呪縛の人々
働けなくなったら生活保護があるよと人は言う。
れいわ新選組の山本太郎氏は言う。最後の最後にたどり着く命のセーフティネットである生活保護は、もはや監獄であると。
その通りなのである。
物書きには贅沢は禁物。これは昔から言われている事だが、その通りである。お金が充分にあれば人生の苦しみの大半は無くなるからである。苦しみが無きところに、人々を共感させる苦しみや辛さの共感は得られないからだ。楽しい事をつらつらと書いたところで誰にも共感は得られない。ドストエフスキーやトルストイ、それに太宰治など文豪は居るが、彼等は一様に貧困に苦しんでいた。例え本が売れて収入が大幅にあったとしても、それには馴染めず文豪と言うものは常にお金に苦労し貧困であった。
太宰治に至っては世の人気者であったのだが自殺願望まであり、今で言う鬱病なのかもしれぬが、常にお金に苦労していて妻子にも相当の苦労させていたのは周知のこと。また文豪でも資産家である森鴎外も居るが、彼の文書には共感が得られないと言うのは私だけか。
お金の苦労と言うのは、凄まじいストレスを抱える。明日食べる物が無いとか家賃や光熱費、それに中毒になっている酒や煙草を買えないなど、文書で読むより現実は相当な苦しみであることは明らかである。
生命の危機。それは他者からの理不尽な暴力だけではない。逆にそんなものは少ないくらいだ。人の生命を脅かすものは、お金なのである。
チャップリンの映画を観ると、どれも彼の扮するルンペンが巻き起こす悲しいまでの世間から取り残された心の優しいドタバタ劇であり、お金の無さからくる、賓の良いお金もちの紳士に憧れる貧困者の喜劇なのである。お金欲しさのために知らないものに飛びつき、知らないが故に巻き起こす勘違いと、それを知り得ない金持ちとの間に繰り広げられる喜劇である。
街の灯りでは、盲人である花売りの少女に一目惚れをし、その彼女の夢である目が見えるようになる手術を受けるために花売りをしてお金を貯めていると言う、現実的にはあり得ない夢を追いかける少女。彼女の為にチャップリンはドタバタ劇の中で偶然にも手に入れた大金を彼女に渡すのである。自分は貧困で食べる物すら無いのに、人の良さだけでは済まされない優しさで彼女を救うのである。その何とも言えない悲哀がオーディエンスの共感を得て爆発的なヒット作品となった。
では現実のチャップリンは貧乏だったのか…。と言うと、彼は貧乏だった。映画で収入を得ても、そのほとんどを更なる映画制作の為に注ぎ込んでいたからである。
名作ゴッドファーザーを作ったフランシス・フォード・コッポラも同様で、得た収入の殆どを制作に取られてしまい全財産を失う事になった。しかし彼の才能を買っていた映画仲間に養って貰っていたのだ。
貧乏が素晴らしいのではないが、何かを創るクリエイターと言うのは、常に貧困であるという事だ。でなければ共感は得られないし、名作にもならない。本であればライトノベルで終わってしまう大衆小説であろう。
彼等は有名になったから、まだ救われたが、有名になれなかったクリエイターも多く居る。何故かといえばそれは神の御心とでも言っておくしかない。
私は貧困である。
相当な貧困である。
しかし、私が貧困でなかったら。当然こんな文書は書いていなかっただろう。いや絶対に書いていなかったと言える。
それは良いことなのか否か。
私には分からぬ。
それは世の人々が判断する事であるし。
ただ私は誰かの救いになれば、それが素晴らしく自分の夢であるし目的だ。
それがこうして文書を書けると言うことは、それこそ神の御心を感じるし、貧困である事のありがたさを感じるのである。
貧困は辛い。辛過ぎる。しかし誰かの救いになるかも知れない物を創作出来るのだ。その喜びは恐らく表情が苦笑い的に歪んでしまっているだろうが、それでいいと思うのである。
今の世の中には、救いが必要だと思うのだ。心の救いが。お金では解決出来ない心の救いが絶対に必要だと日々痛感しているのだ。人の苦しみは数千年を経ても尚、続いている。数々の哲学者や文豪、宗教を生み出しても未だに人の苦しみは続いているのだ。これは人が人であるから故なのか、否か。それは分からぬが、救いだけは何時の時代でも必要であると、痛感している。
End