幼年時代に。その2
つきあたりの床屋さんととすけや
大分幼い頃から、おそらく三才くらいから、わたしは床屋さんへはひとりで行っていた。というのも、行きつけの床屋さんは、家の前の道路を、左にまっすぐ行った、つきあたりにあったからだ。こどものわたしの足でもせいぜい五分あれば着く距離であった。
母と少し遠いスーパーマーケットに買い物に行き、帰り道に母が床屋さんにわたしを頼んで、お金も支払って置いていかれることもよくあった。
床屋のおじさんは、柔らかい優しげな人で、何故かいつもきちんと蝶ネクタイをしめていた。おじさんはとても丁寧で、わたしが子供だからといって子供扱いはしなかった。
「ちょっとだけじっとしてて下さいね。かわいくしてさしあげるからね。」
たった三才の子供に、丁寧語で話してくれるのだった。チョキチョキ、チョキチョキ、と良い音がして、わたしの髪はきれいに切りそろえられてゆく。切られた髪は、肩に停まったり、床に落ちたりしてたまってゆく。見ていて飽きない。おもしろいのだ。
ハサミを操る真剣なおじさんの顔を見たり、チョキチョキの音を聞いたり、家には絶対に無いくらい大きな鏡に映るわたしの顔をまじまじと見たりしているうちに、いつも散髪はあっという間におしまいになった。
「さぁ、おきれいになりました。」
おじさんは、満足げににっこりする。そしてわたしも、にっこりする。大きな鏡に、にっこり顔のおじさんとわたしが映っている。
「ありがとう。またね。さようなら。」
お礼を言って、わたしは床屋さんを出た。
でも、わたしは、まっすぐ家には帰らない。床屋さんのとなりにある、とあるお店に寄ってから帰るのだ。
そのお店とは、「とすけや」だ。「とすけ」とは、お菓子や小さなおもちゃが当たるこども用のくじのことで、わたしが育った地方の方言である。
ふだんはあまり行ってはいけないと言われているお店なのだけれど、床屋さんの帰りには寄っても良いことになっていた。
「ごめんください。」
とすけやのおばあちゃんにあいさつする。
「はいはい。」
奥からおばあちゃんが出てくる。おばあちゃんは、少し足を引きずりながらこちらに歩いて来る。
ポケットに入っている、握りしめた五円玉をおばあちゃんにわたすと、
「ここから引いてね。」と、おばあちゃんは、紙切れの入った箱をわたしの前に差し出す。箱に手を入れて、一枚のくじを引く。そして、おばあちゃんにわたす。
さぁ、ここからがドキドキだ。何がもらえるのかなぁ。
「五ばんだね。よいしょ。」と、おばあちゃんは、壁に貼ってある大きな紙の、五ばんのところに書いてある文字を読む。
そうして、
「あ、これこれ。この飴ね。はいはい、どうぞ。」と、
大きなまんまるのいちごの飴を二個、紙の小さな袋に入れて、おばあちゃんはわたしにくれた。
あんまりうれしくない。飴かぁ。
でも、しかたない。くじだもの。
紙ふうせんが当たったときは、とてもうれしかった。家に帰って、母に膨らましてもらって、たくさん遊んだ。
一番うれしかったのはラムネが当たったときだ。
「良かったねぇ。」と言いながら、おばあちゃんは、ラムネの瓶の紙を剥がして、勢いよくラムネのビー玉を押して、飲めるようにしてくれた。わたしはそのラムネをこぼさないように大事に抱えて、家までそろそろと帰った。
そして母と「はんぶんこ」して飲んだ。全部ひとりで飲んだらお腹をこわしてしまうからだ。
二ヶ月に一度くらい通った床屋さんの帰り道の、ささやかな楽しみ。床屋さんのおじさんと、とすけやのおばあちゃんとは、わたしの幼い頃を彩る大切な人々だ。
家の前の道を左にまっすぐ、つきあたりまで行ったところにあった、床屋さんととすけや。わたしたち家族が間借りして住んでいた「市役所の出張所」はもうとっくに無い。あの道は、まだあるのだろうか。
ブランコのおはなし
幼い頃のわたしは、食が細くて、ご飯があまり食べられず、普段はビスケットばかり食べている子供だった。無理に食べるとすぐにお腹をこわすので、お医者さんもお手上げだったらしい。何も食べないよりはましなので、消化の良いビスケットは、食べたいときにはいつでも食べて良いことになっていた。
そんなことだから、わたしは四才になっても、身長が八十センチくらいしかなかった。ニ才児の平均身長くらいである。小さすぎて、四才の子が普通に出来ることがなかなか出来なかった。
そのひとつが、「ブランコに乗ること」だった。
わたしはブランコに乗ることは大好きだった。けれど、小さいので、普通に腰かけることなどとうてい出来ない。ブランコには、「腰かける」のではなく、まず、「よじのぼる」のだった。それほど、ブランコはわたしにとって高かったのだ。
一生懸命に「よじのぼり」、やっとのことで「腰かける」。そんなだから、わたしは、ブランコに腰かけているだけで、漕いだりはしない。というか、「漕ぐ」なんて出来ないのだった。
それでもわたしは、ブランコに腰かけているだけで、ブランコに乗っているつもりになっていたし、お空を見上げているだけで充分満足していた。
いつも遊ぶ小学校の校庭には、二つ並んだブランコがあった。わたしは長い時間を、一人、そのブランコに腰かけて過ごした。そうして、いろんなことを想像しては楽しんでいた。
ところが、ある日、そんなわたしの前に、親切なお友だちがあらわれた。近所の顔見知りの小学生のおねえさんである。
「漕いであげるよ。」
そう言って、わたしの背中をそっと押し始めた。優しいおねえさんだった。
でも、わたしは、ただただこわかった。こわすぎて、
「やめて。」
とも言えない。ブランコは、わたしにとっては、動いてはいけないものだったのだ。
ブランコが動いてはいけないもの、だなんておねえさんは考えもしなかったろう。
わたしは、途方にくれた。
ーーこのままずっとブランコは動き続けるのだろうか。どうしよう。
「楽しい?」と、
おねえさんは聞いてくるのだけれど、わたしは答えることが出来なかった。
おねえさんは優しく漕ぎ続けた。どこまでも親切なのである。
そこで、絶望したわたしは決心した。
「えい!」とかけ声をかけると、なんと、ブランコから飛び降りたのだ。
わたしがいきなり飛び降りたので、おねえさんはあっけにとられて見ていた。
するとその瞬間、ブランコの板が返って来て、尻もちをついているわたしの頭を直撃した。
「うわーん。」
わたしは泣きながら、一目散に、走って、家まで帰った。
母が、びっくりして、
「どうしたの?」
と聞いたので、わたしは、ただ、
「うわーん、ブランコから落ちたー。」と言って泣いた。
頭は、ぷーっと腫れて、たんこぶが出来ていた。
「危ないねー。」
と言いながら、母は、味噌を貼った手ぬぐいを頭に巻いてくれた。
一晩寝たら、たんこぶは無くなっていたけれど、わたしは、そのあとしばらくは、ブランコに近づかなかった。
ブランコは「よじのぼる」ものではなく、「腰かける」もので、ときには「立って乗り」、天まで届くくらい漕いで楽しむものだ、と知ったのは、それから何年も経ってからのことだった。
それでも、あの日、動き続けるブランコに絶望して、一気に飛び降りたときの衝撃は、今だに忘れられない。
とんぼ採りのお兄さん
「変わってるね。」とよく言われたけれど、三、四才の頃から、わたしは虫が大好きだった。虫は、形がおもしろくて、動きかたにそれぞれ特徴がある。見ていて飽きないからだ。
なかでもとんぼは、わたしの憧れだった。透き通った、不思議な形の美しい羽を広げて、空を優雅に飛び回るとんぼたちを、ただただ追いかけるだけで、わたしは十分に楽しかった。
よく遊んだ裏の小学校の校庭には、夏休みの頃、昼過ぎから夕方になると、沢山のとんぼが集まってきた。
夏のさかりのしおからとんぼから、秋のはじまりのあかとんぼまで、わたしは追いかけ、指をさして数を数えながら、飽きずに眺め続けた。
小さな女の子だったわたしは、虫取りの網も虫かごも持ってはいなかった。とんぼは「眺めるもの」で、「採る」なんて考えたこともなかったのだ。
そんなある日、わたしは、校庭で、一人のお兄さんと出会った。
お兄さんは一人で、虫取り網でとんぼを採っていた。大きな虫かごには、すでに沢山のとんぼが入っていた。
わたしがじっと見ていると、お兄さんはわたしの視線に気づいて、やがてわたしのほうにやってきた。
「すごいだろ。」
お兄さんは自慢げに虫かごをわたしの前に差し出した。
お兄さんは十歳か十一歳くらいに見えた。ずいぶん背が高くて、真っ黒に日焼けしていて、大きな麦わら帽子をかぶっていて、小さなわたしからは、顔がよく見えなかった。
「これ、全部とんぼ?」
「そうだよ。」
「これ、どうするの?」
「どうもしないよ。採っただけ。」
「ふうん。」
採っただけなんだ。わたしは不思議に思った。
虫かごに入れられたとんぼは、もうすっかりあきらめたみたいにじっとしていて、なんだかかわいそうだった。
お兄さんは、今まで会ったことのない子供だった。たぶん近所の子供ではないなと思った。
「とんぼさん、もう飛べないの?」
思い切ってわたしはお兄さんに聞いてみる。
すると、お兄さんは、
「出してあげたらまだ飛べるよ。」と言った。
「とんぼさんはどうやってつかまえるの?」
「とんぼは、網にかけて、それから、羽根を持って捕まえる。」
そうお兄さんは教えてくれた。そうして、虫かごのなかに手を入れて、とんぼの羽根を二枚合わせて、親指とおかあさん指でつかんでみせた。とんぼはびっくりしておしりをバタバタさせた。
「わたしもやってみたい。」
「いいよ。」
お兄さんは、虫かごをわたしの前に差し出した。虫かごの入り口からそうっと手を入れて、わたしはとんぼの羽をつかもうと頑張ってみた。
とんぼは、わたしの小さな手におののいて、いっせいに羽をバタつかせたので、わたしはとんぼの羽をつかむことが出来ない。
「出来ない。」
「最初は出来ないけど、出来るようになるんだ。」
お兄さんは得意そうにそう言った。
「お兄さんのとんぼ、沢山いるね。」
わたしはおそるおそる言った。
「うん。」
お兄さんは得意気である。
「ね、とんぼ、空に飛ばそうよ。」
「え?」
「わたしね、たくさんのとんぼがいっぺんに飛ぶところ、見たいの。」
わたしは、目をつぶって、お兄さんの顔も見ずに、できるだけ大きな声で言い 放った。自然に手を合わせていた。
「いっぱい採ったからなぁ。もったいないけど、でも、いっぺんに飛んだらおもしろいかもな。」
お兄さんはそう言ってくれた。
「よし。」
そう言うと、お兄さんは、
「見てろよ。」と言って、大きな虫かごを頭より高く持ち上げた。すごく高い。そうして、そっと、虫かごの入り口を開けた。
すると、入り口が開いたことに気づいたとんぼたちが、どんどんと空に舞い上がって行ったのだ。たちまち空はとんぼでいっぱいになった。とんぼは羽を広げて、輪を描いて、くるくると飛び去って行った。
ーー良かった。とんぼさんたち。また飛べるね。
わたしは、虫かごに閉じ込められていたとんぼさんたちが、また空に帰って行けたことがうれしくて、思わずにっこりした。
「お兄さん、とんぼさん、いっぱい飛んでいったね。」
「すごかったなぁ。」と、お兄さんは言った。
二人して、長いこと空を見ていたと思う。一生懸命に採ったとんぼを、惜し気もなく、いっぺんに空に放してくれたお兄さんには、そのあと、一度も会うことはなかった。
本当に、あのお兄さんはいたのだろうか。。
もしかしたら、男の子たちにどんどん採られていくとんぼさんたちがかわいそうで、幼いわたしが考えついた「ものがたり」のなかのお兄さんだったのかもしれない。
でも、たしかに、わたしは、あの日、たくさんのとんぼが、いっぺんに空に舞い上がっていったのを見たように思うのだ。
そして、麦わら帽子の背の高いお兄さんに、とんぼのつかみかたを教えてもらったように思うのだ。
ハエとアリと
ハエは嫌われ者だ。バイキンを運んで、食べ物にとまり、食べ物を穢くしてしまうからだ。でも、ハエの姿の美しさ、身振りの品の良さは、どんな虫にも負けない、と幼いわたしは思っていた。
出されたご飯を、いつまでも食べないでぐずぐずしているとき、いつもハエはやって来た。
「ほら、ハエが来ちゃったよ。追いはらって早く食べなさい!」
母が私を叱る。
ーーでも、食べたくないんだものな。おなか空いてないんだものな。
わたしはおなかが空かない子供だった。お空やお花や虫たちを見ているのがなによりの栄養で、いつも胸がいっぱいだった。
おなかが空いたら、ビスケットか梅干しのおにぎりを食べれば、それだけで元気もりもりになって、もう何も要らなかったのだ。
そんなわたしを心配して、母は栄養のある食事をきちんと三度三度出してくれた。
「ご飯は食べなくてもいいから、おかずはちゃんと食べなさいね。」
母はいつもそう言った。戦争のころに子供時代を過ごした母は、ひもじい思いをしながら育ったので、「なんでも食べられるのは幸せなんだよ。」と口ぐせのように言っていた。
少食なわたしのために、いろいろ工夫してお魚やお肉を焼いて、よく食卓に出してくれた。
それでも、母の気持ちがわかっていても、わたしはおにぎりとビスケットばかり食べていて、ちっとも大きくならなかった。
わたしは、むしろ、わたしのおかずにすがるハエのほうに、興味がわいていたのだ。
ハエは、おかずの上で、変わった動きをする。ものすごい速さで、手を合わせてすりすりする。足もきれいにする。ハエには手足が六本もあるので、手と足の組み合わせもいろいろ出来て、頭や羽根も使って、いろいろやる。満足がいくまですり合わせをするにはずいぶん時間がかかるのだ。
わたしは飽きずにながめた。ご飯を食べるよりも、ハエを見ているほうがずいぶんと楽しい。
そのうち、ハエのまねをしたくなってきて、わたしは、そうっと近づき、一緒の動きかたをしてみるのだった。そんなときは、もう、わたしは、完全にハエになっていた。ハエは、そんなにわたしを、けげんそうな顔つきで見てくる。首をかしげているのだ。本当におもしろい。
あきれた母は、もう何も言わない。ハエがすり合わせを終えて飛び立つと、もう食べられなくなってしまったおかずを片付けはじめる。そして、
「全く。何を考えてることやら。。」
と言って、ため息をつくのだった。
ハエは、わたしから見ると、妖精だった。手足のすり合わせは、それはそれは見事で、美しい。まじめに一生懸命生きているのに、嫌われ者なのは、なんだかかわいそうだった。
結局、ご飯に海苔の佃煮をのせただけのお昼ご飯を食べると、わたしは外に出る。
間借りして住んでいる市役所の出張所のお庭に、アリの行列が出来ていることがあるので、それを探しに行くのだ。
出張所にはいろんな人が来る。小さな子供を連れたおかあさんたちも、様々な手続きのためにやって来る。
夏の暑い日、手続きの最中に、うるさくしないように、アイスをあてがわれて連れて来られた子供たちが、うっかりアイスを落としてしまったりする。すると、その場にアリたちが登場するのだ。
アリたちの行列はとても長い。アイスが落ちているところまで、どこからか続いている。わたしはいつも、そのはじまりがどこなのか、つきとめるのが楽しみだった。
アリたちは働き者だ。どんなに暑い日でも、一生懸命に列をなして歩いている。そんなアリたちに対しては、みんな優しい。
「アリさんは偉いねぇ。」と、みんな口々に言う。
ーーハエにも優しくしてあげたらいいのにな。とわたしは思う。
ーーハエだって、偉いよ。
と思うのだ。
ーーでも、ハエは、バイキンだから、しかたがないのかなぁ。かわいそうだなぁ。
と、いつも思っていた。
そうこころのなかで思いながら、わたしは、毎日、ハエのまねを、一生懸命やっていた。
「あんたはハエのまねばっかりしてたねぇ、全く変な子だった。」
母はよくそう言って、笑った。一生懸命に工夫して作ってくれた母のおかずを、無駄にばかりしていて、悪かったなぁ。と、今は思う。もう亡くなった母に、またどこかで会えたら、謝れるのにな、と思ったりする。
すいれんの池
夏の朝、わたしは、家の裏木戸を開けて、「わたしのお庭」に行こうとしていた。「わたしのお庭」とは、隣にある小学校の校庭のことだ。
多分、待ちかねた出来事が待っているはずなのだ。今日か明日かと、朝と夕方と、ずっと見張りに行っていたのだもの。そろそろかな、と思うのだ。
わたしが楽しみにしているものは、校庭の端っこにある池のなかにあった。
「すいれんの花」だ。
一年に一度、小学校が夏休みに入った頃、ようやくすいれんは花を開く。見てあげないとかわいそうなのだ。せっかく咲いているのに、小学生は学校にいない。
先生がたもあまり見てはいない。わたしは、すいれんのももいろがとても好きなのだ。池のなか、大きな葉っぱに隠れるようにして咲くすいれんは、少し恥ずかしくて赤くなっているように見えるからだ。
校庭に入ると、一目散に池まで走る。
「さぁ、どうかな?」
咲いていた。やっぱり今日だったのだ。
可愛らしく、恥ずかしそうに、ももいろになったすいれんは、三個くらい咲いていた。まだまだつぼみもある。
わたしはすいれんの開花を見ることが出来て大満足だ。でも、ほんとうの楽しみは、実はここから始まってゆく。。。
わたしは「親指姫」になって、すいれんのお花のなかに入ってゆくのだ。そして、良い匂いの花びらのなかでお昼寝をする。目が覚めたら、お花から出てきて、葉っぱに乗ってみる。落ちないように気をつけながら、次の葉っぱに飛び移る。
そうしてまた、その葉っぱに咲くすいれんのお花のなかに入ってみるのだ。お花のなかから外の世界を覗いてみる。不思議な景色が広がっている。
面白いなぁ。
と、これは、想像の世界。でも、わたしは、その想像を、しごく楽しむことが出来た。
三才くらいの頃、絵本で「親指姫」を知ったのだけれど、それからは、わたしは、いつでも、「親指姫」になることが出来たのだ。
たとえば、誰も入れないような木のむろなどにも、「親指姫」になれば入れるし、ちょっとしか開いてない窓からだって、「親指姫」なら抜け出せて、冒険に出発出来るのだった。
だから、冒険は、気に入った景色さえあれば、いつでもどこでも出来るのだ。想像の世界のなかで、それは無限に広がっていた。楽しいので、わたしはひとりでよくニコニコしていて、そんな私を見て、母などは気味悪がっていたものだ。
「何を見て笑ってるの?」
良く母から聞かれたけれど、わたしには何も答えることが出来なかった。説明するのが難しすぎたのだ。だからただ、ニコニコしていた。
その日、ひとしきりすいれんの池で遊んだあと、わたしは、大満足で家に帰った。きっと、ずっとニコニコしていたと思う。
そうして、わたしは、最近ねだってやっと買ってもらえた植物図鑑を手にとった。その植物図鑑は、「世界の植物」と言うもので、身近な植物だけでなく、世界中の変わった植物も載っていた。
そこで、わたしは、大変な植物を見てしまったのだ。「子供が乗れる大きな葉の植物」である。それは、世界のどこかの、「あまぞん」というところにあるらしかった。
一人の女の子が、大きな葉っぱに乗っている絵が描かれていた。
「たいへーん。」
わたしはあせった。もう「親指姫」にならなくたって、ほんとうに、葉っぱに乗れるのだ。「あまぞん」というところに行けるなら、だ。
「あまぞん」に行かないとな、と四才のわたしは決心した。それまでは、仕方がないから、「親指姫」になって冒険するとしよう。
すいれんの花は、明日の朝も、きっとわたしを待っているだろうから。
すいか畑とおじいちゃん
もうとっくに亡くなった母方の祖父をおもうとき、ある風景が甦る。
それは、祖父がすいか畑の真ん中で、すいかを頬張りながら笑っている風景だ。隣には、満面の笑顔で、すいかにかじりついているわたしがいる。
「うめか。」
「うん。おいしい!」
勢いよくわたしは答える。
暑い夏、母の実家にお泊りしているわたしのおやつはいつも、畑でとれる野菜だった。
実家の庭の端っこの、昔ながらの倉の裏手にある小川にかかっている、祖父お手製の橋を渡ると、一面の畑が広がっている。そこには、きゅうり、なす、トマト、とうもろこし、そしてすいかが沢山生っていて、収穫されるのを待っているのだ。
祖父は気まぐれで、とくに早朝でなくとも、行きたいときに畑に出る。主に農作業を行なっていたのは祖母と長男のお嫁さんだった。
祖父が一日のうちにやっていたことといったら、チャボの餌やりとわたしのおやつの収穫と庭木の手入れ、あとは近隣の人々とのお茶飲みくらいであった。あの頃、祖父は、もう隠居暮らしをしていたのだと思う。まだ五十代始めだったのに、である。
その日のりんご園の往復に疲れたわたしとマリーは、実家に戻ったときに、座敷に祖父が座っていないのを見定めると、橋を渡って畑に行く。そういうときにはたいてい祖父は畑にいるからだ。
祖父は、すいか畑の真ん中に何故か座っている。わたしとマリーの姿を見つけると手で合図する。
「野菜はな、取ってすぐに食べるのが一番うめーのさ。」
そう言って、祖父は、きゅうりでもトマトでも取ったらその場で上着でキュッキュッと拭いて食べてしまうのだ。
わたしもすかさず真似をする。ほんわり青臭い味のする野菜たちは、たしかに、とても甘くておいしいのだった。夏の暑さで火照ったからだに、きゅうりやトマトはとてもしみる。
でも、圧巻はすいかだ。祖父は、良く熟れたすいかを選んで、
「これがきっとうめーな。」
と言い、そばにある石にぶつける。すると、上手にパックリと、すいかは真っ二つに割れるのだ。
そこで祖父とわたしはすいかを山分けする。小さいわたしには、手にあまるほどの大きなすいかだ。しかもとても重い。頑張って、すいかの中に顔を突っ込んで食べるのだ。
顔じゅうがすいかの果汁で真っ赤になる。髪までベタベタになる。でも、そんなことがどうでも良くなるくらい、そうやって食べるすいかはおいしいのだった。
食べ終わると、そばにある井戸で、ベタベタの顔を洗う。髪まで洗ってしまう。
「ばぁさんには黙ってろよ。」祖父は必ずそう言って、にやりと笑った。これは、遠い夏の日、わたしと祖父との間にかわされた密約である。
その頃、からだが弱くて、すぐにお腹を壊してしまうわたしが、そんなに無茶にすいかを食べてもお腹を壊すことがなかったのは、今考えても不思議だ。
そして、夜、大家族が揃った夕飯をも、普段は少食のわたしが、全く臆することなくもりもり食べることが出来たのも、どうしてなのかわからない。
あのすいか畑で、祖父はわたしに魔法をかけていたにちがいない。