鉄道150年特集バックステージ⑦・江戸と東京をつないだ「都市鉄道」と土木コンサルタントの元祖
月刊『東京人』2022年月号「鉄道をつくった人びと」特集に寄せて
きょう10月14日は鉄道記念日。1872(明治5)年のこの日(当時は太陰暦9月12日)、新橋—横浜間が開業した日です。
明治維新後の東京の市街地は、徳川幕府が定めた「江戸朱引線」の中から始まりました。1882(明治15)年に東京馬車鉄道が新橋—日本橋間で開業、上野、浅草に伸びていきます。市内電車は京都より8年遅れた1903(明治36)年から走り始め、官庁街に代わった武家屋敷跡や商業地、下町を結んで新しい都市、東京を作り上げていったわけです。
一方そのころ、欧米に形成された大都会では都市高速鉄道が生まれていました。日本の鉄道開業の前に蒸気機関車による運転で開通したロンドン地下鉄(1863〔文久3〕年)、路面電車に代わって開業したボストン地下鉄(1901〔明治34〕年)、ニューヨーク地下鉄(1904〔明治37〕年)、シカゴ高架鉄道(1892〔明治25〕年)など。その主眼は、立体交差にすることで他の交通との干渉を避けることにありました。
では日本における都市高速鉄道の元祖は何でしょう。1927(昭和2)年に開通した東京地下鉄道? 1905(明治38)年に神奈川駅まで開通させ、路面電車から高速電車に脱皮しようとしていた京浜電鉄(現在の京浜急行電鉄)? いえいえ、それは1894(明治27)年に新宿—牛込(現在の飯田橋駅付近)間を開業させた甲武鉄道(現在の中央線)でしょう。
本誌でもおなじみ、鉄道総合技術研究所の小野田滋さんが特集でご紹介してくださったのは、菅原恒覧(すがわらつねみ)という技術者。前回、日本の鉄道技術者養成がどのように行われたか、京都鉄道博物館の岡本健一郎さんによる記事をご紹介しましたが、菅原は工部大学校から発展した帝国大学工科大学土木科卒、鉄道局に入りますが、薩長閥に反発して辞職、九州鉄道の建設に携わり、留学を志して銀座で有田焼の店を出して皿や壺を売っているところを、大学の先輩だった仙石貢に誘われて甲武鉄道建築課長となりました。
菅原は主任技術者として新宿—飯田町の市街線の建設に携わります。菅原はのちに鉄道工業合資会社を設立、単なる工事請負でなく、設計から一貫して携わる業態を確立、丹那トンネル東口などの大工事を手がけます。現在、鉄道のみならずビル建築や再開発のグランドデザインから施工管理までを一貫して行うコンサルタント業を始めたのが菅原。詳しくは小野田先生の記事をご覧いただきたいですが、自分を菅原道真の子孫と自称していたようで、どうも規格外の人の、まるで猿飛佐助のような一代であったようです。
甲武鉄道市街線の特徴は、踏切が一ヵ所もないこと。特に牛込—四谷間では江戸城外濠を通し、道路との交差や駅は江戸時代からの見附を利用して全て立体交差とし、江戸の都市構造を東京にそのまま活かしたのです。また初の色灯信号を採用、1904(明治37)年には日本初の総括制御(モーターへの電気の量を調整する制御器を用いることで、電車を複数連結しても一人の運転士で運転できる仕組み)を採用した電車を運行するなど、高速多頻度運行が可能になるインフラを作り上げました。これが「国電」のはじまりだったわけです。
都心延長をもくろみ、2種類の延長構想を持っていた甲武鉄道は、結局ターミナルにしていた飯田町駅(飯田町貨物駅となり、現在はホテルエドモントなどとして再開発)近くから延長線を分岐、1904年にお茶の水まで開業します。飯田橋から水道橋の先までの谷は築堤として、御茶ノ水駅は神田川の谷に設けることで、道路との交差はあくまで立体交差を守りました。そして、1906(明治39)年の国有化を迎えるのです。
いくつかの甲武鉄道の痕跡は現在も見ることができます。水道橋駅東口の白山通りをまたぐプレートガーダー(板状の部材による橋)の新水道橋架道橋と、水道橋駅西口から飯田橋に向かって歩いて間もなく、日本橋川をまたぐトラス橋・小石川橋梁と道路をまたぐプレートガーダー(板状の部材による橋)架道橋・小石川架道橋は、ともに1904年ドイツ・ハーコート社製。さらに飯田橋駅では2020年にホームが新宿方面に移設され、ホームの新宿寄りが、奇しくも旧牛込駅の位置となりました。新しいホームからは見附の石垣を見ることもできます。さらに、四ツ谷駅には「旧御所トンネル・新御所トンネル」も現役。週末の散歩にいかがでしょうか。(偽)