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私はピアノ
<曲>
桑田佳祐
「60年代ポップスというか、演歌のエッセンスというか、イメージはザ・ピーナッツの『恋のバカンス』ね。
あの時、遊びで演歌のコード使って、曲を作っていたんですよ。1時間に50曲ぐらいできたのかな。その中の1曲です。
演歌っていうか、歌謡曲っていうか、音はどんどん下がっていくのにコードを逆に上げていく作り方をするんですね。
とにかく原由子に歌わせようと思って、彼女の持っているメルヘン的な世界をわざと避けて、簡単に作った曲です。」(1980年)
桑田佳祐
「演歌っぽく五七調の歌詞でわざと作った超オフザケソングだから。あれ出来上がった時、ハラボーがえらく嫌がったの。遊びでやってみようという事で説得したんだ。だから中間部で掛け合いが入るでしょう。あそこでこの曲の遊びの精神はわかってくれるんじゃないかと思ってた。」(1981年)
中間部の ”♪ オイラを嫌いになったとちゃう・・” の箇所は「クレージーキャッツを登場させた」と後年桑田は述べている。なるほど~。
ちなみに ”♪ この先どないせというのジャジ ” のジャジは松田弘が使っていた宮崎弁で、当時のオールナイトニッポンでは桑田さんが散々松田弘をイジっていた言葉。(しかしネットで「宮崎弁 ジャジ」と検索しても全く出てこないのは何故?)
言わずと知れた原由子初めてのソロヴォーカル曲で「この当時はまだヘタだった。自信がなかった。」とハラボー本人が振り返っているが当時のライブでは相当緊張していたそう。そこでこの中間部では「一人じゃなくて俺たちも一緒についているよ」と緩和させている優しさにもなっているのだ。そしてライブでの中間部での桑田のパフォーマンスはどれも素晴らしかった。
桑田佳祐
「一人のミュージシャンとして原由子の存在をもっと、サザンにとってもクローズアップされるべきだ」(1980年)
との言葉通りに「私はピアノ」の評価で原由子のヴォーカリストとしての才能は開花し、その後のサザンのアルバムには原由子ソロ曲が入るようになると同時にソロ活動も活発に行われるようになり、さながら「昭和女性歌謡史」の絵巻物を見せてくれているようだ。
また、この曲によって桑田佳祐のプロデュースワークの手腕も評価され、その才能も大きく開花するターニングポイントとなった1曲である事も忘れてはならない。
原由子
「『私はピアノ』を初めて歌って、それが私にとっては大きな転機となりましたね。」(1992年)
<1999.09.17記>