震災クロニクル3/28(33)

「もう帰ろう。最後は故郷で」

3月28日

自分は栃木県黒磯駅に向かう電車の中にいた。

親戚宅での数日。自分は神経をすり減らすように毎日を過ごしていた。昼は中華料理店の皿洗い。夜はただひっそりと他人の団らんを眺めていた。従妹は自慢話ばかり。大学でどうのこうの。

「指定校推薦で慶應行きなさい。そうすれば、 『ははーっ』て企業の人が採ってくれるわよ」母親の妹だが、本当に典型的な蟒蛇。表層的な人。うわべだけでも

自分への当てつけか?

自分の大学はそこまでいい大学ではない。自分はここの大学にとても感謝しているのだが。

ここの親戚はどうも昔から実家との見栄の張り合いがひどい。こんな時まで……。

本当に居心地の悪い空間だった。

「さっさと避難所に行けるように大田区の市役所に行ったわ。そうしたら……」

(さっさと出て行ってほしいならそう言えよ。はじめから「来い」何て言うな)

心でそう言いながら、空返事を返した。この家庭は震災の事など、どこか他の国のような出来事だった。

本当に居心地が悪い。何をするにも気を使う。自分の家のようにはとてもではないが振る舞えない。

日がたつにつれ、ここから出たいという気持ちが強くなった。

朝夕の食事。

入浴。

就寝時間。

起床時間。

すべてにおいて、彼らの機嫌を損なわないよう細心の注意をした。テレビで流れる福島県の空間線量。

「2.0マイクロ/時になったら、帰ろう。どうせ死ぬならこんなところではなく、住み慣れた地元で最期を迎えよう。その方がよっぽどいい人生だったということができる」

心にそう決めた。もはや生き残るというよりも、どう最期を迎えるかについて頭がいっぱいだった。

母親の妹の夫は中華料理店の経営者で、昔からおかしな人だった。幼少のときからそう。

自分の福島の実家に来たときは気のいいおじさん。

自分が東京のこの家に泊まりに来たときは横柄なおじさん。毎日のようにお説教。

自分の実家に来たときは自分の祖父にこのおじさんがお説教をうけていた。


結局のところ、親戚間の対立に自分が子供の時から巻き込まれていた。この最悪のタイミングでその意地の張り合いが表出しないよう、自分は息をひそめてここで数日過ごしていた。

決定的だったのは深夜のテレビ。自分がトイレに起きてくると、おじさんは夜の経営が終わり、夫婦で居間にいた。テレビでは国会でああでもないこうでもないの議論が繰り返されている。東京電力の賠償の話になると、「あいつももらえるのかな」とぼそっと叔父の口から声が漏れた。自分はドア越しにその言葉を聞いた。そこからは文に書きたくないくらいのえぐい話だった。

詳しくは書かないが、お金の悪臭がした。翌日の昼。17歳の従妹と留守番しているときに、自分はこのマンションを出て行った。

「ごめん、帰るわ」

そう言い残すと、自分は電車に乗った。途中でその親戚宅に電話。帰ることにしたことと、お世話になったお礼を言おうとすると。母親の妹であるこの家庭の母は激怒。

「お礼がないって怒ってたわよ!」

「感謝の電話ですよ」

「そうじゃなくて、」

そこで叔母さんは言葉に詰まる。

そうか。お金か。宿泊費と滞在費用をよこせと。

すぐに電話を切った。もう繋がりも切ったと言ってもいい。妙に清々しい気分だ。もう地元に帰ることはできないのかもしれない。黒磯駅に乗り捨ててきたあのオンボロ軽はもうないかもしれない。ただあの醜悪な牢獄にいるよりは後ろめたくない最期を迎えられる。

車窓からハコモノが徐々に消えていく。

過ぎ行く景色を脳裏に焼き付けた。

この景色を忘れない。

福島県のどこかに住んでいます。 震災後、幾多の出会いと別れを繰り返しながら何とか生きています。最近、震災直後のことを文字として残しておこうと考えました。あのとき決して報道されることのなかった真実の出来事を。 愛読書《about a boy》