震災クロニクル 【2012/1/1】(56)

元旦


あれから 1 年が過ぎようとしている。見渡す限りの水平線が広がっている。東側を高台から見渡すと、何の障害物もないだだっ広い荒れ地が広がって、海が線上に地球という球体をなぞっている。何とも壮大な景色だが、見晴らしの良さは壮絶な災害の爪痕を色濃く残している証拠だった。

雪がちらつく夕暮れ。

チカチカと仮設住宅に明かりがともる。やがて辺りは暗くなり、仮設住宅を彩る明かりは輝きを増した。運良く仕事にありついた僕は不幸の景色をただ何時間も眺めていた。そして、ふと我に返るともう真夜中。警察の巡回もそろそろやってくるだろう。職務質問は別に構わないが、色々詮索されるのは煩わしいから、さっさと帰ろう。

コンビニエンスストアもなかなか 24 時間営業に戻さない。従業員不足が原因だそうだ。どこでも同じなんだな。

数え切れないほどの人間がこの地区から失われた。亡くなった人、引
っ越しした人、行方不明になった人。

ほんの数年前までは何事もない毎日だった。今では全国各地から復興に携わる人々が入ってくる。作業員の仮設宿舎がそこら中に建っている。アパートの建設も始まった。今は入居困難な貸家がたくさんあるらしい。地価は少し上がったそうだ。
でも防波堤はまだできていない。いや、もう後の祭りだ。今後しばらくこのレベルの地震は来ない。津波の心配もしばらくはないだろう。海沿いに車を走らせてみると、そこはまだ整地されていない荒れ地やがれきの山だった。電信柱が所々傾いている。とりあえずの臨時電信柱が真新しく打ち込まれている。細い柱で耐久性に乏しいようだ。しかし、浜沿いの復興事務所に電気を運ぶ大切な役割。

自分が想像しているよりも遙かに復興の速度は鈍かった。

それはなぜか。


① 誰もが想像していたよりも深い震災の傷跡が各地に残っていたから。

② 放射線量の関係で復興作業員として働く人材がいない。

③ 予算がない。

④ 復興させる気がない。


自分で 4 つの仮説を立ててみた。①は事実だろう。津波を被ってしまった地域は煙害の関係で宅地許可が降りず、また田畑を作れない。何十メートルに及んだ津波は土壌もだめにしたのだ。しばらくは更地のままだろう。

②人材不足なのは他の業種もそうだろう。しかし復興関係の仕事に関しては少し違う。数ヶ月見てきて、除染作業員や出稼ぎ労働者の無法ぶり
は目に余る。コンビニで怒声をあげ、ゴミ箱には溢れんばかりの家庭ゴミ。そして素行の悪さも際立っていた。何件もの声かけ事案や未成年に対する暴行や連れ込み未遂が横行していた。この街でももちろんそうだ。なぜか全国紙では報道されない。されたとしても 1 件のみで、ほんの小さい枠でしか取り扱われない。
なぜだろう。

作業員の悪評が広まれば、今まで以上に人材確保が難しくなるから?
復興のスピードが遅くなるから?
作業員の宿舎として使われているビジネスホテルからの圧力?
もしそんな理由であれば、もう復興なんてしなくていい。地元の数少ない働き手によって何十年もかけて復興した方が地域のためになるのではないだろうか。自分は強くそう思っていた。

③はどうだろう。自分たちからも震災復興に充てる税金を加算しておきながら、それはないだろう。


そして、今一番自分が信じているのは④である。もう既に復興させる気がないのだ。引っ越した人間はもうここには帰ってこない。そう考えている人がたくさんいるのではないだろうか。更地になった場所に何を作るっていうんだ。家?そもそも原発事故現場と隣り合わせのこの街に誰が好んで住むというんだ。更地は更地のまま、何十年と残るのだろう。田畑にするにしても放射能汚染の不安が残る地域の野菜を誰が買うのか。まさに『死の街』を見越してダラダラ復興しているふりをしているのではないだろうか。


震災から 9 ヶ月経った自分の心に飛来するものは④のような絶望的な未来予想図だった。

この街は仮死状態で税金という生命維持装置につながれた瀕死の状態だという見立てはおそらく当たっている。屈折した思いは皮肉にも現実を言い当てている確信があった。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》