叔母と母
何名から昨日はお母さんは大丈夫だったの?とご心配いただきました。
ありがとうございます。
アメリカの叔母さんは、あの日に一度札幌に夕方くらいにきて、1時間くらいお話しして帰ったようでした。
翌日の朝(つまり昨日の朝)9時に僕は一応念のために、母のところに見に行き、昨日の夜中はどうだったか介護士さんにお尋ねすると、いえ昨日はゆっくり寝ていました。大丈夫だったようですよ。と言っていただきました。
母に、昨日は叔母さんがきたのはわかってる?と聞くと、それは当たり前だよ。覚えているよと言っていました。
母との会話で叔母さんがなぜ母に親しい感じを持っているのか聞くことができました。
あの子は、私の母の一番下の妹の子供でさ、れいこっていうのだけど、その母の妹は高校教諭で子育てを全くしない人だったんだよ。
ご主人も高校教諭だったので、二人して子育てをしない。なので、母が預かったんだよ、大けんかの末にね。
その時には私は20歳代前半、根室市立病院に勤務していたんだ。その子はまだ小学校にも上がらない女の子で、3,4歳だったかな。あんたのおばあちゃんも根室でとれた魚を釧路に売りに行くような行商をしていたから、家にはいない。私が背中におぶって仕事にいったもんだよ。
母親代わりに近い感じだったのかな?
そうだね。今見たいに預ける保育園もない、家においてでかけても暖房もないしね。当時は石炭だったからくべる人がいないと消えちゃうのさ。だから、連れていくしかなかった。
病院ではみんなにかわいがられたんだよ。
そうだったんだ。
だから、誰かが私の子供じゃないか?と言い出した人もいるくらいでさ。
うんうん。そうだろうね。
そんな数年を過ごしていたんだ。小学校に上がるようになってね、それでようやっと、自分の家に戻るようになったってわけだよ。
たぶんあの子は家にはだれもいないからね、石炭に火をつけて、釜でごはんを炊いてって小学校から一人でやってきたはずだよ。
なるほどね。だからあんなにたくましいわけか・・・
親代わりの時期があったからね、きっと記憶に鮮明に残ってるんだよ。時代だったんだよ。
母からそんな話を聞き、初めて聞いた話にそんなこともあったんだなと理解をしたわけです。
とすると、母の今の状況を受け入れたはずです。
きっと感慨深い思いを持ったことでしょう。
また会う日までお元気で。