青函連絡船と母
母はもともと東京生まれで小学校入学までは日本橋に住んでいたと聞いていました。
それが根室という北海道の端というより日本の端に住むようになったのか、その謎は今でも謎のままです
祖母だけがその謎を知っていたはずですが、祖母は僕が大学生の時に亡くなりましたので、謎のままになりました。
母が一部知っていたようですが息子に知らせようとはしませんし、認知が進んでしまった今となっては聞き出すこともできないでしょう。
母が父が運営していた医療法人延山会の患者さん向けの広報誌に、青函連絡船と私という題名で手記を書いていたことがあり、その手記を僕が高校生の時に偶然に目にすることになりました。
その手記には、まだ幼子の私が、母に手を引かれて初めて青函連絡船に乗ったと書いてありました。
青函連絡船は1925年に就航しており、それからずっと200キロくらいの距離間の北海道と本州を結んでいたことになります。
初めての船で大喜びの私と対照的に母はずっとデッキで景色を眺めていました。
そう書いてあったと思います。高校生の頃に読んだ記憶ですのであいまいですが。
その後、その手記を家中探したことがありましたが、今のようにネット上に痕跡が残ることもない時代でしたので、紙媒体でしかなかったあの頃の広報誌はもうどこにもありませんでした。
推察するに、母が幼少期、おそらく昭和20年になるかならないかの頃でしょう。
祖母はなんらかの事情で東京を去る決意をしたはずです。
その決意が並々ならぬ決意だったのかと思います。
今のように1日で東京から根室までいけるような時代ではなかったはずです。
青函連絡船で乗り継ぎ、おそらく函館で一泊したか、札幌まできたか。
どういうルートで根室にはいったのかはわかりません。
母の手記は、東京の苦しさに比べたら、これからどんな事が待っているのかわくわくするような不安なような気持ちでいっぱいです。
しかし母はどんな気持ちなのか聞いてみたくても聞けません。
それだけ母と娘の距離があの頃はありました。
とあります。
母と娘の距離感があったのか、気を使った娘の配慮だったのかと思います。
手記は青函連絡船の中の事がいろいろと書かれていました。
僕は青函連絡船に乗ったのは一度だけ修学旅行でしたので、母の手記の事を思いだして乗ってみようと思っていたのを思い出しました。