けできないのだ。そんなことは原発事故当初から分かっていることなのに。
震災後の原発爆発の時、同心円で円を描いたのが何よりの証拠だ。放射線は行政区分に関係なく拡散する。さらに言えば、あの同心円も間違いだった。そのときの風の流れで、必ずしも円状には広がらなかった。海から吹く風で、それは山間部により多く流れていった。だから原発から25キロの自宅よりも50キロ以上離れているここの方が放射線量が高いのだ。事実、飯館村は30キロ以上離れているのに村民は全員避難をした。放射線量が格段に高かったためである。
今、自分はここで働き続けることに大きな不安を持ち始めていた。本当にここにこのまま働いていてよいのだろうか。避難先から戻ってきたとき、あれだけ「死」を覚悟したにもかかわらず、今は「生」にしがみつこうとしている自分が滑稽にも、浅ましく、さもしく、惨めに思えた。まさにそれが「被災地で生きる葛藤」なのだろう。
勤務し始めて数日。自分の心には大きな変化が起きようとしていた。
5/1~GW(44)
東京電力の仮払金の具体的な手続きが始まってきた。分厚い冊子に記入欄が山ほど……
とりあえず避難に使った費用を思い出せるだけ書きなぐった。洗濯物の乾燥にコインランドリーを使っているからそれも……。
とにかく世間には100万だの単身世帯70万だの金額だけが飛び回り、そのヤッカミと嫉妬で悪意のある言葉がネットと現実世界両方ともに飛び交った。
「いいなぁ、カネ貰えるんでしょ?」
原発からの距離が30キロを越える人々は決まってこの話をする。義援金なども原発距離30キロを境に大きく異なり、ここで人々のトラブルの種がバラバラと撒かれていた。東京電力の狙いはこれだったのかもしれない。
地域の繋がりにヒビを入れること
大きな人の群れでかかってこられると太刀打ちできないから、まずは地域でいさかいを起こし、かかってくる団体を小さく細分化することで、個々に対応しやすくする。
そんなこと、自分の回りにいる人たちは大体分かってる。ほぼ呆れ顔で毎日を垂れ流している。何も希望を持てないから。
浜沿いは沼地と化し、復興用の砂利道が真っ直ぐとしかれている。大型のダンプや作業者がちらほら見える。朝方や夕方はどっと街になだれ込むので、大変な混雑だ。パトカーや救急車は毎日のように飛び回る。聞く話によると、居酒屋などのトラブルも増加しているそうだ。やはり復興作業員たちがトラブルを起こすらしい。
確かに街中は賑やかになった。しかし、ガラの悪い人達もたくさん増えた。本当に近づきたくないほどの悪意の塊。コンビニの混雑がそれを物語っている。日頃のストレスをコンビニ店員にぶつける様子を幾度となく見ている。
さて、パチンコ屋が再開してからというもの、大繁盛だ。何もすることがなくなった人達を鴨にして、ギャンブルか……震災前の自分の行動をはじめて第三者的な視点から見ることができた気がした。
仮設住宅から多くの車が9時前にパチンコ屋に向かう。9時前には何処のパチンコも大きな行列だ。土日になると、それに除染や復興関係作業員が加わり、大繁盛。とても悲しい賑わい。
恥ずかしながら、自分もその賑わいに加わってしまった。偶然自分の叔父がいた。
「カネもらったか?東京電力のやつだよ」
「いいえ」
すぐさまその場を立ち去った。
胸くそ悪い。
結局のところ、ここに住む人心はすべてそこに注目していた。とても寂しい。心にすきま風が通り抜ける。
親戚なのに一言目が「カネ」
帰りの車内で、静かに涙を流した。
5/7~15(45)
東京電力からの仮払いがチラホラ始まってきた。周りの人々はその話題でいっぱい。特に書類の記入法が複雑で、混乱をきたしていた。特に領収書の添付に関しては取っていない人がほとんどで、どのように請求するのか悩んでいた。電話相談も開設され、ひっきりなしに情報の錯綜が起こった。「とりあえず請求しておけばいいよ」口々にそういった声が聞こえてきた。確かにいちいち領収書を取って避難していた人なんているのだろうか。自分も東京に避難したときは、とりあえず毎日生きるのに必死で「領収書」なんてものは残っていない。しかも、記入欄には「滞在場所」を書く欄があった。自分は歌舞伎町のカプセルホテルと親戚宅なのでネットで調べて、電話番号も添えて記載した。ある程度電話で確認することがあるようなので、大切な情報だが、明らかに個人情報だ。こんなものを本当に一民間企業が集めてよいのだろうか。一抹の不安が頭をよぎったが、とにかくこれを提出しないことにはこれからの補償も受けられない。分かることだけを記入し、投函した。友人たちの書類もみんなで協力して作成して、まとめて仕上げた。しかし、自分の数少ない友人たちもそのほとんどが避難中で、この街に戻ってきているのはほんのわずか。結局のところ、毎日ベントだなんだの原発関連のニュースが身近にあり、せわしなく生きているこの街に戻ろうとする人はいないのだろう。
「ここでこれも請求しておこうぜ」
「どうせわかりゃしないよ」
「避難に使った車も放射能汚染で使えないからって請求しておいた」
ああ、ついにこの話題になったか。ゴールデンウィークが終わり、仮払いの手続きが本格化すれば、おのずとこのような話題になるのは分かっていた。
「とれるものは取っておこう」
人間の本質を見たような気がした。どんなに清廉潔白に振舞っても、本当の裸はこのようなものなのかもしれない。少し寂しくなりつつも、自分もその会話の中にいた。しかし、重い口が開くことはなかった。それは避難の時、歌舞伎町のホテルで知り合った宇田川さんをはじめ、そのカプセルホテルに暮らす人々を思い出したからである。
「がんばれよ」
優しく元気づけてくれたその言葉が一カ月以上経過した自分の胸に突き刺さった。どうしても浮かれた気分になれない自分がいた。
あのときの自分の心の中……明日が見えない不安と漠然としたこれからの不安。その繰り返しの避難生活の中で自分によくしてくれた、あの人々の顔が頭から離れない。
東京電力にできるだけ多くの請求を立てて、にんまりしている自分の周りと同調することはどうしてもできなかった。自分にもほんのちっぽけな良心があったのか。少し自分自身を見直したというか、避難で出会った人々に対しては実直でありたかった。
自分から言わせてもらえば、そんな賠償金の請求に盛り上がっている面々に対しては、ホールボディを計測に行った避難所でのカレー販売と何ら変わりのない感情を抱いた。
5/17~30(46)
義援金の配布、仮払いが始まった。それに時期を合わせるかの如く、パチンコ屋・居酒屋が大賑わいだ。外には洗濯物を干せない。したがって、コインランドリーも満員御礼。いつになっても乾燥機が空かない。そこら中に仮設住宅が建って、人口は震災前よりも増えた印象だ。それはここの住民ではなく、原発事故に伴って、地元に住めなくなった人々、津波ですべてを流された人々が暮らしている。とても悲壮感が漂うその集合住宅は延々とどこまでも続く。夜になると、その仮設住宅に一斉に明かりがともる。少しお祭りのような様相だ。場違いでTPOを弁えない台詞かもしれないが、その光景には人の温かみが感じられた。未曽有の災害に人は寄り添いながら生きている。言葉にできない悲劇の真っただ中に人のぬくもりがこんなところに感じられるとは……。自分の眼前に広がる光景にただただ皮肉な感情を正直に受け入れている自分がいた。
片道50キロの仕事にも何とか慣れたところで、自分の身体がふと心配になってきた。マスク着用はもう習慣として定着したが、内部被ばくはしていないのだろうか。学校ではホールボディを子どもたちが受けている。果たして自分は本当に被爆していないのだろうか。はじめは運転中にふと考え込むだけだったが、数日経つとどうしようもなく気になりはじめ、内部被ばくを測ってくれる病院を探した。子どもたちは検査しているが、一般の受診は受け付けていないという。こうなれば少し離れた病院でも仕方がない。自分の体のことで不安がいっぱいになった。ネットの情報をあてに病院を探し回った。果たして自分を検査してくれる病院は見つかるのだろうか……。
東京避難から帰ってきたとき、自分は「死ぬなら地元で」と悲壮な覚悟で帰還したはずだった。今になれば今日明日の命が惜しい。なんと浅ましくさもしい心だろう。自分の覚悟の未熟さに顔を赤らめながら、一つ一つ病院に電話をして回った。
……見つからない。どこにかけても「その設備はありません」「予約でいっぱいです」この2言に一蹴された。本当に自分の体は大丈夫なのだろうか。不安はますます広がり、心を蝕んでいった。毎日の食生活でも大きな変化はない。水はさすがに買って飲むものばかりだ。水道水は何となく信用ができない。口に入るものには、それなりに細心の注意を払い始めた。
今さら遅いか……。
心でそう呟きつつも、最低限の自己防衛は自分にほんの一握りの安心を与えてくれたってわけだ。
6/1~30(47)
街に活気が戻ってきた。いや、正確には「活気」ではなく、人の「混乱」だ。色んなところから色んな人が来る。もちろん望まぬ輩もたくさん。
稼ぎに来ているのだから、もちろん出稼ぎ感覚でこの街にいるのだろうが、とにかくタチの悪い人が多い。ラーメン屋での喧嘩、居酒屋での喧嘩。中学生への声かけ事案。車に連れ込まれそうになっただの、とにかく不安と治安の悪さがこの街を包んでいた。学校の校庭に黒いトンバッグが埋められた。中身は放射性物質を含んだ汚染土だ。どの学校の校庭にも重機が入り、何十袋もの黒いトンバッグが埋め込まれた。
なんとも悲しい光景だ。ここに何が埋まっているとも知らずに子供は遊ぶのだろうか。いや、カラーコーンをたてて、近づかないように促すのか。
市内の中学校は区域によって、校舎や校庭の除染をし、再開の準備をしている。町の至るところに重機の姿が見える。
「本当に学校再開するのか?」
住民から不安の声が飛ぶ。
この地域の学校は原発から30キロ圏外の中学校に仮説校舎を建て、バスで行き来している状態だ。ここはあくまで「屋内退避」区域であり、避難準備の状態だ。生活することが推奨されていない地域。そんな中で、学校の校庭に汚染土を埋めるということは、どのような意味をもつのか。
もちろん再開は見送ると思うところだが、ここにきて、なんと再開する動きだ。
街全体がとても焦っている。
「急いで復興してますよ」
と、大声て叫んでいるような必死さ。
市内にある各工場にも再開の要請をしているとのこと。
銭湯で人となりの雑談が自分の耳にも入ってくる。市役所がどう動いているのか、人の噂話を繋ぎあわせると、どうやらこの街に人をどうにか戻そうとしているようだ。
気持ちはよくわかる。震災がなくてもゆっくりと人口は減っていくであろう地域だ。地方の過疎化が進んだお年寄りの街である。震災があって、さらに人口が減っていくのに危機感を覚えたのであろう。
しかし、本当は順番が違う。
人を戻すように呼び掛けるよりも先に
戻っても安全な環境を整備することが、地方公共団体の責任であろう。それらを同時に進めることなんてあり得ない。
どんな憤りも街の雑多にかき消されるほどの混乱が、震災の異常さを象徴している。
誰もが「安全」「安心」を復興の引き換えにして、袖の下に隠した。それが大きなしっぺ返しになることを彼らはまだ分かってはいない。
子供の放射線バッジとホールボディ検査が始まっている。いったいどんな結果が出るのであろうか。親は不安で一杯であろう。もちろんその結果が真実である保証はどこにもないのだが。
7/1~30 (48)
七月某日
僕は前職場に来ていた。仲間の様子を見に、足が何となく向いたのだ。ほとんどの職員は辞めていて、そこには昔からのスタッフが1人、理事長の身内スタッフが2人、そして理事長がいた。
「おう!どうした?」
驚きにも似た喜びの声だけが、館内に響いた。
避難のことやその後帰還したこと。避難中の出来事をスタッフと語り合った。あれだけ人間関係がぎくしゃくしたところだったのに、不思議と話が弾んだ。
親戚の所を渡りあるいて、結局は帰ってこなければならなかったという事実。避難所で苦労してここに帰ってきたという事実。
みんな苦労したんだ……。
自分もどんな避難をしてきたか、事務所で話した。すると、スタッフが偶然席を外した。
自分にお茶をいれるために給湯室に向かったスタッフ……。
事務所には理事長と自分の二人きりになった。
おもむろに自分の向かいの席に60代の理事長ババァが腰を下ろした。
「お前が鍵を市役所に返して避難したとき、『○○さん(←理事長)は指定管理を自らやめたらしいぞ』って、噂がたってさ。少し大変だったよ。お前の給料の一部はさ、市の指定管理料から出ているのだから、公務員みたいなものだ。だからその辺をね……」
とっさに切り返す。
「だからなんです?理事長は避難しないでここにいたっていうんですか?新潟にバスで避難したそうじゃないですか。市役所の職員だって、日に日に少なくなっていったことはご存じでしたよね。あの状況下で今でも自分の判断は間違っていたとは思っていません。ましてはあなたに言われたくありませんね。あなたの息子夫婦は愛知にすぐ避難しましたよね」
関をきったかのように言葉が飛び出した。
「わかった……わかった。そう思っただけなのよ」
慌てて諌める理事長。よほど知られたくない部分を自分が知っているからであろうか。ヒステリックにはならず、自分を宥める。
席を立って、
「用事あるんで帰ります」
その場を早く立ち去りたかった。
玄関に向かうと理事長の妹が車のトランクにオイルヒーターなどこの街に集められた支援物資がこの貸し館には保管されている。その荷物を運んでいる……。
「えっ……」
お互い目があった。まるで見られてはいけないものを見られたような気まずさ。
変な空気がその場を包み込む……
「いや、違うのよ。避難してる親戚に持っていってあげるの。市の許可はとってるわよ」
仮にそうだとしても大問題だ。ここにある支援物資は時間を決めて、市民に平等に配られるもの。それに手をつけていいはずがない。
少しの静寂の後、僕はゆっくりと目線をはずした。
僕は何も言わず、その場を立ち去った。
まるで汚物を見るかのような、蔑む視線でその光景を見ていた。
8/1~15(49)
東京電力の仮払いから、僕らの街が3つに分断されていた。
A地域→原発から20km圏内。居住制限区域。
B地域→原発から20~30km圏内。旧屋内退避区域 。
避難準備区域。
C地域→原発から30km圏外。AB地域の小中学校は
この地域で仮校舎や合同校舎で再開。
この分裂がより顕著になったのは、義援金の配布のときだ。原則30km圏内居住の住民に約34万円給付される。つまり同じ市内のC地域には同市内でありながら、全く支払われないのだ。これにはC地域の住民たちが声をあげた。
不平等だ!
こっちだって避難しているんだ!
同じ市民なのにどうして支払われないんだ!
その怒りがAB地域の住民に対しての嫉妬や妬み、怒りとなって様々なトラブルの原因となった。
実際に耳にしたのは、C地域の仮設住宅に住んでいたA地域の住民が、C地域の住民に、
「なんだ!えらそうに!ここに住まわしてやってるのに!」
呆れた。お前の土地か?
実際にそう発言したC地域の住民が声高らかに銭湯で話していた。人の気持ちも混沌として、鬱蒼とした閉塞感が重く私たちの日常にのし掛かっていた。
ズシリ……
重い空気が空を覆って、私たちの醜態を空から隠してくれればいいのだけれど……。
そんないがみ合いが方々で起こっていた。
そんな中、ある市議会議員が妙案を出した。AB地域の義援金から少しずつ天引きして、C地域の義援金にしようとの案だ。
この案に対して今度はAB 地域の住民やそこ出身の議員が怒り出した。
「なぜ全額もらえないんだ!」
「他地域だって、原発からの距離で給付されているんだ!」
「そんな例外は受け入れられない!」
もういいじゃないか。34万円が30万円になろうとも、この市民同士がいがみ合うこの状況がなくなるなら、減額されようがそれはそれで構わない……正直な自分の気持ちだった。
「そんなことこの市内で言ったら、トラブルのもとになるから絶対に言っちゃダメだよ。」
前の職場の同僚とご飯を食べて、そんな話をしたらそう注意された。それほどまでに同じ市内に住む人々の心は離れていたのだろう。
結局のところ、最終的結論は……
AB地域の義援金と同額を市の財布から出して、C地域の住民の義援金にするというものであった。
しかし、その出費で市の予算のほとんどがなくなってしまうという危険な状態になったことは言うまでもない。
こんな危険な状態にしてしまった民意って本当に正しいのだろうか。
「みんなもっと冷静になろうよ!」
大声で叫びたかった。ただ大声で。みんなに届いてほしかった。
でも、そのときはただ虚しく夏空が突き抜けるような青のもと、ちっぽけな自分の無力さだけが、暗がりの気持ちを一層黒く塗りつぶした。
夏は隆盛を極め、お盆を迎えようとしている。こんな醜態を晒す僕たちのもとへ本当にご先祖さんは帰ってきてくれるのだろうか?
今年の夏は暑さとは対照的に、人の心にすきま風が吹く、淋しく虚しい底冷えのする世知辛いものとなりそうだ。
僕らは人間の本性を見たのだろうか。
物凄い荒んだ荒野に僕らはポツポツと点在しているだけで、僕らの繋がりなんて、何もない。
そこには手前勝手な利己主義だけがギラギラと眩い星のごとく、この街を彩っている。
僕はそこにただ立ちすくむしかなかったのである。
8/16~30(50)
震災があって初めての盆は人の欲がむき出しになった状態で、突風の如く過ぎ去っていった。それぞれの思惑が互いに角を突き合わせ、互いが闘争状態に。
ホップズの世界観がそのまま福島に現れたような……とにかく小売店は売り上げ好調らしい。
ただ、従業員不足らしく、24時間営業ではないコンビニが目立つ。確かに震災後、電力に対する節約が多くの市民権を得ていた。
真夏の救急車は毎日、町中を駆け回り、仮設住宅へと次々に吸い込まれていった。
苛烈な太陽が被災した街を照らす。同じくギラギラした欲望が隠れもせず至るところに見える。
なんとも浅ましくもさもしい光景だろう。僕は半歩後ろに下がって、冷ややかな目で見ている。
高圧洗浄機で学校の除染が始まった。20キロ~30キロ圏内での学校再開が確定らしい。二学期から本校舎に戻る。察するに多くの議論と反対があったのだろう。除染しているところに数台のカメラや記者らしい人が数人、黙ったまま様子を見ている。
またこれが記事になる。そして多くの物議を呼ぶのだろう。数日後の未来が手に取るようにわかった。
今は30キロ圏外の学校にいくつもの学校の生徒が集まっている。朝になると何台ものバスが生徒を乗せて、一つの学校に向かう。
一時的な集団疎開……
戦時中のような光景のように思えてならなかった、戦争を体験したことはないのだが。
学校にいるときだけ30キロ圏外に向かおうが、授業が終われば、またこの区域に戻ってくる。こんなことで、いったいどれだけの被爆が避けられるのだろう。はっきり言ってあまり意味がないように思われる。いっそのこと区域外に家族ごと引っ越した方がよっぽど安全だと思う。
「安全だ」とは言いながら、学校関係は30キロ圏外。いったい何が安全なのか。実際に起こっていることと、話している内容がまったくリンクしない。
つじつまが合わないことだらけ。
そんな不安をつかの間の好景気が蓋をした。
とにかく浮き足だった活気がこの街の不安に重くのしかかり、大切な何かを僕らから遠ざけている。
それは薄々とではあるが、確かに気づいていた。
すると、何処からともなく……
「東京電力仮払いからも市県民税をとる。」
との噂が周りからあがってきた。これにはさすがに……。
しかし、仮払いや義援金が給付された際に真っ先に生活保護を打ち切ったこの街ならありえる……。
少し真実を確認したくなり、電話をとった。しかし、なかなか市役所に繋がらない。多方面から多くの電話を受けているのだろう。
…………とにかく今は何をしなければならないのかを理解しなければ。
颯爽とマスクをつけ、僕はまたこの街の中にまぎれていった。
半袖とジーンズ。そしてマスクの組み合わせがどこかこの街の異常さを写し出していた。
9/1~9/30(51)
猛暑は9月になっても変わることなく、相変わらずジリジリと僕らを照らし続けた。それはエアコンの室外機と放射性物質の飛散の問題を考えられなくするには十分の酷暑であった。何も考えることなく、エアコンの前に陣取り、アパートの中で、僕は洗濯物の室内干しをしている。
外は危険であることは分かっていた。テレビでは何も言わなくなっていったが、ホールボディ検査や線量計、ガラスバッジの携帯など、放射線関連の現状は刻一刻と変化していったのである。
10月に20キロ以上30キロ以内の学校が再開する……
今まで30キロ圏外の学校に仮設校舎を建てたり、間借りしたりしていた数校が本校舎での授業を再開することになった。
そう校庭には何十ものトンバッグが埋まったままで……。
何かがおかしい。とても急いでいるように見える……。
翌日の新聞の見出しには
「本校舎での学校再開」
デカデカとゴシック体の文字が並んだ。
まるで復興が完了したかのような印象……。
これをねらったのか?
「もうなんでもないですよ。」
「もう大丈夫なんですよ。」
そんな言葉を植え付けたいのだろう。
市長でなくても知っている。僕らも心のどこかでは分かっているんだ。あの震災のとき、放射能の情報のため、物資がまるで入ってこなかった事実を。
支援物資を待っていたあの夜を自分も忘れていない。あの無愛想なトレーラーのドライバー。日に日に少なくなっていった食事。
ガソリン不足
食料不足
何もかもが尽きていった。
そして何より……情報不足だった。
漠然とした不安が恐怖を生んだ。目に見えない恐怖が福島を「フクシマ」に変えたのだ。
いかに周りへの印象が重要か、痛いくらい分かっていた。ただ、これはどうなのだろう。実際に放射線量は高いにもかかわらず、急ぎ足での除染作業とその告知。あまりにも時期尚早のような気がしてならない。
ただでさえ、外出するときはマスクをすることが推奨されている地域で、学校を戻すということは大きいリスクにならないだろうか。いや、きっとこれは禍根になる行為であろう。後々の事を考えればもう少し地表面を削らないとダメだ。
いや、もう放射性物質が飛散してから幾度もの雨が降った。深くまで染み込んでいっただろう。
関係者の中には逆にアスファルトで上から固めた方が早いという人まで現れていた。
いずれにせよ、放射線量がまだ高いままで、マスクなしには生活できないこの街に学校を戻すべきではない。
みんな本音ではわかっているんだろう。
テレビでは「放射性物質を恐れて考えすぎてしまうことの方がよっぽど身体に悪い」なんて、コメンテーターが言うものだから、一層疑念が高まった。何かを隠そうとしていることは誰の目にも明らかである。
とある中学校の校長室で市の教育委員と校長の打ち合わせが行われた時のことである。
玄関で女子中学生数人と教育委員の老人が挨拶を交わした。
「放射能のことなんて考えないでね。元気に遊んでた方がいいよ」
一人の老婆がそう笑顔で声をかけた。幾重にも嘘が重ねられていて、もう声がでなかった。この話を聞いて怒りすら感じた。その教育委員の孫は他県に避難している。本当に罪深いことだ。
本当のことはみんな知っている。
でも、それを他人には教えようとは思わない。巷に流れている耳障りのよい言葉だけが町中を飛び回っている。
まさに流言蜚語。
もうこの街はまともな大人さえいないのかもしれない。いや、何をもってまともというのだろう。本当は自分もそうなっているのかもしれない。あの老婆の言葉。
メッキで塗られたキラキラ。
ギラギラとした欲深の剥き出しに僕らは目を凝らして、ただただ見ているしかなかった。
東京電力の社長が今日もカメラの前で何かを話している。
何もかも空虚だった。
10/1~15 (52)
10月になってもどこか蒸し暑いまま。秋はどこへいってしまったのだろう。朝晩のそよ風に少し冷たきもの感じるくらいしか、季節の移り変わりを感じることができないとは。
震災があって、季節の移り変わりなど心に留めることもなかったが、少し落ち着いてくると、どうも気になってしまう。いつもながら人間の気持ちとは気まぐれなものだ。
しかし、10月になれば何か変わると思っていた自分も少し甘かったらしい。気温もあまり変わらぬまま、この街の浮き足だった空気は未だに変わらない。
原発から数キロ離れたところでは未だに乗り捨てられた車がそのままだそうだ。20キロの地点には検問所が設けられ、立ち入りが規制されている。
この区域内に入るのは除染や解体、建設を請け負う業者と警察、あとは一時立ち入りの住民だけである。朝夕の混雑は相変わらず。
行き帰りの国道沿いにあるコンビニのごみ箱がとんでもないことになっている。溢れださんばかりのゴミの量。
きっと彼らが捨てていくのだろう。それでもとんでもない売り上げらしく、店もゴミ箱を撤去したり店内にいれたりするそぶりは見せず、ただ数時間ごとに溢れかえるゴミ箱を無言で交換するだけであった。何も変わらない毎日が無情に流れていく。
ところが、復興を印象づけるために市が行ったことはあまりにも印象的だった。
「マラソン大会」
世間に復興を印象づけるためだという。愕然とした。
……何を考えているのか。まだ通学路を辛うじて除染しただけで、マスク姿が当たり前のこの街で……。
広報活動は入念にしているようだ。
中学生代表の挨拶があった。自分はその生徒をよく知っている。その生徒に後日詳しく聞いた。
「校長室にいきなり呼ばれて、参加してってお願いされたんですよ。あまり乗り気ではなかったのですが……やはり線量のこともあるし、でも断りきれなくて……。」
しかし驚愕したのは「承諾書?同意書?」なるものだった。参加する人には必ず書かせるものだったが……
文面には何とも言い難く、人の所業とは思えない文字面が並ぶ。
要するに「健康面の責任は負わない(自己責任)。放射線量はマラソンコースでは○○です。健康には問題ありません。」
なんたる責任逃れ。こんなことにリスクマネジメントするくらいなら、はじめから開催しなければ良い。それだけのことである。
しかも実行委員会は何故か地元の住所ではない。
きっとものすごく高次元で政治的な何かが動いているのだろう。お金もうけか何かは分からないが、ひとつの世論誘導ではないかと推察できる。
子供をダシにプロパガンダでもばらまきたいのか?きっとそうだ。いよいよ人の中には鬼がいることを信じねばなるまい。自分の感覚では人外の者の所業としか思えない。
マラソン大会は大いに盛り上がるはずだ。各中学校では参加を呼び掛けている。これはもうどうしようもない。体育の先生はどんな気持ちだろう。生徒を参加させることに罪悪感の一つでも湧かないのだろうか。隠された危険と隣り合わせなのに。
しかし僕らは何も話せなかった。
隠された何かを伝えられてはいないから。
真実はまだ僕らの近くの闇の中にある。
10/16~11/15(53)
マラソン大会はマスコミも含め、多くの人で賑わった。未だにシャッターを閉めている店がたくさんあり、公園、学校で空間線量計が設置されているにも関わらず多くの人々が笑顔で汗を流したのである。勿論、心の中はどうなっているのかは知らないままに。
本当は安全じゃないことも、復興していないことも皆知っているんだ。ただ、震災前の賑わいが仮初めに始まったことに喜んでいるにすぎない。放射性物質が飛散してまだ一年も経過していないのに、この所業は人外のものと憤慨している老人もいた。様々な思惑が交錯しながら、震災後初のマラソン大会は大成功で幕を下ろした。
そして、その次の日からまたマスク姿が常態化した毎日が何事もなく続いていく。
何て悲劇的なことだろう。
何重にも重なりあった思惑がこのマラソン大会には敷き詰められていた。
復興の象徴としての思惑。
放射線量が低くなっていることをアピールする狙い。
そして、企業誘致、再開のアピール。
勝手にしたらいい……ただその道化師に子供を使っていることに憤りを感じるくらいだ。しかもその後のリスクマネジメントもしっかりとしていることに計算され尽くした悪どさが馬脚を表す。
「マラソン大会に参加する上での同意書」
万が一放射線のトラブルがあるかもしれないということは主催でもわかっているのだ。理解した上で、責任を逃れようとする狡猾な作戦。
本当に血の通っている人間とは思えない所業だった。
これからこのイベントは毎年行われることだろう。その度にこの事を忘れないよう心に刻んでおこう。これは禍根になる……。確信にも似た予感が全身を駆け巡った。
秋風は寒さと放射性物質を山から運んでくる。
枯れ葉は放射線量が高い。
山の除染はしていないから、勿論、山の土壌も高い。それが吹き下ろしの冷たい風となって僕らの街に吹きつける。よって、また町中の線量が上がる。結局のところ鼬ごっこだ。
除染は一回では終わらない。月日がたてば、また高くなる。そうやってずっとセシウムやストロンチウムとの戦いは続いていくのだ。
山の除染もやらないと、この問題は解決しないだろう。しかし、山にはもっと深刻な問題が隠されていた。
地下水の汚染である。
不思議とこの問題はテレビやメディアでは触れられることは滅多にない。いや、本当は問題にすべきなのだが、何処からか圧力がかかっているのだろうか。誰もが蓋をするようにこの問題には触れようとはしない。
僕たちの考えすぎなのだろうか。
しかし、この問題は何年先までも引きずることになるであろう事案だ。
臭いものには蓋……
きっと予感は当たっている。
11/16~12/31(54)
冬の到来は突然。
急激に寒くなり、朝焼けの街にはうっすらと霜が毛布のようにかかった。山から吹き下ろす木枯らしは恐らく放射性物質を巻き上げ、せっかくの除染をまた一からに戻してしまう。毎朝、原発と規制がかかった区域へと向かう車の群れはこの街の日常となった。暗いうちから颯爽と作業車両が飛び出していく。
ホテルから、仮宿舎から、旅館から、アパートから。
市のホームページを見ると、住人の数が毎日アップデートされていた。確実に減っている。市外に転居したり、福島から出ていったり、事情は様々だろうが、確かに毎日少しずつこの街から出ていっている。
そうか、いや、そうだろうな。さもありなん。
自分も経済的に余裕があればそうしているだろう。ただ今はここに仕事がある以上、新しい生活の場を模索なんてできない。結局のところ、ここに留まるしかない。
とても複雑な気持ちである。東京から帰ってきたあの日、自分は「死ぬなら地元で死にたい」という悲壮な覚悟で帰ってきたつもりだった。だが、今は違う。この変わり果てた街に見切りをつけたいという気持ちで心は埋め尽くされていた。
毎日の見慣れた光景も震災前なら想像もしなかったような映像で、自分達の脳裏に焼き付いた。
東京電力からの仮払金や賠償金、義援金にどっぷりと使ってしまった人々は果たしてこの生活から抜け出せるのだろうか。おそらくは無理であろう。狂ってしまった金銭感覚と失った労働意欲はなかなか戻らない。
パチンコ屋の満車の駐車場がそれを物語っている。
11月も終わりに差し掛かり、仮設住宅のすきま風が冷たいと方々から聞かれるようになった。ホームセンターでパテを買って埋めたり、遮蔽物を置いて凌いだり、工夫をして仮設住宅の生活を遣り繰りしているのはほとんどが老人だ。
若い人たちはもうどこかに消えた。余力のある人はこの街を捨てたのだろう。
外灯が整然と並んだ仮設住宅を寂しく煌々と照らしている。夜になればパトカーの巡回と青パトの住民パトロールが町中を走っている。深夜買い物にでも行こうものなら、職務質問やら所持品検査やらで時間を食われる。
そうここはそれほどまでに治安が悪いのだ。
若い人が出ていくのには十分すぎる理由だろう。
冬を迎えるこんな晩秋に遅れていた住民税の納付書が届いた。
「しっかりととるのね」
遅延するなら連絡くださいとのプリントも同封されている。仕方なしに払うのだろうが、免除されている地区もあると考えると、不謹慎であるが「いいなぁ」と思ってしまう。財布の紐が緩みっぱなしの自分が言うことではないのだが。
結果的に
「震災が自分の懐事情を楽にした」
そんな被災者がその中にはごまんとできたのだろう。自分もそうなのかもしれない。
ふと、自分の心の真ん中に針が刺さったかのような痛みが辛かった。
一括で住民税を支払うと、今後の生活が少し不安になった。毎日の仕事がいつまで続くのか、そして次の仕事があるのかどうか。事実、震災から再開した店と廃業した店は明らかに後者の方が多かった。もちろん閉めてるだけで、営業保証をもらっている店もたくさん、たくさんあるのだけれど。
12/31(55)
年の瀬が押し迫り、激動の2011年が終わりを迎える。街中を行き交う人も疎ら。仮設住宅には煌々と明かりが灯っている。除染等復興関連会社の仮設宿舎はポツリ、ポツリと明かりが灯る。きっと帰る場所がない人たちなんだろうと、ほんの少しだけ哀れみの気持ちが湧き、自分の中が楽になった。刺々しかった地元民と作業員の間にもほんの少しだけ理解の心が芽生えたのだろうか?この時期になって喧嘩等トラブルの話はなりをひそめた。
結局のところ、先行きが不透明なままなのは自分達地元民だけではなく、出稼ぎで来ている彼らもおなじなのだ。いつ切られるとも分からない仕事。高線量を浴びて、線量管理バッチの警報がなれば、累積線量オーバーで今の仕事は続けられない。一定期間の休みが言い渡される。それも数ヵ月から半時の間だ。それはそれは長い間なんの保証もない生活が続く。中には線量計を鉛でぐるぐる巻きにし、作業に臨む作業員もいた。もちろん、それはニュースになっていたのだが。
原発構内で働いていれば当然高線量を浴びる。そのなかでの作業は苛烈を極めているのだろう。
政治上、原発は冷温停止状態のはずだが……なぜかニュースはいつも原発の状態を日夜伝えている。どんどん放送枠は小さくなり、人々の頭の中からは原発事故なんて遠い過去の話になりつつあるのだろうが、福島県では今も続いている災難。情報はどんどん人々の頭からアップデートされ、圧縮され、そして、デリートされていく。東京ではもはや福島の原発事故なんて遠い異国の地の昔の出来事のように思っているところだろう。
福島県が日本から解離しつつあるのか?操作された情報が生んだ地域間の隔絶とても言うべきだろうか。僕らの街を含めたこの県では未だに東日本大震災が継続していた。水道の水はもはや洗濯にしか使わない。飲み水はミネラルウォーターで済ませ、蛇口を捻る度に透明の水が流れるが、その成分まで僕らは見通すことができない。目に見えない不安がそこらじゅうにあった。
確信のない不安は杞憂のはずだが、至るところにある黒いトンバッグの中には汚染土や瓦礫がぎっしりとつまっている。その光景を見ると、確信のない漠然とした不安が、しっかりと心の中に根をはったのである。
このトンバッグは「中間貯蔵施設」に送られる。もちろん「中間」なので、最終処分施設ではない。数年以内にここからまた移動する。次の行き先は決まっていない。
そのうち「中間」が「最終」に変わるだけで、場所は変わらないのでは?
誰もがそんな予感をしている。おそらくそれは確信にも似た強い予感だ。きっと当たる。
それほどまでにこの国のやることは予想できてしまう。原発事故の責任はいったい誰に?
それもきっと誰もとらないだろう。責任者がいない原子力発電所を福島県は受け入れてしまったのだ。今になってそれがわかった。やり場のない怒りが乱反射していろんなものにぶつかり合い、それがトラブルを生む。作業員にとっては割りの良い仕事にありついたのかもしれないが、その事が地元民との間にいさかいを引き起こした。
地元民から作業員を見ると
「原発事故で金儲けしている奴ら」
作業員から地元民を見ると
「原発事故で国から税金で保護されている奴ら」
お互いが羨望を含んだ軽蔑の視線で見つめあっている。
しかし、それは作業員と地元民に限ったことではない。原発からの距離で大きく賠償内容が異なるため、30キロ圏内と圏外の住民同士も蟠りを抱えていた。それはやはりお金の面でのことがほとんどだった。
「同じ市内なのに何でオメーらは金が貰えてんだよ」
分断は始まったのである。
【2012/1/1】(56)
元旦
あれから 1 年が過ぎようとしている。見渡す限りの水平線が広がっている。東側を高台から見渡すと、何の障害物もないだだっ広い荒れ地が広がって、海が線上に地球という球体をなぞっている。何とも壮大な景色だが、見晴らしの良さは壮絶な災害の爪痕を色濃く残している証拠だった。
雪がちらつく夕暮れ。
チカチカと仮設住宅に明かりがともる。やがて辺りは暗くなり、仮設住宅を彩る明かりは輝きを増した。運良く仕事にありついた僕は不幸の景色をただ何時間も眺めていた。そして、ふと我に返るともう真夜中。警察の巡回もそろそろやってくるだろう。職務質問は別に構わないが、色々詮索されるのは煩わしいから、さっさと帰ろう。
コンビニエンスストアもなかなか 24 時間営業に戻さない。従業員不足が原因だそうだ。どこでも同じなんだな。
数え切れないほどの人間がこの地区から失われた。亡くなった人、引
っ越しした人、行方不明になった人。
ほんの数年前までは何事もない毎日だった。今では全国各地から復興に携わる人々が入ってくる。作業員の仮設宿舎がそこら中に建っている。アパートの建設も始まった。今は入居困難な貸家がたくさんあるらしい。地価は少し上がったそうだ。
でも防波堤はまだできていない。いや、もう後の祭りだ。今後しばらくこのレベルの地震は来ない。津波の心配もしばらくはないだろう。海沿いに車を走らせてみると、そこはまだ整地されていない荒れ地やがれきの山だった。電信柱が所々傾いている。とりあえずの臨時電信柱が真新しく打ち込まれている。細い柱で耐久性に乏しいようだ。しかし、浜沿いの復興事務所に電気を運ぶ大切な役割。
自分が想像しているよりも遙かに復興の速度は鈍かった。
それはなぜか。
① 誰もが想像していたよりも深い震災の傷跡が各地に残っていたから。
② 放射線量の関係で復興作業員として働く人材がいない。
③ 予算がない。
④ 復興させる気がない。
自分で 4 つの仮説を立ててみた。①は事実だろう。津波を被ってしまった地域は煙害の関係で宅地許可が降りず、また田畑を作れない。何十メートルに及んだ津波は土壌もだめにしたのだ。しばらくは更地のままだろう。
②人材不足なのは他の業種もそうだろう。しかし復興関係の仕事に関しては少し違う。数ヶ月見てきて、除染作業員や出稼ぎ労働者の無法ぶり
は目に余る。コンビニで怒声をあげ、ゴミ箱には溢れんばかりの家庭ゴミ。そして素行の悪さも際立っていた。何件もの声かけ事案や未成年に対する暴行や連れ込み未遂が横行していた。この街でももちろんそうだ。なぜか全国紙では報道されない。されたとしても 1 件のみで、ほんの小さい枠でしか取り扱われない。
なぜだろう。
作業員の悪評が広まれば、今まで以上に人材確保が難しくなるから?
復興のスピードが遅くなるから?
作業員の宿舎として使われているビジネスホテルからの圧力?
もしそんな理由であれば、もう復興なんてしなくていい。地元の数少ない働き手によって何十年もかけて復興した方が地域のためになるのではないだろうか。自分は強くそう思っていた。
③はどうだろう。自分たちからも震災復興に充てる税金を加算しておきながら、それはないだろう。
そして、今一番自分が信じているのは④である。もう既に復興させる気がないのだ。引っ越した人間はもうここには帰ってこない。そう考えている人がたくさんいるのではないだろうか。更地になった場所に何を作るっていうんだ。家?そもそも原発事故現場と隣り合わせのこの街に誰が好んで住むというんだ。更地は更地のまま、何十年と残るのだろう。田畑にするにしても放射能汚染の不安が残る地域の野菜を誰が買うのか。まさに『死の街』を見越してダラダラ復興しているふりをしているのではないだろうか。
震災から 9 ヶ月経った自分の心に飛来するものは④のような絶望的な未来予想図だった。
この街は仮死状態で税金という生命維持装置につながれた瀕死の状態だという見立てはおそらく当たっている。屈折した思いは皮肉にも現実を言い当てている確信があった。
【2012/3/11】(57)
3月11日
午後に黙祷のサイレンと町内放送がなる。テレビ新聞は『震災から1年』の特集ばかりだ。海辺は整地された野原がただ広がるだけ。瓦礫の山がそこら中に集められ、小高い丘をなしている。冷たい海風が頬に当たり、ひりひりとする冷たさと感じる。テレビカメラやら、報道陣やら、祈りを捧げる人やら、荒野の大地にどっと人だかりができた。
おそらく海をただ眺める人の中には、未だに行方不明の方の身内もいることだろう。絶望的な現実にただただ呆然と立ち尽くすしかない人もいることだろう。
自分はこっそりと夕闇迫る夕暮れにそっと浜辺を訪れていた。防風林は全てなぎ倒され、マンホールはひょこんと飛び出している。もともと水田だったかどうか分からないくらい草木が生い茂り、枯れ木の荒れ地となっているところもある。
3月11日に自分は何をしているのか。それは単にノスタルジアに浸るわけでもなく、悲しみに暮れるわけでもない。むしろもっと個人的な野心のためにきたのだ。
「これから自分はどう生きるべきか?」
「何をすべきか?」
考えれば、考えるほど頭が痛くなるのと、自分の立場というものがあまりにも災害に近すぎて、実感が湧かないのだ。しかし、被災したあの一年前。東京に逃げたあの日から「どんなにしたたかでも絶対に生き残ってやる」という気構えは心の奥底にしっかりと根付いていた。
除染関係の仕事をするか?
給料は高いがいつまで続く仕事なのか分からない。コンビニでの彼らの素行を見る限り、同類と思われたくないし、そもそも自分は彼らを心の底から軽蔑している。
解体や建設・土方の仕事をするか?
同じよう復興関係の出稼ぎはマナーが悪いのでこれも却下。お金の善し悪しではなく、どれだけ自分を高められるかが仕事の条件だろう。
他の仕事を探すか?
それもいいだろうが、まずは福島に残るか、福島から出るかを決めなければならないのが厄介だ。東京電力の賠償が仮払いを含め、まだ見通しがつかない。住民票を移すことが必ずしも得策ではないので、自分は足枷で福島につながれている状態をどうにもできない。
海を眺めて考えても、答えの出ない問題を抱えているだけだった。お金の面で考えれば、まだ「福島の被災者」という看板を下ろすことはできない。
なんだ・・・・・・結局は自分がお金にしがみついているだけなのか。
福島につながれているのはそこにお金がつながれているから。本当に狡猾に立ち回らないと、後々後悔することになりかねない。
本当に自分の性根が嫌になる。どんなに公明正大なことをいっても心の中は金銭面での不安が多くを占めているのだ。それはどんなことになっても狡猾に生き残ろうと決心した震災数日後の自分が心に焼き付けた印だった。
来年もこの土地に残ろうか。
後ろ向きではあるが、現実的な選択をせざるを得ない自分がそこにただ立ち尽くしていた。
お金と理想、そして望むべき未来の姿。
どのボタンの掛け違いも窮地を招く致命傷になりかねない。
綱渡りの被災地生活は慎重に、そして心はいつでも想定外を想定しておかなくてはならない緊張感の中、震災一年目は濃密な時間とともに過ぎていった。
【2012/4/1~】(58)
2012年4月
震災から1年が経過し、待ちはある程度落ち着きを見せ始めていた。仮設住宅も広い敷地にどかっと建ち並び、ホテルはどこも満室。会社ごと宿舎にしているそうだ。勿論、復興関連の会社である。2階建ての縦長仮設宿舎は会社やJV複合企業体で建設しているようで、そこも宿舎になっている。アパート等、民間の住宅も建設ラッシュだ。しかし、建設中の段階で既に入居者は埋まっているようである。どのアパートも一杯で新規の入居者を募集しているところはない。しかも家賃が跳ね上がっているようだ。
60,000円以上の賃貸物件があちこちに建てられた。
聞くところによると、国や県から補助が受けられる上限の金額を大家が設定するそうだ。「現在避難している家族には家賃の○○分が補助として給付される」
ニュースでやっていたその上限近くがここの家賃相場になっている。震災前はもっと安かったのに。自分は震災前から同じアパートに住んでいたため、据え置きの家賃になっていた。その点では被災したときに借りたままでしておいて本当に良かったと感じた。
バブルか何か好景気にでもなったかのような家賃の跳ね上がり方に度肝を抜かれながらも本当の好景気ではないことは誰しもが分かっていた。ただ単に国からの補助にのっかっているだけだと。しかし、そうなると避難関係の人しかこの辺のアパートを借りられなくなってしまう。一般の引っ越ししたい人はこの地元から離れないといけないのだ。ここは不便にもかかわらず、需要が大きいから家賃などの物価はどんどん上がる。まさに青天井である。
また、一般に借り手がいなくても作業員や復興関連で何かしらの業者は借りてくれる。大家にとっては引く手あまたなのだ。こんな状況がいつまでも続いていいわけがない。本当にここで暮らしたい人が追い出される状況なのだ。市内で引っ越ししたくても出来る状態ではない。しかも東京電力の仮払金が足枷となり、住所変更できないでいる人たちも大勢いる。
今後の補償がはっきりしないから、住所を移せないのだ。震災直後の住所のまま縛り付けられている気分だ。
ただでさえ同心円の距離で補償がだいぶ違う。特に30キロ以上の地域や隣町では「補償はしません」という東電からの通知が来たらしい。いちいち避難にかかった費用を書かせておいて、びた一文払わないという姿勢は本当に加害者としての意識があるのか疑問だし、人間の感覚として生きているものと対応している感覚はなかった。しかし一方でどこまで補償するのかという指針が国から示されていない今、震災当初の状態を維持しておくことは居住実態の証明や生活の拠点がどこにあったかを記録するのには大切なことだ。そう、今では意識的に金銭が僕らの生活の話題の中心となりかけている。
なんとさもしい毎日だろうか。
東京電力のコールセンターでは何も話は進まない。
○の誰は△△まで補償された。
こっちではこう、あっちではそう。
そんな毎日にすっかり疲弊した僕はもはやこの街にこれからの何かを望む気はすでになくなっていた。
そんなとき、東京電力から最終になるであろう通知が来た。
【2012/5/1~】(59)
五月晴れの快晴。あからさまに天気は夏の装い。少し早く季節が過ぎ、次の季節が顔を覗かせている。蒸すような昼下がりの空。昼休みにふと見上げた空には例のごとくヘリが一機ぼんやりと飛んでいた。平和を絵に描いたような毎日が過ぎ去ろうとしていたある日。東京電力から角形2号の封筒が届いた。中身を急いで確認すると、「精神的苦痛による賠償・・・…仮払金で受け取れる金額は○○」同意書にサインをお願いします。」
簡単に言えば、そんな内容だった。
精神的苦痛による賠償と仮払金70万円で賠償請求が認められたものの差額分は○○円です。サインをすれば、精神的苦痛の賠償金と併せて支払うということであった。つまり幕引きということ。納得できなければ精神的苦痛の月○○円は支払われないまま。仮払金と賠償認定の差異について、仲裁委員会や裁判で争うことになる。一人暮らしの自分にそんな金銭的な余裕はない。少し図書館で考えたが、今後のことを考えると、サインをせざるを得ない状況だった。納得しているわけではない。しかし、法廷闘争になっても東京電力に勝てる見込みもない。おそらくは何十年もの戦いになるだろうし、それは原発事故の収束の期間と同じくらいの長い年月を費やさなければならないであろうことは目に見えるように分かった。しかも相手側は優秀な弁護士集団を雇っている。おそらくは負けないだろう。長く時間を費やしたからといって勝てる見込みのない戦いに臨むような勇気はなかった。
市内の図書館で考えた。本当に長い時間考えた。今までの苦労や震災の思い出。そして劇的な環境の変化。どれをとってももう震災前の状態は戻っては来ないだろう。
いつまでも震災にしがみついているなよ。
心の中で誰かが自分にそう言い聞かせた。その声の主は自分自身だったのかもしれない。震災をネタにして全てを悲劇のヒロインにすることはもうやめよう。何があっても「いや、あの震災の後だから・・・・・・仕方ないよ」とは言いたくないんだ。それは無理矢理何かを諦めているか、もしくは甘んじて震災の恩恵に与っているに他ならない。精神的苦痛の賠償金を仮払い金の差額の精算に当てたところで、数十万は手に入る。それを元手に何か新しいことをした方が良いのではないだろうか。
鞄から印鑑を出し、承諾書?確約書?誓約書?そんな紙に次々と押印していった。これからの異議申し立てはしない。ほぼ震災に関する同意書である。自分は震災経験を切り売りして、相手のマウントを取るような弱者を演じることはやめたのだ。
避難しているとき、伝聞で様々なことを聞いた。
「山形の避難所で福島の避難民が『こんな同じ飯食えるか!』って言っていた」
「飯坂温泉で避難民は毎日宴会している。タダなのをいいことに」
「スーパーの列に割り込んできたおばさんが『私は仮設住宅の住民よ、優先させなさい!』と怒鳴られた」
自分はそんな被災者と同じになりたくない。金のあるところ、補助のあるところの脛をかじって生きていたくはないのだ。仮にそれが間違った強がりであるにしてもだ。
どちらが社会的弱者なのか分からなくなってくる。自分たちは確かに原発事故の被害者だが、その避難に伴って受け入れてくれた地域の方々も多かれ少なかれ震災の被災者なのだ。どちらが社会的弱者なのかが問題なのではない。お互いに感謝の気持ちを持とうという小学校から脈々と教えられている道徳的観念が震災後多くの人は欠落してしまった。勿論自分の周りにもだ。
5月の大型連休を迎え、震災ボランティアは街中に散らばり、色んな場所で活動している。パチンコ屋は相変わらずの大繁盛。
何とも皮肉的な結果ではないか。
ボランティアは必死に泥をさらう。被災民はパチンコで金をさらわれる。
いかにも滑稽でブラックジョークにもならない現実が初夏の青空の下、僕らの眼前を覆っていた。
【2012/6/1~】(60)
本格的な梅雨だったと思う。じめじめした毎日が洗濯物泣かせ。今日も仕事に向かう。曇天の空からじわっと涙雨。
今日はAKBのなんとかって奴らが慰問に来るらしい。正直どうでもいい。復興に協力してますよアピールは自分にとっては本当にどうでもいいのだ。有名人が来て、被災者と触れあうのは元気付ける意味で大切かもしれない。でも、僕らにはもっと違う何かを求めている。
隠されているものは何なのか。
これから何を備えなければならないのか。
教えられていないこと。伝えられないこと。
山のように積み上げられた復興と反省はまだまだ高く積み上げるであろう。
全国各地から支援物資が届き、銭湯には所謂「伊達直人」が頻繁に現れ300人分の入浴料を寄付していく。そのお陰で自分はたまに無料で、銭湯に入れる。人の暖かさに涙しながら、復興の道のりは果てしなく遠い。
賠償金の話は相変わらず何処でも聞かれた。何かが違う。震災前と比べて、隠すことが美徳であったものが表にでてきたような感じ。
なまめかしい「お金のはなし」があちこちで展開される。近くのショッピングモールの一角を借りて、東京電力は【賠償相談センター】を開いた。たくさんの人が訪れ無機質なホワイトカラーの男数人が扉の前で仏頂面をしている。
そのテナントの隣では再開の見込みのない100均ショップがシャッターを閉めたまま佇んでいる。
どのくらいの店が再開したのだろう。60%くらいだろうか。相変わらず閉店のままの店もかなりある。いや、もう閉めているのだろう。
福島から避難している人は帰ってきているのだろうか?いや、転出しているのだろうか?その辺のこともよく分からない。相変わらず復興景気なのだろうが飲食店は作業員で溢れかえっている。
新規の飲食店が駅前にたくさんオープンした。そういえば飲み屋も増えた。作業員目当てなのだろう。パチンコ屋以外にも作業員を狙ったビジネスは多種にわたる。そのうち風俗店もできるだろう。
はぁ。風船のように膨らんだ景気はそのうち割れる。でも、原発事故の終息まで膨らんだ風船は揺れ続けるだろう。様々な問題に吹かれながら。
汚染水のタンクはまだまだこれからも作られる。タンクだらけになる大熊町は目に見えて絶望の真っ只中だ。そんな生々しい光景を近くに見据えながら、ここは空前の好景気。週末夜の騒ぎもちょっとした都会のようだ。
サインをした同意書に少し後悔しながらも、この街の暗い未来を考えずにはいられない。
そういえば今年は野馬追は開催するらしい。観光客目当てだろうが、復興アピールも兼ねている。
無理しなくてもいいのに……
6月の雨の中、背伸びしたこの街に同情しながらも、優しく「無理するな」と語りかけたくなるような気分だった。
震災後2度目の夏はもうそこまで来ている。僕はまだこの街に立ち尽くしたまま。
【2012/7/1~】(61)
今年の夏も茹だるように暑い。海水浴もない夏到来だ。線路は最早草の中に覆われている。
暫くは使われないことが間違いないが、一旦停止無視のネズミ取りは相変わらずやっている。警察もアコギなことをするものだ。廃線同然の踏切の一旦停止を見張ることに何の意味があるのだろう。
法令遵守?いや、被災者に対する嫌がらせにしか思われない。
「あー、また捕まっているよ」
車に乗りながら前方の不幸を可哀想に見つめる。どうせ、「あなたのためを思って、踏切でもし列車が来たらどうするの?」なんて言っているのだろうか。
逆に「その列車はいつ動くのですか」と聞いてみたい。
草に覆われた線路を踏み切り越し脇目に見る度、絶望的な気持ちになる。北も南も移動手段が道路だけ。仙台も東京も車、バスのみで移動が出来るちょうどそんなとき、常磐道の開通が急ピッチで進められていた。高速道路が開通すれば物資の輸送が格段に良くなる。産業系には心待ちにしている道路だろう。しかし、一般人の私からしてみれば、そんなことよりも、物資を気兼ねなく運べるように原発近くの放射線管理と除染、インフラと整備してもらっ
た方がいい。しかし、原発から 20 キロの所には各地に検問所が設けられ、許可証がない車両は入れない。未だにそれほど危険な土地なのだ。警察車両が物々しさを際立たせ、バリケード越しに各車両に身分確認書と通行証を確認する。そんな地域に線路を引いたところで原発の前はきっと通れないだろう。もしくは鉛のトンネルでも作るのか??
そういえば、東電から入金あったのかな。通帳を確認してみると、しっかりと振り込まれていた。来年までの月 10 万円の精神的苦痛の損害の賠償金。それと申請書で認められた賠償費用と仮払金の差額分をそれで相殺し、差額分が振り込まれていた。何とも情けない話である。そのお金がないと生活が成り立たないほど、生活は荒れていた。仕事も期間が決まっているもの。そして、決して景気がいいわけではないこの状況。復刻関連だけが潤い、それに伴う飲食業がその恩恵を得ている。それ以外のサービス業には震災前よりも一層つらい状況になっている。住民が戻ってきていない。そして、街中には見知らぬ流れ者ばかり、作業員や警備員は出稼ぎ労働者だ。昔のバブルの頃とはそのあたりが全く違っていた。
浮き足だった表面上の景気の良さが僕らの状況を包み隠す。復興に銘打った大規模な補正予算や増税は大手ゼネコンのポケットの中に消えていったのだろう。僕らは時限付きの安
心を与えられているに過ぎない。保険料、医療費の免除だって、年金の免除だってどれも 1年単位の安心を 年に 1 回与えられているのだ。そう、檻の中の動物に餌を与えるように。
どうやら原発近くの一部では海開きをするらしい。震災から 2 年足らずでそんなことを・・・・・・。復興アピールすると何かご褒美でも出るのか?そう勘ぐりたくなるような早さでそれはやってきた。テレビでは不安なコメントは一切出ず、ただ、楽しそうな若者の様子を映すだけ。そんなことだから、危機感も徐々に薄くなる。マスク姿が徐々に姿を消してい
ったのもこの時期だ。
電車の代わりに代替えバスが走り、その生活にも慣れてきた。作業員の需要を満たすほどたくさんのコンビニ計画が街に上がっているという。そこら中で復興とは関係のない建築工事が始まり、ローソン、セブンイレブンなどが新規でできはじめた。混雑が緩和されると思いきや、仮設の宿舎から無尽蔵にはき出される作業員はマイクロバスや各自家用車で莫大な量の労働力を運んでいる。とても今あるコンビニで賄いきれるわけはなかった。混雑は解消されるどころか、原発から遠く離れた場所から通勤する作業員にとってはコンビニの街になり、どの店も混雑するようになってしまった。知り合いから
「コンビニで働かないか」
と声がかかる。どこでも人手不足だそうだ。
はぁ、この街の混沌と世の中の移り変わりは見事なコントラストを装い、僕らを呑み込んでいった。
【2012/7/15~】(62)
僕は一人の少年に出会った。それは何のことない大人の繋がりから偶然知り合ったに過ぎないのだが……。物静かで痩せ型、13歳の中学校1年生だ。その子とはとある柔道スクールで出会った。彼は初心者で、受け身から始めていた。勿論、自分も少し教えたり、組手を教えたりしていたが、別に試合に出るとかそういう目標があったわけではない。
自分は暇な時間を埋めるため、そして、震災の爪痕を少しでも目にしたくない為でもある。また、これからの自分から目を背けたいといったネガティブな理由で柔道を始めたわけだが。
その少年は反応の薄い感情表現が苦手な子供だったように思えた。
というようなことがあったのは4月の出来事。
7月も中旬になり、その子とも雑談をすることが多くなった。ある日、震災のことが話題になって、自分は東京に避難したことなどを苦労話を盛ってはんした。できるだけ悲惨にならずに面白おかしく話したつもりだ。周りは和やかになった。その少年も笑っていた。
すると、その少年は話し始めた。震災の時に母親を亡くしたという。自分を屋根に逃がして波にのまれたという。壮絶な話だ。とても笑顔で聞けない。そこからは辺り一面海になり、そこら中にポツンポツンと一軒家の屋根だけが見えた。そこで彼ないったい何を考えたのだろう。太平洋のど真ん中に置き去りにされたような孤独感を数十分間味わった後、状況は一変する。
自分の家を含めて、浮かんだ瓦礫、そこらにある屋根もろとも海にひき始めたのである。引き潮で沖にもっていかれそうになったとき、
「そこから離れろ!!」
近くの屋根から大きな声が聞こえた。辺りの瓦礫が海に運ばれようとしているとき、彼は屋根から屋根へ飛び移り、海に運ばれて行かないように必死に足掻いた。跳びまわり、瓦礫に移ったり、他の屋根に飛び乗ったり、延々とその場所から海側に行かないよう、山側から流れてくるものに跳び乗り続けたのである。
結果、津波の一波は去り、彼は急いで保護された。
彼は父親と二人暮らし。すべてを失ったにもかかわらず、ここ数カ月で笑顔も戻った。こんな話を普通にできるぐらいまで、彼のこころは成長していた。聞くと涙なしには語れない壮絶な体験談なのだが、彼は淡々と話していた。その日は何事もなく過ぎていったが、その日から彼は柔道に熱心に取り組み、すっかり元気になっていった。思い出としての震災はどうしても悲劇的なものとなって、人によってはトラウマになって二度と立ち上がれないくらいに絶望に浸ってしまう。その点、彼は乗り越えた。これから彼は強く成長して自分の体験を後世に伝えてくれるはずだ。そんなことに思いをはせて、今日も彼と組み手をしようと思う。
震災から1年数カ月。そのときに小学生だった世代は中学校へと進学していく。誰しもが彼のように乗り越えられるとは限らない。もちろん心に深い傷跡を残したままの子どももいるだろう。この問題をどう解決していくのだろう。カウンセラーでも過去は変えられない。結局受け止められるまで僕ら大人は見守るしかないのだ。とても悲しいことだが、現実を受け止める準備ができるまで、この街を含めた被災地はじっと彼らを包んであげるような包接さをもっていること、今はこれだけしかできないだろう。
盛夏は昨年より盛大に。そして鎮魂を銘打ったイベントもそこら中に。
静かに見守ることも大切な鎮魂歌だということ。
【2012/7/20~】(63)
7月下旬になり、震災の鎮魂のため慰霊名目のイベントが開催されていた。注目度も高く、心なしか震災前よりも他県からのギャラリーが多く集まっているようだ。震災を機に原発近くの街として大々的にPRしていたため、全国からの注目も一入だ。皮肉な話である。悲劇的なあの出来事がきっかけで多くの注目を浴び、地元民のみぞ知るイベントが全国的に報じられる一大イベントとして成長したのだ。震災の初年度はさすがに開催されなかったが、今年は開催するらしい。街中に装飾が施され、震災前はいい加減であった駐車場の整備や送迎バスがきっちりと整えられた。集客が見込めれば、そこから多くのお金が入ってくる。市としては開催にこぎつけ、経済効果を狙っているのだろう。まぁ、震災の鎮魂を銘打っているだけあって、もう少し厳かにとは思っているのだが、どうもそうはいかないようである。どこでもどんちゃん騒ぎ、震災後減少した飲み屋は大繁盛で、人々の熱気も冷めやらぬ間にそのイベントは幕を閉じた。多くのマスコミが震災の復興シンボルとしてこのイベントを盛り上げた。そのお祭り騒ぎの陰で何千、何万にも及ぶ仮設住宅が街の至る所に立ち並ぶ。そのコントラストに悲哀以上の何かを感じざるを得なかった。
「素直に復興を喜べないなんてね」
批判的な目で異常な熱気を見るとこんな意見が返ってくる。
「復興再建→福幸再見」と漢字を変えたTシャツが印象に残る。この頃だっただろうか。こんな文字を街中で見かけるようになったのは。
みんな少しずつ新しい日常を歩み始めている。それは昔のあの日あのときを取り戻しているわけではない。震災後の毎日を日々アップデートして環境に適応する日常を少しずつ取り戻しているだけなのだ。
再建ではない。勿論「再見」でもない。新しい日常を「創建」しているのだ。マスク、洗濯物の部屋干し、そして水の持ち歩き。どれもが過去になかった情景。
そして、校庭の一角には地下に汚染土の袋が埋められている。これも新しい日常だろう。
そう、コロナの以前にも「新しい日常」「新たな生活様式」は作られていたのである。
お盆になり帰省ラッシュはない。静かな田舎の盆がゆっくりと過ぎる。灯籠が仮設住宅を彩り、先祖の御霊をお迎えしているのだ。ご先祖様もさぞびっくりするだろう。昨年よりは落ち着いたが、すきま風がする仮設住宅で1年以上過ごした彼らに心の安らぎはない。仮設住宅の使用期限は2年。あと数ヶ月・・・・・・仕事も先行きも暗雲の中。どうやって生きていけばいいのか。東電の賠償がなければ生活もままならない。保険料免除、医療費免除がこの街と住民を縛り付ける。いや、足枷のようなものだ。強制的に繋がれているここでの生活は絶えられない。だが、税制の優遇で辛うじて僕らをつなぎ止めている。いつまで続くか分からない甘い蜜の味を覚えた人はどうやって世間の荒波を乗り越えるというのだ。いや、むしろ乗り越えさせないようにしているのだろうか。
【2012/8/30~】(64)
震災後二年目の晩夏。水平線は相変わらず真っすぐと伸びて、遥か彼方、数十キロ先の原発まで続いているのだろうか。僕は今年かぎりの仕事を程よくこなしている。夏の酷な暑さはジリジリと仮設住宅を照らしている。
そういえば入試も様変わりした。福島県の災害を鑑みて、「東日本大震災特例枠」なる枠を設けた。
AO入試のようなものであるが、ここの地域限定の枠らしい。公立大学でそれをやるのだから、凄いものだ。被災地優遇の一環であろうが、少し違和感を覚えた。
自分も被災者だ……。でも入試と被災者は別なのではないだろうか。他の地域の人はどう思うだろう。
「福島の人だからしょうがないよね」
「自分の原発事故に巻き込まれていれば、震災枠使えたのにな」
羨望の眼差しがやがて嫉妬や妬みに変わるだろう。そんな枠があって「あって当たり前」の世の中にしてしまっていいのだろうか。
いや、それよりも我ら被災者がその善意を「当たり前」と考えてしまうのはきっと良くないことだ。生活支援のみで支えられるべきだ。他のことでも「被災者だから」となってしまっては公平性の観点から良くないのではないだろうか……。
素人ながら、周りから差し伸べられている援助の手を当たり前と思ってはいけない。その手を甘んじてすべて取ってよいのだろうか。それに慣れてしまったならば、それこそ復興の最大の妨げになるはず。
人心はぬるま湯を好む。そして何時しかそれが当たり前のように思えてくるのだ。
入試に震災枠を設けるのは後々の禍根を残さないだろうか。
最近、よく「被災地」とか「被災者」だのの言葉に少し嫌悪感を覚えるようになってきた。それが国の狙いなのか分からないが、何か特別扱いを受けているようで背中がムズ痒くなる。みなはどう考えているのだろうか。聞いてみたが、そんなこと正直に言ってくれるだろうか。いや、この土地ではみんなが被災者。自分の立場を悪くするようなことを言うわけがない。
この悶々とした疑問は自分の頭の中で少しずつ少しずつ大きくなっていることが明らかに分かってきた。自分のこの立場は周りから「うまく利用している」とでも思われているのではないだろうか。できるだけ震災に結びつけて話すのはやめよう。
自分の考えていることはこの地域ではマイノリティであろう。しかし、数年先にこの心配が現実になっているのではないだろうか。そんな心配が大型ダンプが行き交う国道を走っていてふとそう思う。
お金は大切だ。しかし、漬かり過ぎるとダメになる。
それよりももっと怖いのは人の心ではないだろうか。
震災2年目の晩夏に虚しい復興アピールに嫌気がさした自分に少し秋風が……。このまま福島が周りにおんぶにだっこのまま進むわけはない。いつか、とてつもない窮地に陥るようなそんな漠然とした不安感の上に僕らは胡坐をかいている。
そんな状態ではないだろうか。ボクはそう考えていた。
【2012/12/1~】(65)最終回
ボクらはあの震災から少しずつではあるが、前進しているように思える。しかし、周りからは「早く忘れてしまえ」と促されているようにも思えるのだ。前に進むというのは過去を忘れるということと同意ではない。過去を教訓にして今を生き、明日に繋げるということだと個人的には思う。しかしながら、震災から時間が経つにつれて、「忘れろ、忘れろ」とコダマのように耳の奥にへばりつく声が聞こえる。
きっと、何か都合の悪いことでもあるのだろう。東京ではもう2年前に何があったかなんて話す人はいないのだろう。首都大学東京の宮台真司教授が言っていたように
日本人は忘れっぽい
このことを思い知った2年間だった。ボクは今こうして生きているのはなんとか崖にへばりついてでも、後ろ指を指されながらも、したたかに生き残ってやるとあの災禍の中誓ったからだ。今の仕事だっていつまで続くか分からない。どうしても死にたくなったら、自ら命を絶つだろう。しかし、あのときのことを語る人間がこの世から完全に消えてしまうことはどうしても避けなければならない。思い出補正がかかり、十分に美化されたキラキラメモリーなんかをボクらは決して求めてはいないのだ。人間の表も裏も醜いまでの性根も描ききった生の体験こそがこれからの世界には必要なのだと考えるに至った。
人は思っているほど潔白な存在ではないし、ましてや尊大でもない。非常時には醜く、高慢で意地汚い部分が垣間見えるものだ。それを受け入れた上で人と人は助け合うことが必要である。ボクの小さな災害日誌に終わることなく、自分の体験はこれからも周りの人々に話していきたいと思う。「忘れろ」の圧力に抗いながら。
震災後2回目の年末がやってくる。除染作業員のバスが夕暮れにコンビニに吸い込まれてく。見慣れたこの光景が日常になった今、本当の「日常」とはいったい何だったのか忘れるくらいの所まで来てしまった。もう引き返すことは出来ない一方通行の道。未知の震災で道を失った多くの人へ。猜疑心と不満に充ち満ちたこの世界をどう生き残るか。ボクたちのサバイバルゲームはまだ終わることはない。
「忘れろ。忘れろ。ワスレロ。ワスレロ」の声は主に東京から。霞ヶ関から。大きな電力会社から。そして、その協力企業から。方々から飛んでくる。コダマのように響き渡る。でもボクは止めない、話すことを。書くことを。
この声があなたの心に響き渡るまで。
短い間でしたが、読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。その後のことは別編で書きたいと思います。よろしければ、感想なりなんなりコメントいただけると幸いです。メッセージ戴けると本当に励みになります。
今まで本当にありがとうございました。
福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》