戦略的モラトリアム【大学生活編】(36)
大学生活が妙にこなれたものになってから、ボクの毎日はドンドンすり減っていった。物事には必ず終わりがあるとは分かっていたが、あの授産施設の実習が終わってから、図書館でただぼんやりと物思いにふける時間が多くなった。
教員免許を取得するために実習に行ったが、その経験が自分の心に魚の骨のようにつっかえていた。
たぶん、ボクのモラトリアム生活には厄介な感情がぐるぐる頭の中を回り続けている。耳障りの良いセリフなんて、自ら言い出すつもりはないが、きっとボクの頭の中をめぐっているのはそんな「キレイゴト」の言葉だ。
教員になって、○○するぞ!
なんて、そんな大それた目標なって持ったことがないし、教員に対してそんな憧れがあるわけではない。むしろ嫌悪感だけである。
それがあの実習で少し変わったのかもしれない。毎日のだらけた生活に自ら疑問符をつけるようになっていった。
「どうして、この講義を受けているんだろう」
「どうして、この教職を取っているんだろう」
「どうして、大学にいるんだろう」
これらの答えはすべてやましいもの。
もしくは何の理由もない。
自分のモラトリアムを謳歌するため、そしてそこに小さな目標というコンパスを自ら置いただけなのである。
「大学に行っているんだから、取れる資格は取っておこう」
教職課程履修の動機なんてそんなものだ。
「ありがとう」
知的障碍者授産施設の最終日、
あの職員の声が残響のように頭の中をこだましている。
まもなくこのモラトリアムが終わりを告げる。
教育実習を目前にして、卒業論文や各授業に忙しくしておこう。今は終わった後の自分のことなんて考えたくはない。残り少ないモラトリアムを噛みしめるため、また、あの日常に戻ろうとしている。
中身はまるで違うのに、いつものような大学生活が今日も始まっていく。
心のどこかに罪悪感を持ちながら、また今日も大学に向かう。
今までと少し違うことは「なぜ教員免許が欲しいの?」「学校の先生になるの?」「ならないなら、どうしてこんなに科目を取っているの?」
自分の行動に自分で説明ができないという事実に戸惑いながらも、うまく本音を丸め込みながら、日々のだらけた生活を送ろうとしている自分に後ろめたさを感じた。
「頑張る」という言葉の代わりに「なんとなく」
「一生懸命」という言葉の代わりに「できるだけ・やれるだけ」
あくまで自分のスタンスを忘れないように。
モラトリアム人間として、毎日を味わうことにためらう気持ちが生まれたのは初めてのことだった。
図書館で本をあさり、ヴィンテージで食事
そして、何気ない毎日を仲間と語らう。
そんな日々が永遠に続くと思っていた。
永遠なんてないことも分かっていたし
いつかこの生活が終わることも分かってはいたけれども。
ボクは必死で気付かない振りをしていた。
この生活のタイムリミットが怖かったのが半分。もう半分は自分が変化していくことを認めたくなかったんだ。
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