不平等比較の誤謬

知り合いに、良いやつがいる。邪気を感じないし、何といっても純粋なのだ。癒し系というのだろうか。

一緒に働いても、一緒に遊んでも、あの人から害意を感じたことは一度だって無かったし、これからも無いだろう。そんなあの人を、僕は心の中で密かに抗鬱剤と呼んでいる。会って喋るだけで、心が安定する。生活の一部になってくれれば、生けるビルトインスタビライザーのような存在になってくれるだろう。叶わぬ願いだろうが。

しかし、良いことばかりでもない。善良な人間と過ごしていると、自分の醜悪さをまざまざと思い知らされる気がするからだ。あの人と時間を過ごして別れた後は、温かな気持ちの後に、決まって惨めになる。

どうして、君はそんなに良いやつなんだ?

どうして、僕はこんなに酷いやつなんだ?

という具合に。

このような暗澹たる気持ちに襲われるのを防ぐためには、認知の歪みを認識し、是正しなければならない。

そもそも、他人と比較すること自体意味がないという意見もあるだろう。しかし、人間性を判断する絶対的な基準など無い以上、自分がどのような人間であるかを知るためには、誰かと比較しなければならないのだ。ただ、ここに大きな落とし穴が隠れている。

昔は良かった。

最近の若者は〜

誰しも一度は上のような言葉を耳にしたことがあると思うが、これらもまた同様の陥穽に陥っている。端的に言えば、それは二者間の比較において、それぞれ基準が異なっているという誤謬だ。チェリーピッキングと言ってもいいかもしれない。

例を挙げよう。甲、乙の両者間で何らかについて比較を行う際、当該項目が固定値で無い限りは、凡そ以下の九通りが考えられる。

①甲の平均値と乙の平均値
②甲の最大値と乙の最大値
③甲の最小値と乙の最小値
④甲の平均値と乙の最大値
⑤甲の平均値と乙の最小値
⑥甲の最大値と乙の平均値
⑦甲の最大値と乙の最小値
⑧甲の最小値と乙の平均値
⑨甲の最小値と乙の最大値

具体的な例を上げるとすれば、不良が偶に登校すると褒められるのに、優等生が偶に遅刻すると叱責されるというアレである。両者を比較することは不公平であるのみならず、何の意味もないのである。

という訳で、あの人の良い部分と自分の悪い部分を比べて勝手に落ち込んでいる僕は、アホと言う他ない。今度からは、ちゃんと上記①から③の基準で比較することにしよう。

まあ、それでも負けてるんだけどね。

お話にならない。

比べることが、烏滸がましいと言えるほどに。

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