復興シンドローム【2014/12/25~】⑥

師走も大詰め。クリスマスも終わり世間は一気に正月の装い。仮設住宅にもたくさんの明かりが灯り始める。おそらく他県に避難していて、仮設住宅も確保していたのだろう。今までまばらだった明かりが日を追うごとに多くなる。年末年始ぐらいは福島で過ごそうとでもいうことか。そう考えれば、被災地福島も一気にお祭り気分になっているということだ。自分にとってはだれが返ってこようが関係ない。問題は以前の生活が戻ってくるかどうか。いや、戻ってこないであろう事実にどう自分の中で折り合いをつけるかである。

警備関係も出稼ぎがほとんど。勤務表もほとんどが休みになっている。しかし通行証の確認人員は確保しなければならないため、リーダーが各隊員に一人ずつ年末年始出勤の交渉している。

「あの……」

気まずそうに隊長が声をかけてきた。声のトーンで大体の察しがつく。

「大晦日と正月でしょ?いいですよ。出勤で。どうせここが地元です。行くところもないしwww」

「ありがとうございます!」

だいぶ疲弊していた顔だった。おそらくほとんどの隊員に断られたのだろう。彼は安堵の表情で宿舎の中に戻っていった。

年末ともなると、どの除染作業現場も休みになってくる。帰還困難区域の出入りも様相がガラッと変わってくる。今まで復興関係の車両だけだったのが、住民とおぼしき車両が目立つ。家の片づけうやら、手入れやらで家族ごと車で戻ってくるのである。帰還困難区域であろうが居住制限区域であろうがそこらじゅうの家は朽ち果てている。庭は荒れ果て、瓦は震災の時にブルーシートをかぶせて応急処置をしたまま放置されている住宅があちこちにある。明け方の暗闇が明けてくるときにその姿があらわに浮かび上がる度、心が締め付けられるようになる。きっとここにも人並みの生活があって、あの日をきっかけに時計は強制的に止められたままなのだ。しかし、その時計が動き出したところでこんな状態では元の生活は戻ってはこない。毎日そんなことを考えながら、ただぼーっと道路を眺め、突っ立っているだけだ。自分には何もできない。

「年末年始はどうするんですか」

退屈すぎて隣の隊員さんに声をかけた。

「九州帰りますよ。子供の顔見ないとね」

あぁ、そうか。この人は九州の人だったのか。声をかけて初めて隊員さんの出身が分かる。どの隊員さんもみんな気さくで社交的だ。

「こんな辺鄙な地までよく来ましたね」

自分がそういうと彼は笑顔で

「ここほど条件がいい仕事場は地元にはないしね。言っちゃなんだけど、福島があって本当にありがたかったよ。家族が飢えないですむから」

「そうですか。それはよかったww」

その隊員さんは自分が福島出身であることに話すのをためらったが、そう答えると自分の顔色を窺った。しかし、僕は本当に心から「よかった」と思った。笑顔で切り返すと、本当に打ち解けたように話し始めた。九州のご当地話。やくざの話。豚骨ラーメンの食べ方などなど。

いろいろな話に花を咲かせながら、勤務時間が終わっていく。線量計とサーベイのチェックを済ませると、今日も少しだけ被ばくをして、車に乗り込む。会社の宿舎へ向かうのだ。

こんな生活がいつまで続くのかはわからない。ただ、福島という存在がいる一定の人々にはありがたい存在になっていたのが少し自分の心をくすぐった。確かに悲惨な天災と人災だった。だが、こうして新しい仕事が彼らの生活の糧となっている。大きな不幸の中に小さな手助けが生まれていることに複雑な気分になりながら、自分もその輪に入っていったのだ。

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fal-cipal(ファルシパル)
福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》