震災クロニクル【2012/3/11】(57)
3月11日
午後に黙祷のサイレンと町内放送がなる。テレビ新聞は『震災から1年』の特集ばかりだ。海辺は整地された野原がただ広がるだけ。瓦礫の山がそこら中に集められ、小高い丘をなしている。冷たい海風が頬に当たり、ひりひりとする冷たさと感じる。テレビカメラやら、報道陣やら、祈りを捧げる人やら、荒野の大地にどっと人だかりができた。
おそらく海をただ眺める人の中には、未だに行方不明の方の身内もいることだろう。絶望的な現実にただただ呆然と立ち尽くすしかない人もいることだろう。
自分はこっそりと夕闇迫る夕暮れにそっと浜辺を訪れていた。防風林は全てなぎ倒され、マンホールはひょこんと飛び出している。もともと水田だったかどうか分からないくらい草木が生い茂り、枯れ木の荒れ地となっているところもある。
3月11日に自分は何をしているのか。それは単にノスタルジアに浸るわけでもなく、悲しみに暮れるわけでもない。むしろもっと個人的な野心のためにきたのだ。
「これから自分はどう生きるべきか?」
「何をすべきか?」
考えれば、考えるほど頭が痛くなるのと、自分の立場というものがあまりにも災害に近すぎて、実感が湧かないのだ。しかし、被災したあの一年前。東京に逃げたあの日から「どんなにしたたかでも絶対に生き残ってやる」という気構えは心の奥底にしっかりと根付いていた。
除染関係の仕事をするか?
給料は高いがいつまで続く仕事なのか分からない。コンビニでの彼らの素行を見る限り、同類と思われたくないし、そもそも自分は彼らを心の底から軽蔑している。
解体や建設・土方の仕事をするか?
同じよう復興関係の出稼ぎはマナーが悪いのでこれも却下。お金の善し悪しではなく、どれだけ自分を高められるかが仕事の条件だろう。
他の仕事を探すか?
それもいいだろうが、まずは福島に残るか、福島から出るかを決めなければならないのが厄介だ。東京電力の賠償が仮払いを含め、まだ見通しがつかない。住民票を移すことが必ずしも得策ではないので、自分は足枷で福島につながれている状態をどうにもできない。
海を眺めて考えても、答えの出ない問題を抱えているだけだった。お金の面で考えれば、まだ「福島の被災者」という看板を下ろすことはできない。
なんだ・・・・・・結局は自分がお金にしがみついているだけなのか。
福島につながれているのはそこにお金がつながれているから。本当に狡猾に立ち回らないと、後々後悔することになりかねない。
本当に自分の性根が嫌になる。どんなに公明正大なことをいっても心の中は金銭面での不安が多くを占めているのだ。それはどんなことになっても狡猾に生き残ろうと決心した震災数日後の自分が心に焼き付けた印だった。
来年もこの土地に残ろうか。
後ろ向きではあるが、現実的な選択をせざるを得ない自分がそこにただ立ち尽くしていた。
お金と理想、そして望むべき未来の姿。
どのボタンの掛け違いも窮地を招く致命傷になりかねない。
綱渡りの被災地生活は慎重に、そして心はいつでも想定外を想定しておかなくてはならない緊張感の中、震災一年目は濃密な時間とともに過ぎていった。
福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》