願いと対価

最近は大学受験でセンシティブな時期なので、
(神様!合格させてください!代わりに多少不幸な目にあってもいいから!)
などと、無意識のうちに祈っていることがある。
仮に、祈りの先が神であると仮定しよう。この考えをわかりやすく噛み砕くとこうなる。

①神は頭の中を観測できる
②幸福の対極には不幸が存在している
③幸福は不幸で購入できる

出典:脳

少し捻れているのが分かるだろうか。
この考えから逆算していくと、不幸な人間ほど幸せが訪れることになるし、そうすると幸福と不幸のバランスは全て崩壊する。この考え方は間違っているのである。

では、何故こうした間違った考えが僕の中で蔓延っているのか。それはおそらく、インプットを遮断したからだ。

少し前に、キリスト教をテーマにした小説を読んだ。隣人愛や、人の罪などに対するキリスト教の考え方を主軸に物語が展開されていき、僕はこうしたテーマについてかなり考えるようになった。

そして、隣人愛を実行しようと思い、見ず知らずの人の悩みを解決しようとしてパンクしたあたりで、宗教全般に対する関心は高い状態で、インプットを遮断したのだ。

インプットを求めた僕は、自分の記憶をさらにインプットした。情報源が自分だけの状態を繰り返し続けると、生成AIが再生成を繰り返し続けたときのように、思考の質が下がるのだ。
興味のあること、気になることについては中途半端に詮索をやめると、こうなりがちである。つまり、宗教に飽きるまでどっぷり調べ尽くさなければ、僕のこの歪んだ考えは矯正されないことになる。かと言って、調べたら調べたでさらに大変なことになりそうだ。面倒だと自分でも思う。

どうすりゃいいんだろうな〜神様教えてください

いいなと思ったら応援しよう!