4.日本史(島左近)
こんばんは、熊谷です。
今日は、島左近(しま さこん)について書きます。
ゲームや小説でも謎の多い人物ともされる武将ですが、戦国ファンだけではなく一般的にも知られる島左近。
この方について詳しく、またどれだけ強い武将であったのかについてを記述させて頂きます♪
◆経歴
戦国時代の1540年ごろに生まれた安土桃山時代の武将です。筒井氏と石田三成の家臣でした(^^)本名を島清興(しま きよおき)
①20代半ばごろから筒井家に仕えてます。その働きぶりは、当時筒井家に仕えていた松倉右近という武将と共に「筒井家の右近左近」と呼ばれていたという説があります。
②跡継ぎの筒井定次とは相性が合わず、1588年に筒井家を出奔し浪人となりました。彼のもとには蒲生氏郷や豊臣秀長といった武将から、仕官の話が数多く舞い込んだと言われています。このことからも、左近の強さや働きぶりは、当時の大名に一目置かれていた事は確かだった事でしょう。
③石田三成に破格の待遇で仕官したと言われています。石田家においても左近の存在は大きかったようで、主に軍事面で三成を支えています。
◆活躍したこと
では、次にそんな彼が実際に活躍したことについて記載していきます。大きく3つあると、私は考えます。
①石田三成(いしだみつなり)の右腕
石田三成の右腕として活躍。「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城」言われるほど、優れた武将として有名でした。
②関ヶ原の戦い
石田三成隊の最前線に出陣し、左近の的確な采配により、迫りくる両隊を退けることに成功しています。
左近はわずかな軍を率いて自ら戦線に飛び込み、死を恐れずに何度も突撃を繰り返していた、と言われています。その左近の働きは狂気じみており、関ヶ原の戦いの後は「鬼左近」と呼ばれ、その奮闘が語り継がれました。
③徳川家康の暗殺計画
1600年に、徳川家康を危険に感じた左近は三成に家康暗殺計画を持ちかけました。家康が上杉景勝討伐のため道中泊まっていた宿に、800人の兵で夜襲を仕掛けるという大胆なもの。家康はこの企てを知っており、計画は失敗に終わらましたが、軍師としての力を発揮する場となりました。
◆最期(さいご)
左近は遺骸が見つからなかったため、どのような最期を遂げたのか正確にはわかっていません。いずれにせよ鉄砲で貫かれるその時まで鬼神のごとく奮戦をしたといわれています。
軍師としても活躍し、軍略と武軍ともに優れた最強の戦国時代を生きた武将だったと言えますね。
お墓が、京都市の立志寺にあるので、次に京都観光にいく際に手を合わせにいこうと思います。
(出典)