「朝井リョウさんの正欲って本があるじゃないですか。あれほんとすごいですよね。マイノリティをすごくよく描いてて」 あの本を、普通の人が読むのと、マイノリティ側にいる人が読むのとでは、感想が結構分かれる。 「めちゃめちゃ好きな本です。あの本に、「水」に性的興奮を抱く夫婦が出てくるじゃないですか。セックスなんてしたことないのに、この世の中を生きていくために2人で協力して、結婚して、なんとか「普通」になろうとしてるみたいな。わたしあれ、すごく理想です」 「あの……なんていうか、
隣の席の男の子が、教科書を忘れた。 「ごめん、見せて」 「いいよ」 恋愛感情なんてまだない小学生。でも、教科書を忘れると、男の子はわたしに「ごめん」って言ってくれる。それがなんだか嬉しいの。男の子なのに、女の子のわたしに謝るの。ちょっと滑稽で、可哀想で、可愛い。 男の子がわたしに対して「申し訳ない」って気持ちを持つことがね、わたしは好きなの。 だから、隙を見て消しゴムを隠しておいた。 「あれ? 消しゴムない」 椅子を引いて、床をキョロキョロと探す男の子。
チームホスホスとして活動する推しのギタリストが、 「本日はアコースティックにて!」とポストした瞬間、頭に血が上り、 「喧嘩売ってんのか殺すぞ」 と、仕事中に呟く。 「あんた、チャラ男のことでキレるのはいいけど、仕事中はやめろ」 主人に嗜められる。 「そうだったね。ごめんごめん」 怒りや悲しみは文章を書く上で必要な感情で、気持ちが揺さぶられたときほど頭が冴える。 わたしの推しのギタリストを、しょっちゅう連れ回している女アーティストがいて(通称ベイマックス)、ベイマ
「なんでチャラ男メガネかけてんだ?」 わたしが作った推しのぬいぐるみ(周平くん)を見ながら主人が言う。 「それ100均で買った。最近周平くんまたメガネなの。サングラスもあるよ〜」 サングラスも周平くんぬいにかける。 周平くんには定期的にサングラスブームがあって、そのときはまともな現場以外は基本サングラスをかけている。ちなみにサングラスとわたしは言っているけど、以前本人に確認したら「度入りの色眼鏡」だそうだ。 【色眼鏡】というと比喩表現で、【先入観のせいで
いい推しの日には、色んなアイドルやアーティストを検索する。名前で検索をかけ、オタクが「いい推しの日」とタグをつけてポストしているかどうかで、人気度や活動内容が分かる。 アイドルやアーティストで、オタクが1人もポストしている人がいなかったら、「今までなにしてきたの?」という話で、この日はステージに立つ仕事をしている人にとっては成績表が出るような日だ。 とくにダサいのは、名前で検索かけたときに、本人のポストしか出てこない。これが1番ダサい。そうならないように、推される側の
「11月30日にさ、周平くん界隈のアーティストさんが企画してるフェスに、結芽乃ちゃん出るんだよね」 「行くのか?」 「いや、ベイマックスいるから行かないんだけど、サポートに周平くんがいるなら配信で見る」 「なんだ、結局チャラ男のフェス見るんかい」 「結芽乃ちゃん出るなら話は別でしょー。でもあの子、もうとっくにタイテ出てるのに全然告知しないんだよね。まぁ普通に考えてワンマン近いのに、20分しか出ないフェスにチケ代5000円も払わせて自分の客呼びたくないんだろうなぁって」
11月4日は1104。そう、【いい推し】の日である。 わたしはこの日が大好きだ。普段は推しのことをめちゃくちゃたくさんポストしたくても、「フォロワーさんからウザがられないか」と心配になったり、「お前の推しなんか知るか」と思われそうで控えている。 でもこの日だけは正々堂々、「わたしの推しは周平くんです!!!!!!」と叫べる。なんと素晴らしい日か。 そして逆に、アイドルやアーティストという推される側の人が、この【いい推しの日】に、誰も自分のことを「推し」だと言っていな
「これ、お宅ですよね?」 職場にゆうパックが届いた。50センチくらいの白いダンボールで、大きさの割には持つと軽い。宛名を確認すると、私の名前が書かれていた。 「はい、そうです。ハンコ入りますか?」 「じゃあ一応」 受け取った紙に、職場の名前が入ったスタンプを押す。 荷物を持ってきた郵便局の人は、40代後半くらいの男性で、背が低く太っている。職場で何度か顔を合わせているが、とくに親しくはない。ワイシャツをいつも腕まくりしていて、露出した腕には水疱瘡の跡なのか、デコ
「行きたくねぇなぁ。雨だしなぁ」 また言ってるよと思いながら主人を眺める。行きたくねぇ行きたくねぇと言いながら、結局主人はライブに行く。 「そんなに行きたくないなら行かなきゃいいじゃん。ライブつまんないアイドル推してたって意味ないよ。その子らの為にならない」 「いや、ライブは楽しいんだよ。オタク仲間いるし。けど金かかるからなぁ」 こんなにライブに行くのを嫌がっているオタクがいることを、アイドルたちは知っているのだろうかと思う。 「一旦他界したら? だってなんも
推しの周平くんが出てるフェスに出演するアーティストのXをチェックする。上げられる画像に周平くんが写っていれば【いいね】を押して威嚇するお仕事。 今回からフェスを見ないようにしたけど、今月はハロウィン仮装で出演するアーティストが多い。周平くんの頭にも、誰かに無理やりやらせられたと思われる赤いリボンがついていて、思わず舌打ちする。 「わたしの周平くんに変な格好させないでよ。気持ち悪いなぁ」 威嚇いいねを押した後に、サクッとミュートする。ダサい推しは見たくない。 「チャ
【文學界 新人賞 第131回 原稿募集】 Xに流れてきたポストに目が止まる。これだ! と思う。このタイミングでわたしが目にするのは運命のはずだ。 「ほりえ、わたしは小説を書こうと思う」 いつも通り同じ名前の主人を「ほりえ」と呼びながら、今のは【成瀬は天下を取りにいく】の成瀬風だったなと思ってなりきる。 「いつも書いてるだろ」 「違う。文學界に応募する。応募枚数は400字詰原稿用紙で70枚以上150枚以下。28000文字から6万文字だ。1日4000文字書けば15日
「やば! 清香ちゃん、11月KAKADOでライブやるんだけど!」 御茶ノ水KAKADOは我が推しの周平くんがギターサポートで出る、月に1回行うフェスがある場所だ。そのフェスは一般客を呼び込むものではなく、アーティスト同士の交流を目的としているので、わたしは半年前から行かなくなった。というより、嫌いな奴が出てるので行けなくなった。 「KAKADOってチャラ男のところか」 「そうそう! これはあれだね、私信だと思うんだ」 「は?」 「KAKADOに行けなくなったわたし
「はじめましてですよね! ありがとうございます! お名前聞いてもいいですか?」 「堀江と申します」 「堀江……、え!? さっきの……え!?」 またやってるよと思いながら物販でCDを買う主人を見る。結芽乃ちゃんの物販で、わたしが先にワンマンのチケットを買って挨拶し、その後に並んだ主人はCDを買った。 年の差19なので、アイドル現場に行くと、主人を知ってるアイドルさんはわたしを見て「どういう関係?」と、不思議がられる。「奥さんです」と主人がわたしを紹介すると驚愕の表情
「この前対バンのアイドルグループの子にゴリゴリ営業されたんだよ」 「へぇー」 「黒髪ロングで可愛いんだよ。見るか?」 「見る」 見てほしいんだろう。 「これ」 主人のスマホを見ると、黒髪ロングの、男受けしそうな可愛いアイドルさんが。 「あ、可愛い」 「だろ? 迷うなぁ。一回ライブ行こうかと」 「いいんじゃない? 推しにばっか執着しててもつまんないし。推しちゃん今髪の毛シルバーだし」 「でも推しちゃんに怒られるからなぁ」 「じゃあ髪の毛シルバーの間だけ推し
「ギター始めてみようと思うんですけど、堀江さんギター習ってたんですよね? 先生選びとかなんか注意することあります?」 一杯飲んで帰ろうと寄ったBARで、仕事仲間に聞かれた。先生選び……か。 どんな先生だったとしても、生徒の自分が頑張れば良いと思っていたので、とくに考えたことはなかったなと振り返る。 「んー、相性って問題もあると思うんですけど、過去にメジャーなバンドをやってたとか、有名なYouTuberとか、自分が憧れているギタリストで、習うことでギターのモチベーション
「下北沢で面白そうなイベントやるんだけど、俺20日仕事で行けないんだよな」 「なにそれ」 「ミツバチロックサーキット。100組くらい出るんだ。idoressも出る」 下北沢にある10個のライブハウスを使って、総勢111組もの女性アーティストが出るイベント。ざっと見た感じ、アイドルが多いけど、シンガーソングライターもいる。 「え、これチケット1枚で色んな会場行き来できるってこと?」 「そう。ドリンク代かかるか分からんけど」 「シャングリラあるじゃん! LIVE H