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「形式写真」でなければ無価値か
かつては撮り鉄だった私。実はそれと同じ頃から、路線バスの撮影も行っていた。撮り鉄は実質引退したが、バス撮影は今も続けている。
ところがSNSでバスの写真を眺めていると、若いバスファンを中心に、ある特定の構図が一気に増えたように感じる。
最近流行りの
百聞は一見に如かずと言うので、説明するより実際にご覧いただこう。
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遠距離からズームで映し、前面と側面の比率が2:8前後、屋根上のクーラーや換気扇なども見えるようにetc… といった構図である。
どうやら巷ではこれを「形式写真」、あるいは交差点の右折で狙いやすいので「引き右折」と呼ぶらしい。
これ自体はひとつの立派な表現技法だと思う。ホイールベースや屋根上の機器などは、こういう構図だと分かりやすい。車両形式が一目で類推できるゆえの「形式写真」ということだろう。
だがこの方法、場所によりけりではあるが、概して成功率が低くなる。
私も挑戦したことはあるが、構図を引けば引くほど、被写体のバスを妨げる要素が増えるのである。対向車、並走直進車、更には歩行者自転車。皆が交通ルールを守っていても、タイミング次第で失敗する。況んや交通ルールを無視した横着者と重なってしまえば、尚更だ。
引かなければ撮れたであろうものを、引いたばかりに失敗した。その多さに心底嫌気が差して以降、私は一度たりとも引き右折を狙わなくなった。
「記録」より「芸術」?
地元でも、若いバスファンは以前よりは増えた。たまには同じ場所に居合わせることもある。
ところが彼らの様子を窺うと、撮らずに見逃す車両が多いようである。せいぜい練習代わりに数台撮り、お目当ての車両が姿を現したときに「この車両に賭ける」と言わんばかりの姿勢で撮って、それが済めば次のお目当てまで、他の車両をまた見逃し続ける。
やって来る車両を片っ端から撮影する私にとっては、なんとも勿体ないとしか思えない。その見逃した車両の中にも、すぐ離脱する車両がいるかもしれないのに。
そしてそういう若いバスファンの間で、「形式写真」が金科玉条の如く崇められているように感じるのである。
彼らの間では、バスの写真は「記録」ではなく「芸術」とするのが流行りなのだろうか?
芸術ということであれば、車種にこだわり、機材にこだわり、順光にこだわり、構図にこだわるのは、自然な話だろう。それだけではなく、ライト類の点灯(「ローフォグ」と呼ぶようである)にこだわり、行先表示にこだわり、広告類の掲示にまでこだわる例も見受けられる。運転士との個人的なコネで運行情報を得たり、貸切会が流行ったりするのも、むべなるかな。
だが、それが当たり前だと考えるのは、健全とは言えまい。
本当に「バスで幸せ」ですか
「この様式に沿わずして価値なし」
鉄道ファン界隈で、嫌というほど目にした風潮である。
その鉄道ファン界隈から相当な人数が流れ込んできたせいなのか、バスファン界隈にもこの風潮が表れつつあると思う。
「形式写真で撮らずして写真の価値なし」となってはいないだろうか。
先述の通り、形式写真は成功率が高くない。失敗するほど苛々する。その分だけ成功したときの興奮が堪らないという理屈も理解はするが、私に言わせれば重度の縛りプレイである。
「バスが好き」の感情表現として撮影しているのに、自ら縛りを重ねてストレスを増やすような真似をして、本当に楽しいのか疑問である。
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この写真を見てほしい。至近距離で撮影して、クーラーや換気扇はほとんど隠れているし、影で暗いし、歩道上の柵などが被さっている。誰に言われなくとも、ひどい構図なのは分かっている。
だが、「芸術」にはならずとも「記録」にはなった。後年になって振り返るとき、「手元で見られる写真」と「失敗しただけの記憶」のどちらが幸せか、言うまでもあるまい。
「形式写真」は、あくまで表現技法のひとつである。
「芸術」として撮ることが絶対ではない。それ以外の価値を認めない理屈などどこにもないし、あってはならない。
バスの撮影に芸術として挑むなら、それはそれでいい。ただ、もっと気軽に「記録」として撮影することにも、何ら問題はないのだ。もちろん、それを咎める理屈もない。
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私は幼い頃から路線バスが好きだ。路線バスが走っているところを見ると幸せだ。その感情のストレートな表現として、バスの写真を撮り続けている。撮るときはせいぜい光線の良し悪しを見る程度で、細かい理屈は考えない。考える必要もない。
今や気軽に写真を撮れる時代。
撮影とはそんなものでいいのである。