レトロな高校時代〜ヘレン・ケラーを演じたわたし〜
一九七三年。。
わたしは一六才。高校二年生だった。
望んで入学した高校だったけれど、進学校だったために、とにかく「勉強」にばかり追いまくられる日常を過ごしていた。
まわりの友達がみんな「出来が良い」ので、付いていくだけでも四苦八苦だった。
それでも、わたしは、勉強ばかりのたいくつな日々に、少しでも「反抗」したくて、「部活」にも精を出していた。
わたしが所属していたのは、「語学部」だ。
「語学部」では、毎年、文化祭で、「英語劇」を公演していた。脚本も、英語で、生徒自身が創り、大道具も、小道具も、衣装も、全て手作りで行う。
「英語」で「脚本」を創って、それを暗記して、「演じる」ので、すごく勉強になる、という、いかにも進学校的な「発想」の「部活」だったと思う。それでも、わたしは、「演劇がしたくて」入部していたのだ。
わたしが入学した年には、「マイ・フェア・レディ」を、先輩たちが上演した。主演の「イライザ」を演じた先輩は、ものすごく英語が上手で、「到底敵わない」と思ったものだ。
わたしは中学時代から「演劇部」だったし、その頃は、月に一度は、夜に、プロの劇団の公演の「鑑賞」にも行っていたので、「キャスティング」されたい気持ちもあった。けれど、「英語」の発音には、あまり自信が無かったので、内心はドキドキしていた。
やがて、秋の「文化祭」に向けて、その年のミーティングが始まった。
すると、そこで、わたしは、なんと、満場一致で、「準主役」に抜擢されてしまったのだ。
恐れ多い。
と、思ったけれど、でも、「納得」せざるをえなかった。
何故なら、上演の題目は「奇跡の人」で、わたしにあてがわれた役は「ヘレン・ケラー」だったからだ。
「ヘレン・ケラー」は、七才の少女だ。
だから、「小さいわたし」以外、出来そうな人はいなかったのだ。
選ばれてしまったわたしは、それからは、「役作り」に邁進しだした。
まず、毎朝、授業が始まる前に、学校の屋上に行き、お腹に手をあてて、一時間くらい、大きな声で、発生練習をした。
さらに、夕方下校してからは、家の座敷で、腹筋三十回と逆立ち五回を必ずやったのだ。
とにかく「体力」をつけなきゃ、と思った。
ヘレンは、ものごころついてからずーっと、何も「見えない」、何も「聞こえない」状態で過ごしていて、「言葉」も知らず、「この世界」について何一つ「認識」することも、「理解」することも出来ない、という子どもなので、ひたすらに「暴れること」でしか、自分の気持ちを表現出来ない少女だ。
だから、「ヘレン・ケラーのわたし」は、上演中に、舞台上で、長い時間「暴れ続け」なければならないのだった。
それも、「大声」でだ!
もう、鍛えるしかないではないか。
その頃のわたしは、「乗り物酔い」がひどくて、バスに乗れず、高校までは歩いて通学していた。片道五十分、往復にしたら二時間近く、毎日、重い通学カバンを持って、家からひと山越えて、歩いていたのだ。
だから、今思うと、結構な体力だったと思うのだけれど、まわりの友達は、みんな、体格が良くて、とても体力があったので、わたしは、
「自分には全然体力が無い」
と、すっかり思い込んでいた。。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
やがて、夏休みがやって来た。
配役が決まったのは、多分六月くらいだったと思うから、頑張ったわたしは、大分、体力がついていた。なんだか、小さい「細マッチョ」な人になっていたのだ。
そして、毎朝の発声練習のおかげで、「声」も、かなり出るようになっていた。
もう、配役のみんなの、セリフも入っていたし、大道具なども作りながら設置して、衣装も付けて、実際に発表する体育館での練習を、熱心に、時間の許す限りやっていたように記憶している。
でも、何せ、わたしのセリフと言ったら、一応「英語」なのだけれども、
「ウゥウォーラー!」(水、と言っているつもりの英語)、の「ひと言」だけである。
ただし、「そのひと言」を発するときは、この演劇の、最大の「見せ場」なのだ。
だから、たとえたった「ひと言」でも、決してはずすことは出来ないというものだった。
「そのひと言」を発する前に、手話で、サリバン先生が、ヘレンに語りかける。
「W」「A」「T」「E」「R」
と、一文字、一文字、手話の指を、触らせる。
「ヘレン、ものには名前があるのよ。」
サリバン先生は、そう言いながら、ヘレンに、のどを触らせて、サリバン先生がヘレンに向けて、喋っていることを分らせる。
そうして、
「ほら、」
手話の指の形を、ヘレンに触らせながら、井戸のポンプから流れ出る水を、ヘレンのもう一方の手に浴びせかける。。
すると、そこで、ヘレンは、生まれて初めて、手話の指文字と、もう一方の指に流れる「水」の感覚とが、同じことを意味しているのだということに気づくのだ。
そして、この「流れる感覚のもの」が「水」という「名前」なのだ、ということを、初めて「認識」する。
ヘレンは、大きく感動して、
「ウゥウォーラー!」
と、「生まれて初めての言葉」を発する!
「ものには名前がある」
ということを、見ることなく、真っ暗な世界に存在したままで「認識する」ヘレンを、わたしは、たった「ひと言」で「表現」しなければならない。
ヘレンは、「もの」と「名前」との一致を認識したことによって、その後、急速に、「理性」と「知性」とを獲得し、「暴れる少女」から、「教養ある少女」へと変身してゆく。
だから、「水を認識する場面」は、ヘレンにとって、さらには、ヘレンの家族にとっても、大変な「人生の分岐点」で、ドラマツルギーあふれる場面、ということになる。
究極の「見せ場」を演じるわたしに、決して、「失敗」は、許されないのだ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
この演劇の上演にあたっては、さらにもう一つ、乗り越えるべき問題があった。
それは、「奇跡の人」は、アメリカのお話なので、当然、ヘレンは「黒髪」ではなく、「金髪」だ、という問題だ。
舞台では、最初のうちは、感情のままに大暴れするヘレンだから、カツラを被ったとしても、暴れているうちに、もし、脱げたら、「お笑い」になってしまう。。
そこで、わたしは、「一大決心」をした。
上演の当日に、髪を「金髪」に染めてしまうことにしよう、と。。
「ほんとに?」
「大丈夫?親とか。」
みんな心配してくれたけど、
「きっと、大丈夫だよ。やるっきゃないよ!」
と、わたしは、強気で答えた。
上演の当日、友達が手伝ってくれて、「金髪」に染めてしまうことが決まった。
「そこまでやるの?」
と、母には、呆れられたけれど、わたしは、「絶対に良い舞台にする!」と意気込んでいた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
文化祭の「上演」の朝、わたしは、とんでもなく早い時間に学校に行き、友達に付き合ってもらって、髪を「金髪」に染めた。そして、お金持ちのお嬢様らしく、カーラーで髪を巻いた。
しっかりと、どうらんのお化粧もして、わたしは「アメリカの少女」に変身した。
さぁ、いよいよ、はじまる。。
頑張ろう!
それまでの「練習」の成果を発揮し、みんなで力を合わせて、わたしたちは、一生懸命に頑張った。セリフは、少々間違えても、「英語」だから、意外とわからない。
おはなしの流れさえ、間違わなければ、舞台は「綺麗に」進んでゆくのだ。
「三重苦はかわいそう」と、ヘレンは両親から甘やかされて育つ。
だから、気に入らないことがあると、「暴れる」ことで、意思表示をする。
その前半の「見せ場」。。
とにかくとにかく「暴れるヘレン」。
気に入らない食べ物は床に投げつけ、スプーンもフォークも、花びんも、投げまくる。髪を振り乱し、舞台中転げ回って、暴れまくる。そうして、好きな食べ物だけを、手で食べまくるのだ。ベタベタでドロドロになるわたし。。
体力勝負の場面は、からだを鍛えたことで、なんとか乗り越えた。
暴れるヘレンを黙って見ているサリバン先生。。
家族に向かって、
「甘やかしてはいけません。かえって可哀想なことになります。わたしに任せて下さい。」
と、言い残して、ヘレンを引き取ってゆく。
その後は、わがままなヘレンとかしこいサリバン先生との「一本勝負」だ。
サリバン先生は、知恵を絞り、あの手この手でヘレンを手なづけ、ヘレンの信頼を勝ち得て行くのだ。
そして、ついに、最後の「見せ場」が来た。。
サリバン先生は、ゆっくりと、ヘレンに語る。
「ヘレン、ものには名前があるのよ。」
「W」「A」「T」「E」「R」....。
ヘレンの手に、手話の指輪文字があてがわれる。そして、反対側の手には、ポンプから井戸水が。。
ヘレンは、ついに、「水」を認識する。そして、お腹の底から、絞り出すように叫ぶ。今だ!
「ウゥウォーラー!」
わたしの、たった一言の「セリフ」が、ついに、舞台に、放たれた。
少し、「しわがれて」、少し、「唐突」で、「必死な大声」は、舞台じゅうに響いて、客席に流れていった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
わたしたち語学部の「奇跡の人」は、体育館に結構な人を集めて、「大成功」のうちに「幕」を降ろした。
わたしは、ちょっぴり「時の人」になり、廊下で会った後輩に乞われて、「サイン」を書いたりもした。
面白くて不思議な体験をさせてもらったなぁ、と今さらながら思う。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
長らくわたしの「日常」の真ん中に、どーんと在った「舞台」は、終わってしまった。
気が抜けたわたしに残されたのは、もはや用済みの「金髪」。。
「その髪のままで暮らすの?」
「舞台」を終えて帰宅したわたしの「金髪」を見て、驚きを隠せない顔で、母は言った。
当然だ。
その時になって、「夢から醒めた」わたしは、
「どうしよう。」
と、思った。
遅い。
「金髪」は、きらきらと輝いていたけれど、「舞台化粧」を落として、普通の「日本人の女の子」に戻ってしまったわたしの顔とは、もう、全く似合ってはいなかった。それはそれは大変な違和感だったのだ。
「舞台の成功」と、みんなからの「賞賛」を浴びて、「いい気」になって帰宅する途中、周りからの視線が、なんだか痛かったことに、わたしは、帰宅して、母のその言葉を聞いて、ようやく気づいた。
なにせ、今から五十年も昔のこと、脱色もせずに、強引に染めた「金髪」は、「染料」も吟味していなかったから、もうすでに「ゴワゴワ」だった。
でも、どうしたら良いのか、わたしには検討もつかなかった。
それからの毎日、わたしは、「金髪」のまま、学校に通い続けた。。
有り難いことに、わたしの「舞台」を観てくれていた人たちは結構居たし、話題にもなっていたので、
「あんなに大きな声、出せるんだね ね。」
とか、
「いやぁ。頑張ったねぇ。上手だったよ。」
などと、先生方でさえ、褒めてくれるばかりで、
「その金髪、どうするの?。」
なんて言う人は、誰も居なかったのだ。
通学途中に、すれ違って、目をパチクリする人たちのことを、気にしないようにすれば、案外大丈夫だったのだけれど、それでも、髪は「ゴワゴワ」だし、わたしは、内心は、途方にくれていた。。
そんなある日、
「今日さぁ、お姉ちゃんて外国人だったの?って友達に言われたよぉ。」
などと、意味不明なことを小学生の妹に言われて、わたしは、ついに、
ーーもう限界だ!
と、思った。
母が通う美容室の先生に、母から相談してもらい、ようやくわたしは、髪を「黒髪」に染め直してもらうことになったのだ。
「舞台」から、すでに一ヶ月以上も経っていたと思う。。
わたしは、やっと、「日本人の女の子」に戻った。それに、美容室の先生のお手入れで、髪は、元通り、さらさらになった。
でも、あの時期、「金髪」の、長く伸ばした髪をなびかせて、通学した日々を思い出すと、今でも懐かしい。
「演じること」は、「快感」だった。
「自分」とは「違う人格」になれることへの「楽しみ」は、「外国人」を「演じる」ことで、さらに深く、わたしのこころに染み込んだのだった。
「演じたい。観ているのではなく、わたしが演じたい。」
そのおもいは、この、文化祭の「舞台」を経験したことで、わたしのこころのなかに、はっきりと自覚された。
十六才のわたしが抱いたそのおもいは、やがて「上京」して、大学生活のなかで、「大爆発」することになるのだ。。