震災クロニクル4/16~20(42)
震災から1カ月が経過した。僕らの生活は震災前とが激変した。外に洗濯物を干す人は誰もいない。みんな部屋干しなんだろう。コインランドリーが大賑わいだ。倒壊や津波で家を失った人たちが仮設住宅から大きな洗濯籠を抱えて、コインランドリーにやってくる。町中のコインランドリーは週末になるとほぼ全台稼働して、しばらく待たなければならない。
原発情報では「ベント」の言葉に敏感になる。「次の日の朝、ベントをすることに決定しました。皆様の健康には影響ありません」とはいうものの、信じている人は皆無だろう。それは次の日の朝になればよく分かる。早朝から、隣町までつながる道路は混雑した。ベントが始まる前にできるだけ原発から離れたいという心理から、この街を一時避難する人で国道は溢れかえった。しかし、そんなことをしたってお昼にはみんな戻ってくるんでしょう?この行動にいったい何の意味があるっているんだ。でも、放射能から少しでも離れたいっていう気持ちも痛いほどわかる。
単なる気休めなのだ。そうやって右往左往することで自分は最善の選択をしているんだって自分自身に言い聞かせる。宗教儀礼のようなものだろう。原発安全神話が崩れ去った今となってはとてつもない皮肉めいた表現だが、国道の渋滞は、自分にはベントするという情報に踊らされている魚の群れのようにしか見えない。
本当に放射能が怖いならここには戻ってこないのが最善の選択だろう。そんな数時間この場所を離れたからって何が安全だと言うんだ。きっと彼らの行動に意味はない。
「直ちに健康に影響はない」
官房長官が繰り返しこの発言をしていた。それは今やもう虚しい戯言。「ただちに」が示す明確な時間などない。それが数日なのか数年なのか、はたまた数十年なのか。自分たちにそれを知る術はなかった。
自分はそんな魚の群れには加わらなかった、もう覚悟を決めていたから。堂々とここで死んでやろう。できる限りの生活の注意さえしていれば、後は野となれ山となれ。
僕は日々の生活で洗濯物を干す場所と外出時のマスク、帰宅時の服のパタパタ、そして、食べ物の原産地と水には気を配った。それ以外は普段と同じように生活した。ネットで情報収集。その後、ガソリンの確保と開いている店舗の探索。原発情報に耳を凝らした。毎日の食糧確保はなんとかできた。しかし水やガソリンは購入できないこともあった。この街にはいつの間にか住人と同じくらい原発関係の作業員が押し寄せていた。おそらくは除染、解体、建築、復興関係だろう。彼らがいつトラブルを起こさないともかぎらない。とてもまともじゃない言動や行動をしていた。自分はできるだけ彼らに近づかないよう、息をひそめて暮らしていた。まるで野良猫のように。
もうすぐ新しい職が始まる。新しい生活は何の変化もない放射能と隣り合わせの不安を抱えたまま、厳しい船出になる事は目に見えていた。
福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》