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設問:作者の気持ちを答えなさい
何と言うか、文系批判としてよく出てくる「作者の気持ちを答えなさい」だけど、あの手の設問であるべきなのは、「上記の文章から読み取れる結論を述べなさい」とか「上記の文章に於けるAの感情を答えなさい」であって、あれは文章中から適切な単語を選ぶ問題だ。
だから、仮に作者が父親で「あの時は締め切りに追われていた」と言ったとしても、それが文章中に表れていないなら間違いだし、その文章の先を知っていて、「このあとAは裏切るので、しめしめと思っている」と言うのも間違いなのだ。
理系的に言えば、与えられた系に限定された条件を答えろと言う訳で、その系の外でどのような振る舞いをする関数なのかを問うてる訳ではない。
しかし、この「作者の気持ち」と言うのが暴走している嫌いはある。
全くその文章に書いていないことを、勝手に読み取ってキレる人間が後を絶たない。
そう言う意味で、「作者の気持ち」を答えろと言う設問は罪深いのだ。
ああ言う問題は本来、算数に於ける、
「今年で五歳になるヒロシくんは、三キロ先にある公園にお兄ちゃんを呼びに行きました。二人が戻ってくるまでの一時間の間に、時速八十キロの車はどれだけ移動するでしょうか?」
みたいな問題に答えるのと、本質的に同じ役割をすべきなのだから、もっとロジカルな問いである筈なのだ。
それを歪ませている「気持ち」と言う話が事態をややこしくしてる。
本質的な話は、黙っている相手の、或いは語っていない事柄について、勝手に理解する事は出来ない。
精々推定することしか出来ない。
その推定が正しいかどうか調べもしない、もっと言えば、調べることの出来ない状況で「気持ち」を言い当てようとするから間違いだ。
こういう間違えは、どっかの精神科医が「あの犯人の心理は」とか「あのお騒がせ芸能人は○○と言う精神障害で」と言う事を言い出したりするのに通底する。
文系は「明確な証拠」と言うのを出しにくい分野だし、ある意味それがなくても成立している分野でもあるが、論理的に確実といえるところからの組み立てや、具体的な証拠がないものに関しては、ぶっちゃけ「推論」でしかない。
沢山の哲学者が、クオリアがどうこうと言うのを延々得意気に語っているけれど、じゃぁ、それが具体的にどういう形で脳内に存在しているのか? の研究をしていると言う哲学者がいると言うのは、ちょっと聞いた事のない話だ。
社会学者が「私の苦しみは社会の所為だ」と言うけれど、それについて誰もが納得出来るような物証を提示したと言う話も聞いたことがない。(正確に言えば、誰もが納得出来る物証を示せた問題は、社会的合意の元に解決へと進んでいくのだが)
文系と言う分野に対する不信感の根っこは、多分「作者の気持ち」から始まる問題なのかもしれない。