戦略的モラトリアム【大学生活編⑪回想】

10月のあくる日。

僕は大学に入学しての数カ月を振り返った。

少し慣れ親しんだ大学の仲間との出会い。そして怒涛の前期が過ぎ去っていった。今ではあの4月が懐かしい。

……

大学の授業って意外に騒がしいね。4月のキャンパスの喧噪はライブ会場の入場の様相。高校の時とさほど変わりがないのか、もしくはそれ以下だろうか。妨害にはならないものの、浮き足だった新入生の気持ちの高まりは喜ぶべきものか、それともただの雑音か。自分の耳にはどこか懐かしく、嫌な雑音だ。「どこかで自分の悪口を言っているかもしれない」そんなあり得ないシーンが頭をよぎると、そんなはずはない現実に連れ戻される。

あぁ、そうか。ここには自分を知っている人は誰もいない。まさに人生のリセット完成なんだ。この喧噪の中に埋もれることだってできる。なぜなら自分を誰も知らないから。軽やかにステップを踏みながら次の授業へと向かった。

どの授業もガイダンスで、すぐに本格的な内容には入らない。履修登録の期間だから、それなりに学ぶ内容をそれぞれ確認しているのだろう。自分にはさほど必要ないが、シラバスに目を通しながら知的好奇心に任せて授業を貪っていった。

高校とは何もかもが違う。そう、関東の片隅で周りの目を気にせずにもう一度人生をやり直せるなんて、きっとこの上なく幸せなことだ。でもここで昔の自分と、そして地方の片田舎としっかりと区別するためにとある制約を自分に課すことにした。これは何もかも中学、高校とは違う、そう地元のあの嫌な世間体という呪縛に手足を縛られていたあのときとは一線を画すために、自ら呼び方に制約をつけよう。

「授業」ではなく「講義」
「時間・時限」ではなく「コマ」

大学という別な場所では別な名称を使うことにしよう。それは自分自身を切り替えるため。また、新たな自分探しをするため。過去の自分とは別な生き物になるためだ。

全てはリセットすることに意味があり、過去の遺物と同じ名称の使用はできるだけ避けなければならない。それが過去の自分に対する禊と決別の証だ。

こう決めてから自分の一日は全く別な一日へと変貌を遂げた。とにかく興味のある講義を履修制限いっぱいまで登録した。時間割が今までの空白を埋めるように講義で埋め尽くされていく。不思議と不安は感じない。今ここに自分はいられることにこの上ない幸せと今まで味わったことのない充実感が夕暮れの自分を満たしてた。夕日が自分の頬をより紅潮させ、ギラギラした不健全な眼差しは常に明日の未知を見つめていた。

2歳という年齢差。現役生と自分との距離はこれくらいの距離感。18歳の雑踏に20歳の自分が埋もれている。違和感はさほど感じないが、浮かれている群衆は殊の外幼稚に見えた。どこかほくそ笑んでしまう自分がいつになく大人びて見える。自分の幼稚さを隠しながら。


そして10月。後期の開始。またあの怒涛の毎日が訪れるのか……。いや少し違う。ほんの数センチだけ物の見方が変わったと思う。



福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》