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弘法の渡し。山形県鶴岡市。グーグルマップをゆく①

 暇に任せてグーグルマップを開き、適当にピンを立ててみた。山形県鶴岡市にピンが立つ。

 鶴岡市は山形県の日本海側の庄内地方の都市である。
山形県の県庁所在地である山形市よりも大きく、面積は山形県で最も大きい。

 それもそのはずで、元々は庄内藩という独立した藩であり、北前船の寄港地であった。北前船は江戸期に海運として最も栄えた商業であり、当時の庄内藩が潤っていたであろうことは容易に想像がつく。港では常に多くの人で賑わい、活気があったであろう。商売をする大人たちや船を待つ子どもたちの声まで聞こえてくるようである。

 現在は山形県であるが、山形市とは民度が全く違う気質と考えて良さそうである。

 その鶴岡市から山形市にかけて六十里越街道という街道がある。この街道は、参勤交代にも使われていたという庄内藩と内陸を結ぶ主要街道であった。

 六十里越街道は湯殿山から月山を通って山形市に抜けるが、湯殿山は古来から山岳信仰の対象とされており、特に室町期から江戸期にかけて、湯殿山を目指す参詣者で賑わったらしい。その中に、弘法の渡しというものが目に入った。弘法大師こと空海が建てた言われる祠であった。

 この辺りには空海伝説が多く残っているらしいが、空海が東北までやってきたという記録は残っていないので、あくまで伝説の域を出ないだろう。
しかしながら、空海の消息には空白の7年という全く何をしていたか不明な時期があり、その間に来た可能性も否定はできないので、全くの出鱈目とも否定はできない。

 ただ、湯殿山は、月山、羽黒山と共に出羽三山の一つに数えられ、修験道地でもある。修験道は飛鳥期の役小角が創始したと言われているが、平安期以降の日本において空海の開いた真言密教の影響が大きく、鎌倉期には高野聖が全国を行脚しながら仏教の教えや祈祷を行ったた。そのうちの一人が湯殿山にやってきて、空海の使いとでも名乗ったのかもしれない。

 20年近く昔、月山という森敦氏の文学作品を読んだことがあるが、内容はすでに忘れており、その月山が山形県であったことに今更気づく。そんなことを考えながら、空想旅行終えるのであった。

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