プロレスに詳しい人の意見を聞きたい、昭和プロレスの「ん?」その7
7.昭和五十六年4月、ボブ・バックランドは本当にマッチメイクで揉めてドタキャン&急遽帰国したのか
一九八一年4月3日、新日本プロレスの第二次WWFビッグファイトシリーズが開幕しました。同月23日まで約三週間の比較的短いシリーズと言えます。
外人の顔ぶれは、ケン・パテラやカネック、ダイナマイト・キッドらシリーズを通して参加する面々の他に、序盤にタイガー・ジェット・シン、中盤にボブ・バックランド、終盤にスタン・ハンセンというエース格外人が交代で特別参加。バックランドは10日から出場し、テレビ中継のあった来日初戦ではリック・マグローとタッグを組み、猪木&長州組を破っています。その中継終わりに、次週・17日の鹿児島大会では猪木のNWFヘビーにバックランドが挑むタイトルマッチが行われるとアナウンスがありました。
ところが17日に実際に組まれたのは、その日から参戦したハンセンが猪木に挑むNWFヘビー戦であり、バックランドはスケジュールの都合で帰国したとされたのです。
後に、このとき猪木vsバックランドが実現しなかったのは、「新日本のマッチメイクをバックランドが拒否し、当初のスケジュールを切り上げて帰ってしまったのでは?」と語られるようになっています。むしろ推測ではなく、断定している記述の方が多いかもしれません。
果たして事実その通りなのか。
疑問を覚えた根拠は単純です。そもそも、(一九八一年)月刊ゴング5月号のシリーズ前情報に、バックランドの出場は4月10日から15日までと記載されていたから。
ただし、実際にはバックランドの参戦は4月16日まででした。これは4月15日に予定されていた会場が野外だったことから、推測になりますが雨天順延された結果、16日までの参戦となったのだと思われます。
こうして芽生えた疑問を元に、詳しく検証してみます。
仮にバックランドの参加が10日から17日までだとしたら、他の大物二人、シン及びハンセンとのバランスが悪いんですよね。シンは3日から8日まで、ハンセンは17日から最終戦の23日までとなっていました。
それぞれの拘束期間を見ると、シンは六日間、ハンセンは七日間。ただしシンの場合、4月9日は興行自体がなかったので、実質的にはシンとハンセンの両者は同じ条件だと見なせます。
また、外人との契約は週単位で契約することがほとんどらしく、仮に八日間参加してもらうには二週間分のギャラが必要になり得る(実際にはそこまでえげつなくはないと思いますが、割高にはなるはず)。他の二人が一週間以内の特参なのに、バックランドだけ八日間(10日~17日だとしたら)とは、どこかいびつです。17日にバックランドVSハンセンを組むのならまだ分かりますが。
さらに言えば、月刊ゴング5月号以外の専門誌の事前情報に当たると、「シンが序盤の一週間、バックランドが中盤の一週間、ハンセンが終盤の一週間にそれぞれ参加する」という風な書き方をしているものばかりです。一週間=七日間と見なせば、4月10日から参戦したバックランドは、10,11,12,13,14,15,16日までで一週間参加したことになります。
ちなみにですが、同シリーズには上田馬之助も参加しており、相棒のシンと同じように開幕戦から、シンより一試合多い10日まで出ています。これも何だか不自然で、上田が「あ、シン帰っちゃったのか。じゃあ俺もやめとこ」ってな具合に、シンの誤ったスケジュールを新日本のフロントから聞かされていたんじゃないか?と、想像したくなります。
話を戻して、ここで推測。バックランドの参戦スケジュールについても、新日本のフロント内部で勘違い・行き違いが起きていたのではないか?と。つまり、一部のフロントはバックランドが17日まで出るものと思っていたが、実際には16日までしか契約していなかった。それだけのことなんじゃないかと……。
この時期の新日本プロレスは、シリーズ参加選手及び参加期間が実際と異なる事態が頻発していたように感じます。少し話がそれますが、参照材料として振り返ってみます。
たとえば、続く第4回MSGシリーズに一旦は出場が発表されながら、ボディビル大会に専念するとの理由でキャンセルしたトニー・アトラス。これ、改めて考えるとおかしいような。
ボディビルの大会の開催日程は、とうの昔に決まっていたはず。アトラスがその大会に出ると決めたのも、まさかMSGシリーズ開幕(5月8日)直前なんてことはありますまい。新日本は分かっていながら、ぎりぎりまで説得を試みた、もしくはブッキングをしたであろうビンス・マクマホンに説得を任せたのではないか。そして結局説得に失敗し、土壇場での不参加を発表せざるを得なくなった……?
さらに、同年一月の新春黄金シリーズでも、特別参加が発表されていたハンセンとダスティ・ローデスが来なくて、発表済みだった猪木&ローデスvsハンセン・シンやローデスvsパテラが流れてしまった。全戦参加のチャボ・ゲレロも来ませんでした。会場すら、最終戦が蔵前国技館から後楽園ホールに変更されるドタバタぶり。
さらにさらに、第一次WWFビッグファイトシリーズでは、タイガー・ジェット・シンが開幕戦から参加すると発表されていましたが、遅れに遅れて第十二戦からの参加となりました。理由の発表は、特にされなかったように記憶しています。
はっきり言って、いい加減にも程があります。ファン、特に会場に足を運んだ人達は不満や怒りを表さなかったのでしょうか。
この時期、発表と実際とが違っていて結果的によかったと言えるのは一つだけ。第一次WWFビッグファイトシリーズに凱旋帰国が予定されるも、キャンセルとなった佐山聡ぐらいでしょう。もしこのとき佐山が帰国し、WWFライトヘビー級王座決定リーグ戦に出ていたら……元NWA世界ミドル級王者の看板で優勝争いに絡みはするでしょうけど、決勝はやはり浜田vsアグアヨありきでしょうから。仮にこの次のシリーズでタイガーマスクに変身しても、定着しなかった可能性が高そう。
話が再び脱線気味になりましたが、要するに明白なのは、この時期の新日本プロレスのフロントならば、外人レスラーの参加期間で契約ミスを犯しても不思議じゃないのではと思えるくらい、変更が多かったという事実です。
バックランドの参戦期間を勘違いしたまま、4月17日鹿児島大会での猪木vsバックランのNWF戦を発表・宣伝してしまった。引っ込みがつかなくなり、バックランドに残留を打診するもNG。「スケジュールの都合でバックランド急遽帰国→ハンセンが代わりに対戦」とする台本で変更発表。その後、年月を経て「MSGの帝王、WWF王者たるバックランドが挑戦者扱いされ、しかも勝敗も納得の行くものでなかったので一方的にキャンセルした」という風な噂が立つようになった……てな経緯だったのではないかと思えてなりません。
それでは。