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八戸市と踊りとせんべい。青森県八戸市。グーグルマップをゆく #51
グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は、友人にタップしてもらってピンが立った青森県八戸市。
南部師行
青森、岩手は南部氏が作り上げた言ってよく、甲斐南部氏が源頼朝より北東北を賜り、南北朝時代に移り住んだのが始まりである。南部氏の庶流である南部師行は、糠部郡の郡代として当地にやってきた人である。
「とんでもなく寒いところにやってきた」と思ったに違いない。寒いところでは稲作は難しく、古代に稲作が九州が入ってきたが東北に達するまではかなりの時間を要している。
師行が入植した頃には稲作は行われていたが、稲作よりも寒さに強い、稗、粟、そばが主に作られた。ただ、海が近いため、内陸ではなかなか食べれないほどの海産物が手に入った。八戸港は、江戸期になると江戸との貿易拠点となるほどに発展する。
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日本の銅像探偵団より転載
えんぶり
日本中世における武士とは半分農民のようなもので、戦のない時は畑仕事をして過ごした。南部氏とその家臣たちもそうだったのだろう。海産物がよく取れると言っても、日本は米で経済を回しており、やはり米が必要である。しかし、米を作ろうにもなかなか育たない。そこで人々は田楽を踊って豊作を祈った。
田楽とは、平安期に田植え前に豊作を願って踊られた舞であり、これがのちの「えんぶり」となる。えんぶりという名前の由来は、田をならす農具である「えぶり」や、ゆすぶるという意味の「いぶり」だと言われているが、どれも正しいのかもしれない。
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八戸市公式サイトより転載
南部せんべい
南北朝期、長慶天皇という天皇がこの地にやってきた際、天皇に食べて頂く食糧もなく、困り果てた家臣が近くの農家からそば粉と胡麻をもらい、それらを水で混ぜて練ったものを、自らの鉄兜で焼いた天皇に出した。これが南部せんべいの始まりとされている。
武士の兜は戦の時に鍋として使用された。縄に味噌を染み込ませたものを携帯し、兜を逆さにして水を注いでに火かけて味噌汁にした。とにかく、食料を何とかせねばならないと必死であったのだろう。何とかそばを村々を変えずり回ってそば粉を手に入れ、兜で即席の食料を作ったわけである。天皇のために何とか食べるものを調達しなければならないとひっ迫する家臣の奮闘ぶりが目に見えるようである。
その後、各家で小麦粉を水で溶いて塩を入れ、平く焼いて食したものらしい。
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VISIT HACHINOHEより転載
おわりに
グーグルマップ上で見ると、八戸は東北の中でも平地が多く海から近い。住みやすそうに見えるが、その分海風が綺麗に吹き荒ぶで寒いのだろう。えんぶりにしても南部せんべいにしても、甲斐からやってきた南部氏とその家臣たちが慣れない寒さの中で何とか試行錯誤して生きようとした想いが伝わってくるようである。