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自分自身で安心感を創っていく時代「ニューロサイエンスと心と言葉の関係性」を考察


「こえる」の中でも
「峠を越える」などは慣用が
定着していますが、
「越」と「超」は意味のかなりの部分が
重なり合っているため、
文脈によっては「越」と「超」の
どちらで書き表したらいいか
迷うことがあります。


「越える」と「超える」の
使い分けについては、
解釈によってどちらも使えますが、
「越える」は場所、時間、点などを
通過するときに使い、
「超える」はある一定の
数量、基準、限度などを上回るときに
使います。


私たちの眼前には、
常に無限大の可能性の世界が
広がっています。
しかし、
その世界は壁に覆われていて、
どれくらい広いのかよく見えません。
壁の向こうは「未知」であり、
そこを越えて行くには勇気がいり、
危険が伴います。
一方、壁のこちら側は、
自分が住んでいる世界、
勝手が十分に分かっており、平穏です。
無茶をしなければ、安心感をもって
暮らし続けられると思えます。

孔子の「論語」での有名な一文に
”子曰く、吾十有五にして学に志す”
”三十にして立つ、四十にして惑わず”
”五十にして天命を知る”
”六十にして耳順う”
”七十にして心の欲する所に従えども、
矩を踰えず”
というものがありますが、

簡単にいえば、
「私は十五歳で学問を志し、
三十歳で独立し、四十歳にして
迷うことがなくなりました。
五十歳で天命を理解し、
六十歳のときに人の意見を
素直に聞けるようになりました。
七十歳のときに
自分の思うがままに行動しても
人の道を踏ふみ外すことが
なくなりました。」
このようになります。

つまり、
15歳 「志学しがく」学問を志す
30歳 「而立じりつ」自立
40歳 「不惑ふわく」惑わない
50歳 「知命ちめい」天命を知る
60歳 「耳順じじゅん」素直に聞ける
70歳 「従心じゅうしん」心の安定


なかでも
”五十而知天命 ”
(五十にして天命を知る)の意味は、
五十歳になって
天から与えられた使命(目的)を
悟るようになる、
「運命」や「宿命」という意味も
持っているようです。
五十歳で天命を知るというのは、
それまでの積み重ねが
しっかりあっての事なのですね。


生き物とは「目的」のある存在、
バクテリアなどの原始的な生き物は、
自分の外から「物質やエネルギー」
を選択し、取り込み、取り出すことを
目的としています。
これを「生理欲求」と呼び、


これに対してさらに進化した生物では、
「物質やエネルギー」だけでなく、
それ以外の事柄(これを情報と呼ぶ)
を選択し、取り込み、取り出すことも
目的とします。
生物にとって最も重要な情報とは、
その生物が卵から孵化した後の
ある短い時間に関わった情報です。


たとえば、
鳥が卵から孵(かえ)って、
最初に触れたものがボールであると、
この鳥は生涯、ボールとの強いプラスの
関係をもたずには生きていけません。
このように情報を選択し、取り込み、
取り出していくことを目的とするような
欲求を「関係欲求」といいます。


人は胎生であり、母親の体内で孵化し、
ある程度発育し出生します。
この結果、人は人との間に強い関係なしに
生きられない存在となります。


脳は、情報を選択して取り込み、
処理して取り出すことのために
分化した器官です。
脳の目的は自ら情報を選択すること、
そして選択した情報を処理するための
仕組みを創りあげること、


何かを思い描くと、続いて、
そのことを為すための仕組みを
創り始めます。
脳の中では、イメージが先で、
現実は後からついてきます。
脳がある情報を得て、
それについて「このことはこうだ」
とイメージしたら、
そのことの理由付けを後から
創りだしていきます。
最初に「大丈夫」とイメージしたら、
「大丈夫」に対応した仕組みが
脳の中に創りだされていくのですが、


私自身は「心」というものに
大変深い関心がありました、
人間の「心」というのは、
どう理解していったらいいのだろうか、
それからもう一つ、
「モノと心」というのはどうやったら
統一的に理解することができるのだろうか、
ということに大変関心がありました。
こんなことを考えていますと


そのうちに記憶の問題であるとか、
思考の問題について
『ニューロサイエンス』というのを
見ていました、
これは自分が求めている
「心」の理解とはちょっと違うなって
いう印象を持ち始めていたんですね。


ですから、
私は最近、言語、そして脳機能と
人間が行動する環境との間に、
有意な相互関係が存在するという
「ニューロサイエンス」に関する
研究、探究に大変興味を抱いています。


ニューロサイエンスとは、
まだ新しい科学ではあるものの、
人材が学習する能力をどのように
最適化するかを理解し、
ファシリテート(促進)していく上で
とても重要であるといえ、
脳の機能を理解し学習の仕方を
最適化することにより、
企業活動がうまくいくことは明らかで、
そうすることで最終的に売上が増し、
健康が増し、パフォーマンスが
向上することはわかっています。


もともと
脳の構造は文化の違いに関係なく、
すべての人間に共通に備わっていますから、
そういった意味においては、
ふさわしい環境を構築するとともに
自身の現状がどうなっているのか、
脳がどんなふうに機能しているのか、
どんな思考プロセスなのか、
何がパフォーマンスを向上する
原動力になっているのか、
独自の知的選択、天賦の素質、才能を
知る必要があるわけですね。


そうすることで
どこをもっと良くすべきかを
見ていくことうえで、
脳の柔軟性を把握できますし、
自分自身の真のドライバーが
何であるかが理解可能となると
思います。
それができた時に初めて
自分の学習潜在能力がどれだけあるかが
見えてくるのではないかと
思っています。


人間はどこに能力を
発揮していかなければ
ならないのかが問われている
そんな時代でもあると思います。


新しいことを為そうとするときには、
まだそのための「情報処理の仕組み」が
獲得できていないので、
失敗や挫折が伴います。
しかし、失敗や挫折をしても、
挑戦し続けることで成長があるように、
脳の学習戦略が出力依存性に
備えられているのは確かです。


挑戦を続けていくことで、
「情報処理の仕組み」は創られ、
創造性が生まれます。
「結果」よりも「プロセス」に
目的を据える脳の性質は、
人の本性そのものと考えることが
できるのではないでしょうか。


人間性の本来の姿を見誤っている
社会慣習に適合するように脳を創るのは、
私たちが生きていくことを
難しくさせてしまいます。
脳本来のあるべき目的に適合するように
脳を創ることによって、
私たちはより輝いて生きることが
できるのだと思います。


実際、私たちの心は言葉によって
作られていますし、心で何が
起こっているかというのは、
言葉で外に引き出してみないと
理解できません。
ですから、言葉の理解と心の理解
というのはほとんど一体だった、


だから、
そこに言語学の科学的な方法を入れて
人間の心を理解するという
方法を開発していけば、
私たちの心に関しても
自然科学がやってるのに匹敵するくらいの
科学的な精密さを持って理解することが
できるのではないかと期待している
わけですね。


人は成長の段階で
さまざまな単語を習得し、
知識として蓄えていきます。
つまり、頭の中に辞書を
作っていくわけですが、
これを心的辞書(メンタルレキシコン)
と呼んでいます。


言葉を発するときに
この辞書は役立ちますが、
たいていの人は、
話す事柄すべてを頭の中で
暗記してから話しているのではなく、
話し始めると同時に、文章を頭の中で
次々に組み立て話します。


文章を書くときも同様で、
書いているうちに
”私はこういうことが書きたかったのか”
とわかったりするものです。
これは声が出始める前、あるいは、
言葉としてアウトプットする直前に、
脳が何らかの働きをしている
結果だといえます。
脳からこうした情報が
伝えられるおかげで、
人は自分の声を正しいタイミングで
聞きながら発話することが
できています。


こうしたメカニズムを
解明する一つの手がかりとして、
声を出す直前に脳が持っているはずの
「見えない」情報を、
どれだけ顕在化できるかという
研究が行われていますし、


脳の働きを調べることで
考えること(思考)と
言語の関係性に迫る試みが
始まっていますから、
”すべての答えは自分の中にある”
この「不思議」をいかに
解明していくかが、
言語科学の面白さの一つでも
あると同時に、
自分の心の声(脳の思考を重ね)に従って
行動してみる、
私たち自身も”トライアル&エラー”を
重ねながら、
本当の安心感を自身の潜在能力で
築いていきたいものですね。


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