プロレスに詳しい人の意見を聞きたい、昭和プロレスの「ん?」その2
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『カール・ゴッチは本当にギャラで揉めて、スケジュールをキャンセルしたのか』
一つ目のテーマを映画で決めたので、二つ目も倣うとしましょう。ということで――動画配信サイトを通じて、映画「アントニオ猪木をさがして」を観ました。映画の感想を事細かに述べるのは本題から外れるのでよしますが、もっとよい物が作れたはずなのにという残念さはあったかなぁ。
さて、猪木が興した新日本プロレスは、昭和47年3月に旗揚げオープニングシリーズを行いました。同シリーズにカール・ゴッチは外人選手のエース格として参加。開幕戦では日本側エースのアントニオ猪木とメインで一騎打ちを行い、勝利を収める。その後、第二戦、第三戦と同じ外人サイドのドランゴ兄弟それぞれとシングルマッチで戦い、撃破。この三戦のみの特別参加で帰国しています。
ものの本によると、カール・ゴッチは元々、シリーズ全戦に参加することになっていたが、ギャラで新日本プロレスと揉めたため、第三戦まで出場したところで帰ってしまったとされています。
けれども、本当にそうだったのでしょうか? 仮に本当だったとして、欠場の理由付きで発表したのかどうか。一昔前までは、「カール・ゴッチは当時、WWWFのタッグチャンピオン(パートナーはレネ・グレイ)だったが、愛弟子アントニオ猪木のため、タイトルを返上して新日本の旗揚げに尽力した」というストーリーで語られることが多かった(実際には新日本旗揚げの約一ヶ月前に、キング・イヤウケア&バロン・シクルナ組に敗れてタイトル陥落)。換言すれば、男気のあるキャラクターであるゴッチが、ギャラで揉めてスケジュールをキャンセルした、なんてことを公表するとはちょっと考えづらい。
また、旗揚げシリーズが終わったあとの当時の専門誌を入手し、読んでみましたが、ゴッチの緊急欠場を非難する論調が、どこにも見当たりません。普通、エース外人レスラーがいきなり欠場したら、マスコミが騒ぎ立てるんじゃないかしらん。それが見られなかったのは、予定通りの帰国だったからでは?
と、何となく腑に落ちないものの、当時のシリーズ発表の載った古雑誌を入手できずにいるため、通説を信じるしかないなと棚上げにしていたのですが、あるときから俄然、全戦参加予定だった説に傾きました。当時の新日本プロレスがゴッチ全戦参加と発表していたのか否かは関係ありません。実際の契約が、端から三試合だけだったのではないか?という疑問です。
判断材料になったのが、雑誌GスピリッツVOL.45に掲載された旗揚げオープニングシリーズのポスター。これ、よく見掛ける大田区体育館で行われた第一戦ではなく、3月24日開催の川崎市立市民会館大会の物です。デザインは大田区大会の物と似ていますが、明確な違いがあります。大田区大会ポスターに載っているの外人レスラーの写真は、カール・ゴッチのみで、他の外人は名前のみ。一方、川崎大会ポスターに、ゴッチの写真はおろか名前すらなく、逆に他の外人達は全員顔写真付きで名前が掲載されています。
これはどういうことか。川崎大会のみ、そのようなデザインのポスターが使われた可能性を考え、ネットの画像検索を試したところ、3月18日と3月23日の大会も、同様のポスターが使われていた思われる写真がヒットしました。複数の大会の宣伝に用いられたのはまず間違いない。
つまり……ゴッチがキャンセルしたので、新日本プロレスはファン・お客への誠意としてポスターを刷り直し、その上、一旦街中に貼ったたくさんの旧ポスターを剥がし、新ポスターを改めて貼って回った?
でも、待ってください。旗揚げ当時の新日本は資金が乏しく、テレビ局が付いていないから放映権料も入って来ない、このままでは一年もたずに崩壊するだろうとささやかれていたと聞きます。そんな汲々としてた新日本に、ポスターを刷り直す&貼り直す余裕があったのか。ゴッチ不参加の大会すべてを興行日よりも前に貼り直さねばならないとしたら、相当な人件費と交通費が掛かるはず。人件費は涙を飲んでもらったとしても、交通費だけは絶対に掛かる。そのようなお金があるくらいなら、ゴッチにギャラの足しとして渡して、キャンセル数を少なくしてもらうことの方が大事な気がする……。
で、私が妄想するに、新日本は最初っからゴッチと三試合だけの契約だったのではないかと。当然、ゴッチ不出場が決まっている第四戦以降のポスターにゴッチの写真と名前を載せる訳にはいかないので、別のデザインのポスターを事前にきちんと刷っていた――。いかがでしょうか。間違っているなら間違っているでいいですから、ご意見や情報をお持ちの方、知らせてもらえると大変ありがたいです。
ちなみにですが、この仮説を裏付ける傍証が少しでもないかと、当時発行の古雑誌を入手して当たっていたところ、一つ、見付けました。
一九七二年の月刊ゴング五月号に、猪木と豊登の対談記事が掲載されており、その中に次のようなやり取りがありました。
~ ~ ~
豊登:しかしゴッチが三試合に出ただけで帰ってしまうのは惜しいね。(後略)
猪木:結局、ゴッチ先生も無理してきてくれたものだし、そうそう無理はいえない。ゴッチ先生、ニューヨークへ帰れば、フランスのレーン・ゴルトと組んでタッグのチャンピオンですからね。忙しいんですよ。何が何でも三月中旬までには帰国しなければと最初からのスケジュールでした。(後略)
~ ~ ~
ここでは猪木は「最初からのスケジュールでした」と明言しています。
無論、「約束のギャラを払えなくて帰られてしまった」とは大っぴらに言えなくて、「最初からのスケジュールだった」と隠蔽した可能性もあります。「レーン・ゴルト(レネ・グレイ)と組んでタッグのチャンピオン」というくだり自体、この時点では嘘ですし。
何が本当で何が嘘なのか混沌としてきましたが、私の想像では、とりあえず三試合契約をしておいて、続く日程については来日してからの交渉で……みたいな感じだったんじゃないかなあ?
ただし、想像が仮に当たっていたらいたで、別の疑問が生まれます。どうしてあとになって、ゴッチを貶めるような裏話を“ねつ造”して世間に流布したのか?と。
裏話が初めて公になった時期が、ゴッチが新日本を離れ、U.W.F.の顧問に就任した頃だったとすれば、当時の新日本サイドの誰かがゴッチを下げようとしたとしても分からなくはないですが……実際には時期が分からないので、何とも言えません。
近年になって公にされたカール・ゴッチに関する事柄で、もう一つ気になるのは昭和57年の春頃、全日本プロレスに参加する話が持ち上がっていた件。渕正信の話によると、馬場はゴッチをビル・ロビンソンと組ませ、世界最強タッグ決定リーグ戦に出す意向だったとか。
もし実現していたら、どんな戦績を残せていたのか。なかなか興味深い話だと思うのですが、長くなるのでまたいずれ。
それでは。
「その3」はこちら。
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