『こどもがはじめてうしなうもの・えるもの』についてかんがえる
はじめに
今回は、子どもが初めて失うものと得るものについていかに考察する。加えて、子どもの隔靴搔痒《かっかそうよう》についても述べていく。
子どもが初めて失うもの・得るもの
最初、子どもは母体に存在し、様々な面で深く母親と繋がっていた。このことを当時の子どもが感じているかは定かでないが、心身の成熟した大人になれば比較的感じるようになると思われる。
そんな子どもは、多く産まれていく。言い換えると彼(女)はかつて母と子で「一人の人間である」とみなせたが、母体から切り離され、彼(女)らは二人の人間になっていくのである。
そのうちの一人、彼(女)は初めての呼吸を行い気体を得る。そのために子どもは泣くと、常識として言われている¹⁾。
確かに、私はこのことも泣く理由に含まれると考える。加えて、私は子どもがほかにあるものを同時に得ているため、また泣いているのだと考える。
それは視覚を除く、四つの感覚である。視覚は産まれてから日をおいて、子どもが獲得する。
これもまた定かでないが、子どもの意識は、恐らく外の光やにおいなどによって母体にいた時より明確に働くと思われる。こう考えると、光を感じるという面で、子どもは視覚的にも産まれた際の初体験を味わうのかもしれない。
のちに感じるか、人体の本能とは言い表せないほど、心の深く遠いところで子どもは孤独を味わうのかもしれない。また、五感を明確であろう意識で初めて味わう。この孤独と感覚の二つは、子どもにとって初めての損失であり、獲得であると、私は考える。
子どもの隔靴搔痒
子どもが誕生時において「感じたこれは不快!! どうにかしてくれ!!」と、初めての感覚などに対して不快を訴えていることも、ゼロではないのかもしれない。
子どもが泣くというものには、心身の不快を取り除くよう唆すほか、欲するものを得たいという理由が含まれている。特に子どもが、生理的な対処が重要であるのに加え、容姿によって欲望が叶えられやすいところからなる。
また、大人と比べ経験が少ない状態であるから、それによって子どもは物事がそうであると強く思い込みやすい。これは本来上手くいく事態を疑ったり、抑えることも重要であるにかかわらず、極めて固定的に物事を捉える性質である。
この二つを持った上で、子どもは親に欲しいものを買ってもらえなかったとき、泣き続ける。未経験の彼(女)が唯一行えるのは、泣いて周りを促すことである。
大人であれば結果的に希望がかなうかどうか、ある程度はその確率をはかれるものである。そして、多くは効率的に物事に対して臨む。しかしそれは、経験を多く持つ大人であるからこそできるのであり、子どもは大人に比べてそれを持たないため、できることと言えば泣き続けることとなる。
大人が予想で限界を感じるなら、子どもは心身で限界を感じるのである。いつか希望が叶うと思い込んで、息がしづらくても泣き、親を促す。しかしいつまで経っても希望が叶うことはなく、やがて彼(女)の体に限界が訪れる。そうして初めて、限界の体で彼(女)は希望が叶わないときもあると学習するのである。
頻繁・無作為に希望を叶えるべきではない。しかしある面の心身発達への配慮とはいえ、少ない経験で味わう挫折のダメージは、子どもにとって大きなものであることを感じられて切ない。
まとめ
子どもは初めての獲得で気体と五感を味わい、損失では母体との一体感を手放すのである。また物事が上手くいかないとき、心身が限界に達するまで泣いて促し、初めて物事は上手くいかないこともあるのを知る。
参考文献一覧
1) 堀内智子. 「受精から出産まで」. 名古屋市科学館. https://x.gd/6jYQT, 2024-09-02.
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