「宗教上の理由」について―法的観点と宗教学・社会学的観点から
「宗教上の理由」を口実にすれば、様々な面倒事を拒否できるという言説が、まことしやかに流布されている。しかしこれは、大きな誤解に基づく流言であり、また宗教に対する誤った偏見を増長させるものである。
法的観点から
この言説が念頭に置いているのは、おそらく「神戸高専剣道実技拒否事件」(最判平成8年3月8日民集50巻3号469頁)であろう。「エホバの証人」の信徒であった公立学校の学生が、必修であった剣道実技を、教義に基づき受講拒否したところ、単位不認定となり留年・退学となった。そこで、最高裁まで争ったところ、学生側が勝訴したというものである。
なるほど、結論だけを見れば「宗教上の理由」を口実にして必修科目が免除されるというのだから、生活上の面倒事を拒否する口実に"活用"できそうである。しかし、これは判断過程を見ていないことによる誤解である。
「神戸高専剣道実技拒否事件」最判の構成
本判決は、①原告である学生側が、留年・退学処分について、信教の自由(憲法20条1項前段)を侵害するものだと主張し、②それに対して被告である公立学校側がいくつかの反論を展開し、③裁判所が判断をする、という構成になっている。
②のうちの一つが、宗教を理由として特定の学生にのみ受講免除を認めることは、特定の宗教を優遇することであり、むしろ政教分離原則(憲法20条3項)違反になる、というものであった。
これに対し③最高裁は、政教分離原則の一般的な判断基準である「目的効果基準」に則って判断し、受講免除を認めたとしても政教分離原則違反にはならないと結論付け、公立学校側の反論を退けた。
目的効果基準とは
「政教分離」といえども、宗教が文化として社会に広く浸透している以上、完全な分離に固執すると、かえって国民の不利益になるなど不都合な結果をもたらすことが考えられる。そこで、ある程度までは国家と宗教との関わり合いを許容しようということになる。その基準として用いられるのが「目的効果基準」である。
「目的効果基準」とは、文字通り、国家による行為の「目的」と「効果」に着目する判断方法である。津地鎮祭事件最判(最判昭和52年7月13日 民集31巻4号533頁)で示された。
具体的には、ある行為の<目的>が宗教的意義を有し、かつその<効果>が援助・助長・促進(宗教にとってプラスの効果)または干渉・圧迫(宗教にとってマイナスの効果)になる場合に、そのような行為は憲法20条3項が禁ずる「宗教的活動」に当たり許されないという判断枠組みである。これらは、行為の外形のみによって判断するのではなく、当該行為が行われた場所、当該行為に対する一般人の評価、行為者が当該行為を行う際の意図・目的・宗教的意識の有無、当該行為が一般人に与える影響・効果など、諸般の事情を総合的に考慮して判断する。
この判断基準を念頭に置いて、判決原文を読んでみよう。
”所論は、代替措置を採ることは憲法二〇条三項に違反するとも主張するが、信仰上の真しな理由から剣道実技に参加することができない学生に対し、代替措置として、例えば、他の体育実技の履修、レポートの提出等を求めた上で、その成果に応じた評価をすることが、その目的において宗教的意義を有し、特定の宗教を援助、助長、促進する効果を有するものということはできず、他の宗教者又は無宗教者に圧迫、干渉を加える効果があるともいえないのであって、およそ代替措置を採ることが、その方法、態様のいかんを問わず、憲法二〇条三項に違反するということができないことは明らかである。”
この部分は、目的効果基準の論理を採っていることが比較的明瞭である。代替措置を採るという<行為>は、信仰上の真摯な理由により、真にやむを得ない部分についてのみ救済するという<目的>によるものであり、宗教的意義を有するとはいえない(たとえるなら、様々な理由に基づく生活上の困窮者への特別の配慮と同様である)。また、代替措置を講じることは、信仰上の真摯な理由により、真にやむを得ない部分についてのみ配慮するのであり、各人の特性に応じた相対的平等を図るものであるから、その行為による<効果>は、当該学生の信仰を援助・助長・促進するとはいえず、また他の宗教者や無宗教者に圧迫・干渉を加えるともいえない。
本判決は、上記に続けて以下のようにも述べる。
”また、公立学校において、学生の信仰を調査せん索し、宗教を序列化して別段の取扱いをすることは許されないものであるが、学生が信仰を理由に剣道実技の履修を拒否する場合に、学校が、その理由の当否を判断するため、単なる怠学のための口実であるか、当事者の説明する宗教上の信条と履修拒否との合理的関連性が認められるかどうかを確認する程度の調査をすることが公教育の宗教的中立性に反するとはいえないものと解される。”
前の部分と比べるとやや不明瞭ではあるものの、こちらも目的効果基準の論理を採るものである。学校側が学生の信仰について一定の調査をするという<行為>は、「理由の当否を判断する」という<目的>であり、宗教的意義を有するものではない。また、その<効果>も、単なる怠学のための口実かどうかや、信条と履修拒否との関連性が判明するという程度のものであり、学生の信仰に対して干渉や圧迫を加えるといえる程度に至らない。
このように、本件における剣道実技免除措置は、特定の宗教への優遇や、他の宗教や無宗教者への冷遇のいずれでもないと判断された。その前提は、受講拒否が信仰上の真摯な理由によるものであり、それゆえに真にやむを得ないと認められることにある。この前提を満たさない場合、<目的>に宗教的意義を疑われ、あるいは<効果>について特定の宗教へのプラス・マイナスの影響が認められるとして、政教分離原則違反の誹りを免れない。「単なる怠学のための口実であるか」等について学校側の調査を認め、仮にそうであった場合に受講拒否を認めなくてよい可能性を暗示しているのは、その場合に受講拒否を認めることが優遇の<効果>をもたらすものだからである。
”「宗教上の理由」だと言えば様々な面倒事を断る口実になる”という言説は、このような優遇の<効果>を前提としているが、以上に見た通りそれは実際には封じられているのであって、不見識に基づく誤解というほかない。
メインの論点は「裁量権の逸脱・濫用」
ここまで、受講拒否を認めた場合に政教分離原則違反になるか否かの議論を見てきたが、この論点は、判決全体の文脈から見ると主要論点ではない。本判決の主要論点は、公立学校側の留年・退学処分が裁量権の逸脱・濫用(行訴法30条)であり違法なものである、という点にある。
この点を大まかにいえば、次のとおりである。すなわち、留年・退学処分は重大な処分であって、学校側に裁量権はあるものの慎重な判断が要求される。そして、剣道実技に代わる措置を一切講じることなく留年・退学処分を行ったことは、考慮すべきことを考慮していない判断であり、裁量権の逸脱・濫用であって違法である。
剣道実技に代わる措置を一切講じないことが、なぜ「考慮すべきことを考慮していない判断」と評価されるのか。これを考えると、行きつく先は結局のところ受講拒否が「信仰上の真摯な理由」によるものだからであり、そうでない「単なる怠学のための口実」である場合に代替措置を講じないことは、考慮不尽とは評価されないであろう。
小括
ここまで憲法論を述べてきたものの、憲法は公対私の関係に適用されるのが原則であるから、私人間の関係が大半を占める「様々な面倒事」に、上記のような規範が当然に当てはめられるわけではない。
ただ、そもそもなぜ、国家でさえ「単なる怠学のための口実」に対しては保護を与えなくて構わないかといえば、それは、社会通念上も「単なる怠学のための口実」が正当な保護に値しないものだからである(目的効果基準は「一般人の評価」も考慮に入れる)。社会通念とは、一般市民社会における常識であって、それはとりもなおさず私人間関係における規範にほかならない。
宗教学・社会学的観点から
「濃い宗教」と「薄い宗教」
それでは、なぜ社会通念上も「信仰上の真摯な理由」ならば保護され、「単なる怠学のための口実」では保護に値しないといえるのだろうか。
中村圭志は、宗教的営み一般を「濃い宗教」と「薄い宗教」とに分類する(『教養としての宗教入門―基礎から学べる信仰と文化』)。前者は、宗教家が実践するような強いレベルの信仰を指し、後者は、慣習レベルで広く社会に馴染む宗教的文化を指す。
両者の存在は、相互補完的な関係にある。永平寺や高野山で厳しい修行に打ち込み、真理への到達を目指す僧侶(=濃い宗教)がいるからこそ、宗教は人々からリスペクトを受け、その総体として社会に宗教的文化の土壌が生まれる(=薄い宗教)。逆に、社会に広く宗教的文化の土壌(=薄い宗教)がなければ、個人が信仰の世界(=濃い宗教)に身を投じる機会がなくなり、また濃い宗教が経済的・精神的に支えられる基盤もなくなる。
「単なる怠学のための口実」ないし「様々な面倒事を断る口実」を目的とする「宗教」が、社会において保護や尊重(=薄い宗教)を受けるに値しない理由は、「濃い宗教」の欠如にある。「様々な面倒事を断る口実」は、本来は宗教によって結果的にもたらされる副次的な効果にすぎず、「薄い宗教」のさらに外縁に位置するものといえよう。本来「濃い宗教」であるはずの宗教の目的が「薄い宗教」となっており、「濃い宗教」がどこにもないのである。そうすると、俗世間の「薄い宗教」すなわち社会一般からの宗教へのリスペクトや、それに基づく裾野の広い支持基盤は生まれない。かくして、そのような「宗教」は社会から保護や尊重を受けられなくなる。結果、そのような「宗教」を「宗教上の理由」なる口実には用いることはできない。
宗教と思想
以上の通り、宗教が宗教たるためには、「薄い宗教」のみならず「濃い宗教」も備えていなければならない。それでは、「濃い宗教」が「濃い宗教」たるために備えていなければならない要素は何か。
これを探るために、「宗教」に近い概念である「思想」について考えたい。宗教と思想の境界は曖昧である。マックス・ヴェーバーがしばしば「利害状況」と対置させて用いる「宗教」理念とは、日本的"無宗教"社会においては「思想」と換言することが好都合とされる(大塚久雄『社会科学の方法―ヴェーバーとマルクス―』)。
「宗教」と「思想」の差異の曖昧さについて、より具体的な例を見てみよう。儒教は、日本では「思想」と捉えられることが一般的である。しかし、元来中国の儒教には、祖先の霊を祀るといった宗教的要素がある。また、ヴェーバーは『儒教とピューリタニズム』を著し、儒教をプロテスタンティズムに比肩する宗教と位置付けた。
同じく日本に一定の定着をみせている仏教は、すっかり「宗教」の範疇に属するものとして、疑う者はまずいない。しかし、仏教は元々は悟りの方法論であって、その観点からはむしろ「思想」の範疇という方が近いようにも思われる。
「思想」と「宗教」とを厳密に区別することは困難であり、また両者の差異にこだわることにはあまり意味がない。むしろ、その共通点を見出すことが「濃い宗教」の実態を探ることにも役立つ。
両者に共通する特質は、その普遍性である。すなわち、現在の手近な利益(すなわち利害状況)から距離を置き、将来のより大きい、あるいはより多くの人々の利益のために行動するという、大局的なヴィジョンである(『社会科学の方法』)。
この宗教観は「濃い宗教」「薄い宗教」の観点からも説明が可能であろう。自身の手近な利益のみにこだわるのでは「薄い宗教」すなわち社会からの広い支持は得られない。「薄い宗教」成立のためには、普遍性のある大局的なヴィジョンを要するのである。
「面倒事を断る口実」は、現在の手近な利益すなわち「利害状況」であり、「思想」ないし「宗教」の理念ではない。面倒事を断った先に大きなヴィジョンがあったとして、それは偶然もたらされるものであり、「面倒事を断ること」自体は大局的な方向を示すものではないのである。
かくして、「面倒事を断る口実」を目的とする「宗教」は、宗教の特質として備えるべき理念を欠くものであるから、その核心は「濃い宗教」たることができない。そうすると、「薄い宗教」である社会からの尊重は得られないことになる。結果、そのような「宗教」を「宗教上の理由」なる口実として用いることはできない。
小括
「面倒事を断る口実」を目的として創設した「宗教」が世間で尊重されるわけがないし、そのような「宗教」が「面倒事を断る口実」になるはずがない。よく考えなくても当たり前のことを、ここではあえて理屈立てて説明したにすぎない。
世界には様々な宗教があり、多種多様な信仰対象や信仰態様がある。しかし、だからといって「様々な面倒事を断る口実」を目的とする「宗教」は宗教たりえない(少なくとも宗教として尊重されない)。その理由は既に言葉を尽くしたところである。
多様性は重要であるが、上記「宗教」が宗教として尊重されないことは、多様性の尊重と何ら矛盾しない。「様々な面倒事を断りたい」という考えを、宗教のカテゴリーに収める必要はないからである。
たとえば、「睡眠を摂りたい」と思うのであれば、堂々と「睡眠を摂りたい」と言えばよいのであり、そこにタブーは何ら存在しない。逆に、「宗教」を名乗ることで有利になる要素はない。「濃い宗教」「薄い宗教」でも見た通り、宗教としてのリスペクトを得られないからである。
「様々な面倒事を断りたい」とは、他者からの干渉を避けたいという願望にほかならない。そうであれば、ただ「様々な面倒事を断りたい」という一個の独立した考えを持ち、他者の理念たる宗教と無意味に抵触すべきではなかろう。
総括
以上に見てきた通り、「様々な面倒事を断る口実のためだけの宗教を創設したい」という願望は、宗教への理解を多分に誤ったものである。
宗教を単なる非科学的な迷信と捉え、リテラシーに欠ける者が陥る絵空事だと考える偏見は根強い。もしかすると、上記の願望もそのような意識が根底にあったのかもしれない。
しかしながら、以上に見てきた通り、今や彼らの方がリテラシーに欠如し、「様々な面倒事を断る口実として宗教を持ち出せる」という"迷信"を吹聴している有り様である。誤った偏見を増長させる事態であり、スヤスヤと眠っている場合ではない。
「遊びで宗教を名乗っているだけであり、目くじらを立てなくてもいいではないか」という考えもあるだろう。しかし、上記の通り、この「宗教」はただ遊んでいるだけではなく、誤った偏見を増長させる点に問題がある。だからこそ、スヤスヤと眠っている場合ではないのである。