おわりの途中で
小説を書いてるけど、小説をどうやって書いているのか、いつもあんまりわからない。
ノートにペン(いつも同じボールペン)で言葉を書いていく、言葉がつづく限り、つづくままに書いている。
書いているといつか言葉がおわって、でもそれは物語にとって本当のおわりではなくて、何ならはじまりも本当のはじまりではなくて、ただ延々とつづくひとつの線を、テープを切るように最初と最後にハサミを入れて、それが便宜的に小説の最初と最後のシーンになって、つづいてきたしつづいていくものの一部を物語として切り取っている。というのが、自分の書く小説の実感として私にはある。
そしてそれは自分の生きてる実感とも同じで、生まれた時がはじまりとも、死ぬ時がおわりだとも感じてない。
すべては途中だし、途上にすぎない。
でも、すべてを知ることはできないから、自分に知覚できる範囲のはじまりとおわりを設けている。
無数のはじまりとおわりがあって、区切ることがその存在の仕方になって、どうやってはじめてどうやっておわるのか、それは自分で決めているともいえるし、自分の力ではどうしようもないものによって予め決められているともいえる。
なにしろ、すべては途中だから、いろんな選択肢があって、方向は簡単に変わってしまうし、風が吹いたら、雨があの時降ったから、空がたまたま晴れたのを見たから、なぜか知らんけど気づけばそうなってしまった。
少なくとも、私の意思は半分くらいで、あとは外部でも内部でもある何かの意思が流入して、物語は進んでいくし、いつかとん、ととりあえずの道の区切りをみる。
それはなんか、ひとつの差す光にふっと気づいて、顔を見上げる時のような気分だ。
まだ歩もうと思えばこの道はつづいていく。
でも、一旦ここで休止しよう。そのつづいてきた息継ぎのおわりが、物語の帰結になる。
深呼吸するように、そこで深く息を吸って吐いて、振り返るとそこに辿ってきた道があって、ああこれが今回歩いてきた道だったんだな。私はこういう景色をみて、通り過ぎて、こんな道を歩いてきたんだな、と気づく。
物語を書くことと、歩くこと、息をすることは私には同じで、自分の足で一歩一歩歩いてきたことが、言葉になって残って、それを小説として記録している。
こうやって歩きたいと思っても、いつもその通りには歩けない。
思わぬ障害物もあるし、歩きたいのになぜか足を踏み出せず、そこで立ち止まってしまう時も、ふっと気分が変わって道を左に曲がるはずが、右に曲がってしまったりして。そんなことは本当にしょっちゅうあることだし、なんなら全部、行き先風任せ、みたいなところもあるから、北に向かってたはずが着いてみたら南だった。迷子になってがむしゃらに進もうとして、いきなりの強い風に飛ばされて知らんところに着地してしまう。
ひとつも思い通りにはならなかった道。でも、着いてみたらなんかこれはこれでいいところのような気がする。
そうやってまあ、これでいっか。と思って、いつも多少の心残りはあるけど、物語はおわる。
自分が思ったように歩くことはできないけど、歩いてる途中の景色に顔を向けるとなんかすごくいい景色だったり、その時は単に通り過ぎただけだけど、思い返せばすごく綺麗なものを見たような気がする。
こわいまっくらな道をなんの光も宛もなく、一人で歩かないといけない時もある。
でも、それでもひとつの道が歩いているうちにできて、振り返ってそれに気づく時、不思議な感慨を覚える。
目を遠くへ向けると道はおわらない。また、どこかに歩き出さないといけない。
でも、今はここで。
ここで少し、止まろう。
もうすぐで今書いてる物語のひとつのおわりがやってくる。
まだまだそれを原稿として完成させていく長い道のりはあるけど、ひとつの旅の区切りがつくようで、頭とか心が透明になっていく心地がする。
はじまりとおわりを知る時の感覚は、自分に透明に光が差し貫いて、何かを今知った、と思うけど、それが何なのかはよくわからない。
いつまでもそれはわからないままかもしれない。
でも、わからないままでいいから、何回立ち止まってもいいから、とりあえずどこかへ歩ける限り歩きつづけたいと思う。
今自分の書けるだけの言葉をがんばって書けるだけ書きたい。
それがどんな意味があることなのか、考えても問われてもうまく答えることなんてできないのだけど、とりあえず書きたいと思う。
書きたいと思うことも、書けることも、とてもしあわせなことだと感じる。
思うようにならないまま感じたままに書きたい。
感じることはうれしいより苦しいと思うことが多いけど、それを言葉にして見える景色の残酷な美しさに言葉をなくす瞬間がすきだ。
言葉をなくす瞬間のために言葉を書く。
とりあえず、今見えるひとつのおわりの予感に向かって、大事に、そしてどこか気楽に、歩いて書いていきたい。