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たりほんフェス。ハーフムーンホール下北沢。


 下北沢駅に降り、十分ほど歩くと見えてくるハーフムーンホール下北沢。住宅街にあり、漏れ聞こえてくる音楽に気づかなければ通り過ぎていただろう。
「ハーフムーンホール下北沢はこちら」と書かれたポスターの下には、「多力本願」のロゴ。わざわざこの日のために用意したのかもしれない。こういうところに親切心を感じて好感が持てる。
 扉を開けると玄関のようなスペースがあり、床に貼られた張り紙には「靴を脱いで上がってください」の文字。隣にはレジ袋が置かれていて、ここで脱いだ自分の靴を持ち歩く仕様のようだ。
 履いてきたブーツを脱ぎ、レジ袋に突っ込む。置いてあるスリッパを履いて奥に進むと、地下への階段があり、降りた。音楽はますます大きな音で聞こえてくる。
 地下一階フロアに辿り着くと、幅一メートルくらいの水槽が三つ。カクレクマノミがいた。海水魚の水槽。マンジュウイシモチ、デバスズメダイ、キイロハギ、カンムリニセスズメ、海水魚を飼ってる人なら「飼育しやすい海水魚」として有名な種類が揃ってる。サンゴもよく成長していて、海水魚店のプロがメンテした水槽というよりは、趣味で素人が頑張った水槽という感じ。ここのオーナーさんの趣味だろうか。水槽が大きい分、飼育されているカクレクマノミも十センチくらいの大物だった。
 地下一階は地下二階を見下ろせるようなスペース、というよりは「二階席」という表現が正しいかもしれない。下を覗くと、バンドサポートをつけた女性歌手が歌っていた。
「受付は地下二階だっけ」
 再び階段を下る。足元が暗い上にスリッパなので、慎重に一段ずつゆっくり降りる。降り終わると同時に、まるで待ち構えてたように目の前のカーテンがバッと開いた。
「あ、ご予約の方は?」
 受付担当と思われる背が低めで天パの男性が声をかけてくる。ご予約の方……私の名前ではなくてご予約の方ね。
「酒井……酒井さんです」
「あ、いつもありがとうございます。ドリンク代で五百円お願いします」
 私はまだ名乗ってもないのに、パラパラと予約表をめくり、「酒井」の名前の下に、おそらく私の名前しか書いてないであろう名前を斜線で消した。今回も、とてもスムーズで早かった。このスムーズさを知ってしまうと、もう他の人で予約する気にはなれない。
 たりほんフェスは月に一回やっていて、さまざまなアーティストさんが集まる。今日は十四組。誰のチケットを買っても全部のアーティストさんを見ることができる。
 では、誰のチケットを買うのか。
 その問題が発生するわけだけど、普通は応援したい人とか、推しとか、純粋に一番見たい人とかで買う。私も二回ほどそうした。けど、人気のある人で予約すると、受付でいつも時間がかかる。
「MASAさんで予約した堀江です」
「MASAですねー。ほりさん?」
「堀江です」
「え?」
「堀江です!!!」
 爆音の音楽が鳴り響く中、私の声なんて届かない。それに、その人から予約した人が十人いるなら、十人の中から私の名前を探さなければならないから時間がかかる。
 いや、これならまだ良い。最悪パターンだと、
「堀江さんですねー。チケット代とドリンク代で五千五百円です」
「すみません。チケットはクレカで買ってると思うんですけど」
「え、そうなんですか。じゃあメール見せてもらえますか」
「メール……、えーっと待ってください」
 となる。
 クレカでチケットを買う以外の方法を知らんのだよ私は。その客がお金を払ったか払ってないかなんて超重要事項を客に管理させるな。そっちで管理せいや。と、にこやかに思う。ええ。にこやかに。
 そんな無駄なやり取りを解決する方法はただ一つ。「酒井」で予約することだ。サポートのギタリストで予約する人なんて私しかいない。めっっちゃ楽。
 サポートバンドなんて、アーティストさんからの依頼がなければステージに立つことはできないのに、そんなサポートメンバーからもチケットが買えるようになってるのがこのたりほんフェス。素晴らしい。なんて太っ腹なんだろう。優しさの極み。
 私のように一分一秒も無駄にしたくない超絶めんどくさがりにとって「酒井」は魔法の言葉だ。「酒井」と言えば「堀江」が消される。なにかおかしい。

 十四組がそれぞれ三十分ずつステージに立つ長丁場。お腹が空いたりお尻が痛くなったりするたびに出たり入ったりを繰り返す。再入場オッケーは当たり前だがありがたい。
 地下二階とだけあって暖房はよく効き暖かくてウトウト
 していると、「ウォーーーー!!!」という叫び声で目が覚めた。ばしゃ。
 「ばしゃ」って人。
「初めて見てくれた方もいるよね! ありがとう!」
 と私に視線を送っていうばしゃ。たしかに。現地で直接見るのは初めてだ。配信だと何回も見てるけど、現地だとこの人の前に私はいつも帰る。今日はウトウトしてて帰るタイミングを逃してしまった。まるで内心を見透かされた気がして焦る。だってこの人、下品なんだもの。
 たまに見ているこっちが恥ずかしくなるようなライブをする人がいる。自分がステージに立ってるわけでもないのに、もう出てこないで! 恥ずかしい! って思っちゃうような人。本人もそれを分かっててやってるタイプなので、それはもう相性の問題だから仕方がない。
 とはいえ、せっかく見るなら楽しもう。
 歌詞に「立ち上がれ僕の童貞ちんぽ」という言葉が使われている。
 童貞ということは、若い。立ち上がれというのは、勃つことか。つまり、若い男の子の発情の歌。んー。なるほど。女は勃つものないから発情は「恋」という言葉に変換される。だから「立ち上がれ僕の童貞ちんぽ」は「幼い子どもたちの初恋」の歌。青春だ。
 でも今ステージにいるやつら全員童貞じゃないやろ。音楽やってる男で童貞なんて、産院で処女を探すくらい難しい。
 あ、終わった。
 妄想で連想ゲームしていたら終わった。
 尾崎豊みたいに全力で歌うばしゃ。曲は好き。ノリも好き。童貞ちんぽの曲は好きじゃない。勃ち上がれません。女なんで。

 うるさいテンションの後にしっかりした足取りで出てきた女性。鳩のアコギを持ってる。HANNAさん。力強い地声と裏声とのギャップが良い。
「○○の○○って曲をカバーします」
 知らないバンドの知らない曲のカバーほどどうでもいいものはない。オリジナルや新曲なら次も歌われるから覚えようと思うのに、カバー曲はだいたい一回歌って終わりだもの。それが知らない曲どころか聞いたこともないバンドだったりすると、それはもはやあなたのオリジナル曲だと思う。
 この曲やこのバンドならみんな知っているだろうと思ってカバー曲を選んでるのかもしれないけど、私はほとんど知らない。全員の名前を言えるジャニーズなんてKinKi Kidsしか知らん。だから私にとっては、テレビに出たような有名アーティストよりも、たりほんフェスに出ている人たちの方が有名人だ。
 カバー曲という名の、私にとってのオリジナル曲を歌ったHANNAさん。ギター一本なのにリズム感もよく、真っ直ぐに響く地声が、とても曲に合っていた。

 お尻が痛い。
 そろそろ出ようと思ったら、次は澤みのりさん。彼女はたぶん一番突き抜けてる。純白のドレス。ほとんどのライブで白を着ているから、自然と記憶に残る。
 お尻をモゾモゾ動かして痛みを我慢する。持ってるカイロを太ももの下にひく。足を組みたいけど、演者さんがステージから見て、偉そうな奴だと思われたら嫌なので我慢する。
「ステキライ」という曲を最後に歌った。
「なんて素敵なの」という歌詞で、いつも素敵な人を思い浮かべる。あなただよ。綺麗で素敵な人。
「君を嫌いになったことなんてなかった」
 その通り。
 嫌いになったことなんてなかったよ。
 嫌な気持ちになったり、イライラしたり、誰かを攻撃したくなったり。生きていればそんなふうに思うこともあるけど、それって、ただ単純に、音楽を聴いていないだけだったりする。
 音楽を聴けば、気持ちはガラリと変わる。

 外に出るともう真っ暗だった。地下二階が暖かかった分、外の空気に体が震えた。
 今日はいつもより長居してしまった。
 月一回のたりほんフェス。私のリセット日。

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