父の話2
昨日の父の話を書いていて思い出した事がありました。
最初からここを読んでいる人はわかってる事かもしれませんが、僕はよく日曜にはお寺にいくとか、神社に行くという話を書いています。
たまになんでそんなに日曜の度にいくんですか?ずいぶんと、仏様や神様に熱心なんですね。と言われることがあります。
そんな時はそーなんですよ、趣味でして・・・なんて事を照れて言っています。
実は、もともと世の中の真実を探求する事は趣味でもありました。
行きついたのが仏教でした。そこで僧侶の学校にも通いました。
でも、毎週の日曜に通うようになるとは思っていませんでしたし、自分の為ならきっと行かないと思います。くじけています。
父が亡くなった、7年前ですが、葬儀の喪主は当然に母です。僕は施主を仰せつかりました。
当時母は、記憶も鮮明でした。葬儀の際に父の事を皆さんにお話ししないといけなく、相続関係の問題もあり、父の生い立ちを調べないといけないことになりました。
ところところ聞いてはいましたが、父の出生から上海に渡りそこで渡航できなく中国に残された事。中国人のご家庭から逃げ出して、一人で樺太に行き、そこで乞食をしていたこと。
その乞食から逃れようと、密航を企て日本にたまたま行く船に乗った事。
船は当初、室蘭につき、室蘭からどういうルートをたどったか岩内に行ったこと。
そこで、施設に入れられ幸いにして、里子にすぐにだされ渡邊さんというご夫婦お二人に引き取られたこと。
その後数年もしない間にそこには子供が生まれ、その後、そこの主であった渡邊氏は亡くなった事。
父は中学生ながら新聞配達や、夜中の土木工事でそこの義母と義弟を食べさせて行った事。
すべて役所に行き、岩内の役所や釧路に移り住み釧路での届け出も調べて確認もしたのです。
調べていくうちに、父がかわいそうでなんて辛い人生だったのだろうと思うと、父の息子として生まれ
なにかができないかと考えた末に真言宗の僧侶の方から、お寺で亡くなった父を祈り、護摩法要に参座したり朝の勤行をすることであの世の父の力になれるというのです。
もうやれることはそれしかなかったのです。
そうして、僕の日曜のお寺の参座ははじまりました。
あの世の父はどう思ってるのかはわかりません。少しでもなにかが届く事を祈っているのです。