賭博賛歌
一文無しの朝は、いつも美しい。
大学2年生の時、年上の先輩に誘われて初めて賭け麻雀をやったときのこと。私はそのときルールもレートもよくわからずに遊んでいた。そんな事も分からずにギャンブルをやるのはいかがなものかと思うかもしれないが、自分としてはなんとなく可愛がってもらえる先輩が何人かいたから、なんとなく着いて行って遊んでいただけだった。その日はもちろん朝まで負け続けた。でも当時の私は自分がいくら負けてるのかもよく知らなかった。具体的な金額は伏せるが、大卒の初任給くらいは一晩で負けた。19歳の私にとっては全財産とよべるほどの大金だった。初心者である自分がカモにされた感はあった(今考えるとそうでしかない)が、仕方なく今持ってる分を全部払って、後で銀行にある分もほとんど引き出した。そのときはまだバイトをしていたし、地元の友達との小博打で得たあぶく銭があったので何とか払えたが、所持金はほぼゼロ円だった。
無一文になった経験は、それが初めてだったような気がする。私は当時、高校で部活を辞めた後ヒマになりすぎてずっとバイトをしていたし、地元の友達との小博打(ポーカー、大富豪)も当時は負けなしだった。それに加えて、うちの家は一般的なそれと比べて幾分か裕福であるように思う。いつからか両親は、口には出さなくとも「お金が余ってるから渡したい」というような様子だった。そのため、お金に不自由したような経験がほかの19歳の若者に比べて少なかったように思う。でも不思議とその日は、お金を全くもってない事がなんだか懐かしかったし、かえって清々しい気さえした。朝、最寄り駅で最後の五百円を払って牛丼を食べた。何故そうしたかはわからない、徹夜明けで一刻も早く家に帰って眠りたかったし、そもそも牛丼なんかに500円を使うような金銭的な余裕もなかったのにも関わらず、だ。
いよいよ財布の中身が1円やら5円やらの小銭だけになり、牛丼屋を出たときの朝7時の空を、私は未だに忘れることができない。優しい呼びかけのような朝の光が、微睡む街に降り注いでいた。空は透き通るように青く、遠くには真っ白の入道雲が異国の山脈の如くそびえたっていた。それは夏を待つ巨大な魔物だった。
それは新しい人生の始まりのような朝だった。自分が世界の中心にいる感覚が、しっかりとあった。これまでぼんやり生きてきた自分でも、その朝だけはハッキリと生を実感した。しばらく空を見上げていると、自然と涙がこぼれた。しかしこれは悔し涙などではなく、むしろ賭博で負けた悔しさや虚無感などはすでに忘れていた。生まれて初めて、世界の美しさに感動したのだ。
それから2年くらいは賭博にどっぷりとハマって、たくさん負けて、たくさんのお金を誰かに渡した。それから一文無しになると、必ずあの美しい朝の夢を見た。もちろんたくさん勝つような時もあったけど、そんなものには価値はなかった。賭博で得たお金はただ虚しいだけだった。
私はギャンブルにハマるような人は、口では勝ちたいと言いながらも、無意識的に「負け」を願っているのではないかと思う。もちろん、「勝ち」だけを目的とする、ギャンブルを仕事にしているような人も存在するのは確かだ。しかし多くのギャンブル依存症の人にとって、完全な「敗北」というのは気が狂うほど清々しくて、気持ちがいい。私は脳の事には詳しくないが、ギャンブルに限らず、勝負事で大負けした時は勝った時以上にドーパミンが出ているんじゃないかとすら思う。
あれから4年がたって、私は今も定職につかずにぶらぶら遊んでいる。今日もまた朝まで遊んで、所持金がほとんど底をついたところだ。やっぱりお金が無くなったときの世界というものは、いつにも増して美しく映る。朝、最寄り駅を降りて自宅へ帰る道で、あの日の空を思い出した。
私は、青空に涙したあの時から何も成長してないように思う。強いて言うならば、ギャンブルを辞められたということくらいだろうか。まあのんびり頑張ろう。