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音楽語りvol.1 銀杏BOYZ「援助交際」

銀杏BOYZを聞いている奴等には日々さまざまな偏見がぶつけられているが、それらは基本正しい。好きなバンドに銀杏BOYZを上げるやつはまあまあキモいサブカルオタクだ。しかも結構頻繁に遭遇するタイプのヤツだ。大学の軽音サークルとか覗いたらいっぱいいるヤツだ。そんで、連中は「やっぱり美化された青春はさあ…俺らにはなじめねえよ!おれたちは銀杏BOYZみたいな”本当の”青春にしか共感できね~んだよ!!」とか言って管を巻いていたりするのだ。

断言する。お前ら全員間違ってるぞ。

間違ってる!!断じて銀杏BOYZはてめーらの青春を表現してはいない!銀杏BOYZが歌う青春ってのはな、かんぺきに「幻影」なんだよ!!!むしろ、「青春を美化するバンド」の最も王道をいっているんだあいつらは!今日はてめーらを全員ぶっとばす!!ということで、今回は代表曲の「援助交際」をもとに、銀杏BOYZの聞き方ってものを俺様が教授してやる。正座して読め。(代表曲はBABYBABYだろ、とか言ってる奴は帰れ。あれはゴイステの曲だからな。)

まず、「援助交際」とはどんな曲か軽く説明しよう。これは2005年1月15日発売のアルバム「DOOR」の四曲目に収録された曲で、銀杏BOYZのその他の曲…「SKOOL KILL」とか「あの子に一ミリでもちょっかいかけたら殺す」とかと似たような、ってかほとんど同じようなコンセプトの曲だ。峯田も発売当時の雑誌で「あの曲は『君と僕との第三次世界大戦的恋愛革命※』の『SKOOL KILL』と対応させるために作った曲だ」って言ってた記憶がある。確認は面倒なので各自でしてほしい。ごめんね...。
(※「DOOR」と同時発売のアルバム。)

では、とにかく歌詞を見ていこう。

あの娘を愛するためだけに 僕は生まれてきたの
あの娘を幸せにするためだけに 僕は生まれてきたの
とってもとってもとってもとっても大好きで
とってもとってもとってもとっても切なくて
自転車の変則をいちばん重くして
商店街を駆け抜けていくんだ

ここで「やっぱり援助交際の歌詞の良いところはここだよネ~」とかいうヤツがいたらぶっ飛ばそう。そんなわけあるか。てめーはこの曲を「純情だなあ、青春だなあ…」とか思って聞くんだろうが、絶対に、ちがーーう!!
だいたいてめーは「逆説の後に重要な情報が来ますよ」などということを現代文の授業かなんかで習わなかったのか??この直後に「だけど」って続くのを何だと思ってるんだ??この曲は言うまでもなくストーリー型の歌詞だが、まだ「起承転結」の「起」だぞオイ。

だけど 悲しい噂を聞いた
あの娘が 淫乱だなんて嘘さ
僕の愛がどうか届きますように
ああ 世界が滅びてしまう

はい。いつもの流れですね。さっきも言ったように「君と僕の~」と「DOOR」のなかにはこういう曲が多い。「あの子のことがとても好きなのに、恋は実らない…」みたいなヤツ。聞く順番によっては「またですか(笑)」ってなる。でもいい。こういうことって「現実に」よくあるもんね。「リアルな恋愛」だよね…。

ところで、俺たちはこのBメロの歌詞から、主人公がどんなヤツなのかというのを読み取ることができる。これはどいつもこいつも見落としているが「僕」が「あの娘」を好きだということと、「あの娘」が援助交際をしているということの間には、ほんらい何の関係もない。「あの娘」が援助交際をしているらしい__というのは「だから何?」と一蹴してもいいことなのだ。
「いやいやどういうことですか、好きな子が援助交際してたら嫌でしょ」というヤツがいるかもしれない。だけど俺様がここで指摘したいのはつまり、「『僕』は『あの娘』を理想化して愛していた」ということなのだ。理想化していたからこそ、その理想がガラガラと崩壊して、「世界が壊れてしまう」のだ。いい年こいて銀杏BOYZなんか聞いている軟弱な諸君には難しいかもしれないが、おれたちは恋愛するとき、ついつい相手に自分の理想を押し付けてしまう...。ほんとうは好きな子がどんな漫画を読もうがどんな人間とつるもうが、それこそ援助交際しようが俺たちのあずかり知るところではないのだ。おれ達は「なんとなく」大人になっていくにつれ、このへんの境界線を__好きな子が何しようが俺様の知ったことではないね、というラインを__把握していくのだが、とうぜんこの歌詞で想定されている「僕」は中高生かそこらのガキなので、そんな器用なことをできようハズもない。

だからこの曲の本質は「青春を生きる『僕』の一途さ、純情さ」などではまっったくない。むしろここで描かれているのは、『あの子』を勝手に聖母化して、勝手にその理想が崩れて、勝手にショックを受けて寝込んでしまう、そんな『僕』のきわめて身勝手な独りよがりな恋愛なのだ。

この「女性の聖母化」というきわめて銀杏BOYZ的なテーマは、その他の曲のなかでも「天使」という言葉が多用されているところから簡単に見て取れる。すくなくとも峯田の書く詩(私)世界のなかでは「女性」というのは僕の前に現れた「天使」なのであって、彼女らはきっと「僕」を救済してくれるに違いないのだ。

眠れない夜をやさしく包む 恋のメロディ 
抱きしめて今夜だけこのままでいて
...あの娘はどこかの誰かと援助交際

はい、まあショックを受けて寝込んじゃいましたって感じで。まあ「僕」を抱きしめてくれるのは「あの娘」ではなくて「恋のメロディ」でしたってことですよね。つらくて眠れないときに自分を救ってくれるのは音楽だけだった、などという言い方をすれば聞こえはいいけど、やってることはただの現実逃避ですよねこれ。「音楽」って「かたち」がないんですよ、みなさん。ある意味でラブソングを聞いてやり過ごすというのは空虚な、じつに空虚な営みなんです。…それこそマスターベーションのように。

そして、そんな「僕」が現実逃避している間にも「あの娘」は援助交際をしている…かもしれない。しょせん「噂」だから、全然間違っているかもしれない。てかそんなことある?よりにもよって「あの娘」にかぎってそんなことある?「あの娘があまりに可愛いから、嫉妬したほかの女子がありもしない噂を流したんだろう…」とか、そんなことを「僕」は考えているんじゃないでしょうか。とはいえ、そうやっていくら自分を安心させる理由を考えたところで、事態は一向に改善しないのですが。

この「あの娘はどこかの誰かと援助交際」という一節には、「僕」と「あの娘」とが完璧に断絶された存在であることが読み取れる。これはどうしても推測になってしまうが、きっと「僕」は「あの娘」と話したことなんか、ない。教室のまん中で他の女子と仲良さそうに話している、そんな姿を見て勝手に「あの娘を愛するためにぼくは生まれてきたんだ」と想いを募らせているだけなのだ。「僕」は勝手に好きになっただけなのに…。

さて、この「援助交際」という曲を、ゼロ年代に登場した「セカイ系」の亜種として捉えることは、もちろん可能である。というか、批評するとしたらそういう文脈で語るのはたぶん避けられないだろう。「君と僕との第三次世界大戦的恋愛革命」なんてアルバムのタイトルなんかもう「私たちはセカイ系ですよ」という看板を掲げているようなものだ。

そしてこれもいくらでも言えることだが、銀杏BOYZは、セカイ系であるがゆえに、敗北した。セカイ系が衰退していくとともに、峯田もまた消沈し、そして峯田以外のメンバーが全員脱退してしまうなどといった悲劇につながってしまった。
しかし、銀杏BOYZの敗北の原因を単にセカイ系の衰退だけに関係づけて語るのは、じつは本質を見逃している。たとえばこう言うこともできよう。かりにセカイ系の作品作りに行き詰まってしまっただけならば、かつて峯田がゴイステから銀杏にかけてその詩世界をおおきく変貌させたように、またあたらしい方向へ(たとえば、日常系に?笑)変貌させればよかっただけのことなのではないのか。峯田は案外に器用な作家であるから、不可能ではないはずだ____いや、断じて否。峯田が、銀杏BOYZが敗北してしまったのは、そんな歌詞の世界観などといった表層の問題ではなく、もっと構造的な問題を抱えていたからなのだ。それは、銀杏BOYZの描く「青春」というものが、しょせん「青春」を振り返ることでしか語れない、峯田の描いた幻想だったからだ。

銀杏BOYZは青春パンクじゃない。みんな銀杏BOYZを青春パンクのバンドとして語ろうとするが、全然青春パンクじゃない。しいていうなら、「青春についてのパンク」だ。「青春パンク」は、Going Steadyにこそふさわしい称号だ。とくに初期。だって銀杏BOYZになったらもうさ、峯田は青春してないでしょ。てかゴイズテの後期でもう終わってるでしょ。「青春」。

ゴイステ時代からある曲で、まあ「君と僕の~」にも収録されているんだけど、「青春時代」という曲がある。あたりまえだが、「青春」という言葉は青春が終わった人間にしか__あるいは青春を外から眺める人間にしか__語りえないものだ。これは当然のことだ。「青春」の真っただ中にいる人間は、自分達が「青春」していることを認識できない。認識してしまった瞬間に、そいつの「青春」は終わる。

これはブルーハーツからハイロウズへの変化を語るときにも言えることだが、連中が「青春」ということばを使ったとき、もう彼らの青春は終わって、「大人」になってしまったんだ。

だから銀杏BOYZの語る「青春」というのはもう峯田の振り返った先にしかない、幻影としての青春なのだ。峯田が中高生のクソみたいな恋愛の唄を歌っているとき、それはもうオッサンになってしまった峯田の、たましいの叫びで、本気の憧憬なのだ。あのクソみたいな青春時代は、もう彼の手には戻ってこない、絶対に戻ってこないあこがれの時代なのだ。「童貞ソー・ヤング」を発表したとき峯田はもうすでに童貞じゃなくなっていた。雑誌の中で彼は言った...「ぼくはもう童貞じゃないけど、童貞の心は持っている」…しかし、もはや童貞ではない男が「若者よ、童貞を誇れ!」と叫ぶときの気持ちとはどのようなものだろうか?

だから銀杏BOYZは俺たちに何も新しいものを提供してくれはしない。「彼らは世界を変えることができない」。彼らが俺たちに新しい生き方を提示してくれる、などということはない。彼らが実際にもたらしてくれるのは、憂鬱や鬱憤をギャンギャンに歪ませたギターで晴らす方法だけ。演奏する彼らと、聞くおれたちの関係は、ポルノによく似ている。

俺たちがポルノに手を伸ばしても、けして女性の肉体に触れることはできないように、おれたちが銀杏BOYZに涙し、歌ったところで「ほんとうの青春」は戻ってこない。ちょうど俺たちが流行りのJPOPを「美化された恋愛しか歌ってない」と小ばかにするとき、銀杏BOYZもまた、「美化された青春しか歌っていない」。ちょうどおれたちが蛇蝎のように嫌う「流行りのJPOP」を、銀杏BOYZは反転させただけに過ぎない。ただ、逆にしただけ。

いいか?峯田は別におれ達の気持ちを代弁してくれてるわけじゃない。峯田の書く詩は全くもって「ホンモノ」なんかじゃない。ただ、勝手に峯田のことを天使だと思って、勝手に救済してくれると思って、それで勝手に涙流してるだけ。「峯田だけは俺の気持ちを分かってくれる...。」なんてことは初めからないんだ。俺も、君も、そしてみんなも、峯田に勝手に理想像を投影してただけだったんだよ。

ただ、それがわかったところで、もうどうしようもない。結局俺たちは、銀杏BOYZが好きだから。


こうやって俺たちは、なんとなく大人になってしまう。どうしようもない現実に直面しながら。たえず「世界」を崩壊させながら。そのときはまた、音楽が俺たちの心を癒してくれるのだろう、まるで「僕」のように。あるいはまた、ポルノを見るときのように。


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