空白:青陽寮の殺人 1
あらすじ
叙述トリックにお気を付けください!
約二十年前に起きた殺人事件とその解決。時空を越えて跨がる断片的な謎。探偵・氷上の推理した真相とは。
1
「犯人はあなただ、吉崎さん」
氷上はいきなり言い切り、腕を真っ直ぐに伸ばして相手を指差した。
「何故」
吉崎は短く聞き返した。冷静なのか、怒りを溜め込んだ爆発寸前の静けさか、それとも見破られての自失。いずれにしろ顔の表情に変化は見られない。
だが、手の表情は微妙に変化した。告発直後から、吉崎は手をしきりに閉じたり開いたりし、指先をこすり合わせて汗を拭おうとする素振りが見られた。さらに、氷上がしばらく黙したのを不気味に感じたのかもしれない。吉崎は同じ意味の台詞を繰り返した。
「何故。何故、私が犯人なんだ?」
「理屈は非常に簡単です。殺害現場である廊下が犯行当時、停電によって真っ暗であったことは、先ほど証明しました。電球や鉢植えや虫の死骸からね。また、城西寺太郎氏は後ろから頭をいきなり殴られ、絶命しているのも事実です。そして被害者は自らの血を指先に付け、『よしすけ』と書き遺した」
「だから群馬さんが犯人なんじゃないのか? 群馬佳祐さんが」
群馬を見据えながらの吉崎の抗弁に、氷上はきっぱり首を横方向に振った。
「暗闇で、後ろから殴り殺された被害者が、どうして犯人の名前を知ることができるんですか」
「それは……」
「見えたのか? しかし被害者は懐中電灯を持っていなかった。
では、聴覚か? 被害者は補聴器がなければほとんど何も聞こえなくなるほどの難聴者だった。被害者は補聴器を外した状態で見つかっている。つまり、犯人の声を聞いたのではない。
触覚? 廊下で暗がりの中、相手が誰なのか分かるほど触れ合うというのは非常に不自然な状況です。唯一、肉体関係を持つ間柄ならなくもないかもしれませんが、群馬さんと被害者がそんな関係にあった痕跡ははどこにもない。
嗅覚はどうか。群馬さんは、人間の鼻で嗅ぎ分けられるほど個性的な匂いを持ってはいない。
味覚? 試した経験はないので断言は避けますが、相手を嘗めて誰なのか判断する人を、私は知りません。
まさか第六感で名前を書いたんでもありますまい。城西寺太郎氏は、そんなお茶目でふざけた真似をする人ではない。
以上により、あの血文字を書いたのは被害者ではなく、別の人間、そう、犯人だと考えるのが自然です。書いた理由は、群馬さんに罪を被せるためでしょう。しかし念のため、この理由だけで群馬さんを容疑者から外すのはやめます。裏をかくケースを排除する根拠は、どこにもないからです。
さて、『よしすけ』と書くからには、事件発生時において、群馬佳祐さんがこの屋敷に来られていたことを知っていなければならない。これにかなうのは、あなたの他に勅使河原さん、別田さん、それに群馬さん本人です」
「四人の誰もが犯人であり得るということを示しただけじゃないか」
「断ったはずです、最後までご静聴くださいと。次の条件を出しましょう。犯人は、『佳祐』と書いて『よしすけ』と読むことを知っていなければならない」
「そんなもの、誰だって知っている」
「今のはいい突っ込みだ、吉崎さん。しかし、誰だって知っている訳ではないのですよ。勅使河原さんと別田さんは、群馬さんのことをそれぞれ『けいすけくん』『けいちゃん』と呼んでるんです。言い換えれば、『佳』の字を『圭』と勘違いなさって、そのまま『圭』と読んでしまっている。群馬さんの下の名前を『よしすけ』と読むのは、本人以外には、吉崎さん、あなたしかいない」
完全に言葉に詰まった吉崎。この段階で充分に詰みだったかもしれないが、氷上は推理を最後まで披露することにした。
「群馬さんが犯人だとして、偽装のために自分自身の名前を書けるだろうか? 書けるとしたら、それは非常に勇気のある人です。もちろん、群馬さんにそれができなかったとは証明できません。ここで行き詰まるかと思えた我が思考ですが、幸運にも今朝、群馬さんが帰国子女である事実を知らされました。そして、これはまだこの屋敷内のほんの一握りの人しかご存知ないことですが……群馬さん、あなたは平仮名を書けますか?」
「いいえ」
群馬は短く、きっぱりと答えた。その場にいるほとんどの者が息を飲んだかのようだった。その雰囲気に圧されたのか、群馬は言い足した。
「漢字も書けません。片仮名なら書けます」
「ありがとう。さあ、これで群馬さん自身も、あの血文字を書けないことになりました。残るは吉崎さんお一人です」
とっくに肩を落とし、うなだれている吉崎を、氷上は満足をもって眺めた。
(素直で結構。少々手こずったが、これでこの事件も片付いた。次はどこに首を突っ込むとするかな)
* *
四月二十八日。大型連休を目前にして、総都大学学生寮「青陽寮」は例年通り、静けさを得つつあった。連休前の最後の講義が終わり、午後五時頃の出発ラッシュをピークに、夜になっていよいよ人影はまばらとなった。平生の十分の一ほどの賑わいもない。それは二つある棟――男子棟・女子棟とも同じだ。
「どっこにも行けない我が身を悲しむわ」
「あんた、まだいいじゃん。どうせ吉祐が誘いに来るでしょうに。私なんかバイトに明け暮れんのよ、全く」
「二人とも何言ってんのよ。私なんて、本当に暇なんだぞー!」
「よしよし、一緒に遊んであげる」
寮生四人が、かしましくお喋りをしながら門をくぐる。声がやけに響いた。
彼女達が手にしたポシェットやら鞄やらの中身はタオルにシャンプー、ドライヤー等々。外の銭湯に入ってきた帰りだ。
寮に浴室がない訳ではない。利用者が少ないこの時期を利用して、改修工事中なのである。ボイラーを総取り替えしたり、タイルを剥がして張り直したり、浴槽のひびを補修したりで昼間はなかなかやかましい。
「あ、急がないと」
「どうしたの?」
「もうすぐウェンズデイ・ドラマ・ナインの時間なのよ。あれ、欠かさず観なきゃ気が済まない」
「ああ、大丈夫。野球中継延長になってるって」
「どうして分かるの?」
玄関前に立ち、一人が不思議がって尋ねる。月明かりのない晩、橙色の光を発散する電球の下は、寂しさと暖かさが奇妙に同居したような空気があった。
「五分くらい前かしら。帰りしな、どっかの家が大音量でテレビつけてて、聞こえたの。七回とか言ってた」
「なーる。延長されたらどんなに早くても十分遅れか」
ドラマ好きの子が安堵したその刹那。窓ガラスの開かれる音が低く響いた。女子棟の一階の窓だ。
何気なく、音の方向を見やった女学生らは異様な物まで目撃してしまった。
人影が寮の廊下から外へ飛び出し、一目散に駆け出していく。
「な、何、あれ……?」
「さ、さあ」
そんな囁き合いをかき消す大声が、間髪入れずに起こった。まさに絹を引き裂くような悲鳴が、明らかに女子棟内から聞こえた。
また別の声が叫ぶ。
「泥棒ーっ!」
つづきは・・・
第二話 https://note.com/fair_otter721/n/n09da02e8c608
第三話 https://note.com/fair_otter721/n/n38c74277f30b
第四話 https://note.com/fair_otter721/n/nd14ff9595102
第五話 https://note.com/fair_otter721/n/nadc56028cc24
第六話 https://note.com/fair_otter721/n/n68252285aaac
第七話 https://note.com/fair_otter721/n/n4b562e05aa72
第八話 https://note.com/fair_otter721/n/nd4362fe92184
第九話 https://note.com/fair_otter721/n/nb043dee8b6ce
第十話 https://note.com/fair_otter721/n/n5fd801d08005
第十一話 https://note.com/fair_otter721/n/n86ff98e1afc6
第十二話 https://note.com/fair_otter721/n/n44e6c422aab4
第十三話 https://note.com/fair_otter721/n/n4ac841636402
第十四話 https://note.com/fair_otter721/n/nae38a3eb6d39
第十五話 https://note.com/fair_otter721/n/n8b65d4ca749a
第十六話 https://note.com/fair_otter721/n/na97d67a3b880
第十七話 https://note.com/fair_otter721/n/n95b9ef8788fc
第十八話 https://note.com/fair_otter721/n/ncc18648e0784
第十九話 https://note.com/fair_otter721/n/n0ca82225307c
第二十話 https://note.com/fair_otter721/n/nc62ffc3588be
第二十一話 https://note.com/fair_otter721/n/n132f6ec9e9ff
第二十二話 https://note.com/fair_otter721/n/n803ac8782c54