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武力が必要なのと、戦争が必要なのは別な意味だが?
戦争をしないための武力とか、武力を持つからこそ外交力が涵養されるのだと言うような視点について、様々な意見をすることは出来るし、僕の個人的な思想から言えば、武装そのものは必要だ。
勿論、それに対する反論や様々な視点、論拠を無視するつもりもないし、各々の立場が存在するだろうと思っている。
そして、それを理解した上で、自衛隊が防衛軍になるべきか、防衛関係の法整備をどうするのか。
これもまた、各々の立場と考えと、そしてあるべき姿は違うだろう。
しかし、非武装であると言う事が、無条件に平和に資すると言う考え方に対して、それを無根拠に賞賛する向きは軽蔑する。
ただただ平和に対する自分の持ち出しをなくせば、自分はその問題から無関係でいられると考えているに他ならない。
それは無責任であり、そしてあまりにも無能であるからだ。
さて、そう言う話をすると、戦争賛美だと言う言い方をする馬鹿も出てくる。
武装が必要と言う話と、戦争が必要だと言う話は全く別の問題だ。
それはまるで鍵を掛けるからこそ、鍵を開ける衝動に駆られる人が出てきて、そして泥棒が発生するのだと言う考えぐらい無茶苦茶な話である。
平和に対する努力をすると言う事と、武力が世界中に存在する、それも平和裏なコントロールとは別に事実を無視するのは全く別の問題だ。
こうした思想がどのようなプロセスで出てくるのかについては敢えて論じないが、何れに於いても軽蔑するような理由である。
武力は法によってコントロールされるべきだが、法は具体的な強制力があるからこそ維持出来るのだ。
泥棒ならば警察が捕まえてくれるが、現状、国際警察力と言えるような勢力は存在しない。
ロシアの蛮行に対して、国際社会が有効な手段が取れないことがその証左である。
ロシアによるウクライナ侵攻に対する議論は横に置くとして、その戦争によってウクライナの市民や兵士、そしてロシアの兵士の命が奪われていると言う自体は決して否定出来ない。そして、それそのものを喜ぶような発想は、どのような勢力で、どのような立場であれ僕は反対する。
それは失われていい命などないからである。
それはシンプル且つ強力な考えであり、少なくとも表面的にでも、この思想を否定するような人間は、きっと見識があまりにも狭くて、そのようなことを考える能力すらないのだろう。
相手が自分にとって他人であるのと同時に、その人にとっても自分は常に他人なのだ。
そして、ここからが一番言いたいことだが、防衛の為に結果戦争に陥る自体は別として、戦争自体を肯定する、或いはもっと言えば、戦争にはメリットがあるのだと言う思想を唱える人間に対して、僕は断固としてNOを言う。
このような人は、誰かがそれによって死ぬと言う事に対して、自分には関係のないことだと言う理解で、何も思わないで済ませるような人間だ。
シンプルに言えば、人間に対する愛を持たない人間だ。
その誰かが、自分である可能性、自分が愛する人である可能性について、何故考えないのだろうか?
考えられないのは、エゴイストで、自分の事しか、自分の利益になる事しか考えられない最低の人間だからだ。
相手が誰であれ、人の死や不幸を望むべきではないし、少なくともそれを人目の付くところで開陳するような事ではない。
例えば、松本サリン事件の時、「あんなにも証拠があるんだから、ここまで追究されて生きていけないだろう」と言うような言葉を聞いた事がある。
これは完全にマスコミに誘導された言葉であり、人はそのような無根拠で浅い浅い理解で人の死を願ってしまうような生き物なのだ。
だからこそ、人は意識して、人の不幸や人の死を望んではいけないのだ。
それがプーチンであれ、ヒトラーであれ、それを"例外"と置いた時点で、その例外が無数に増える可能性があるからだ。
勿論、僕だって人間だ。
腹に据えかねた人間に対して、悪感情を持つ事もあるだろう。
或いはもっと下品に、冗談でそう言う可能性だってあるだろう。
ある故に、ずっと慎重に考える必要があるのだ。
人間は弱い故に、自分に都合の悪い人間の死が問題解決の手っ取り早い方法だと考える。そして、実際そうしてしまう人間もいる。
そして、それを正面切って望むことは、一歩、自分が殺人犯に近づく事なのだ。